第2章 人間とその位置づけ

1.人は何故自分自身を問うか

これまで述べてきたものをまとめますと、人間は、生物として、自己自身とその環境を開発しなければならないという課題を自己の本質的宿命として負っているということです。

このことはまた、たとえば倫理的には、人間が自分の人生の課題を、その与えられた環境、時、場所、能力、などの諸条件を負いつつ、それらを自分自身で開発し、その人生を切り開いていかなければならないことでもあります。

「生きること」そのものは、人間にとっては物理的にも精神的にも最大の課題です。だから、人はいつも、自分がどう生きるのかと問わざるを得ません。

そして、その生存のために、自分自身とその環境の開発の明瞭な認識を求めて、存在の根源的な意味とその目標を問う問いとして、人は、「人間とは何か」と問わざるを得ないのです。

言い換えれば、良く言われるように、「人間とは、『人間とは何か』と問う生物」なのです。

そして、これが人間論の出発点なのです。

従って、この問いは、当然のことながら、古代ギリシャの思想家たちを引き合いに出すまでもなく、人間が自らを「人間」として意識し始めた瞬間から始まり、人間の精神的営為の痕跡としての思想史の本底流として長い歴史過程をもっています。

しかし、われわれがここで、この現代において、明瞭に認識しておかなければならないことは、この「人間とは何か」という古くて新しい問いが、常にあらゆる人間の営みの源泉と最終段階を問う問いとして立ち現われるということです。

諸科学の研究成果は、常に、ここに集約され、ここから始まります。なぜなら、諸科学を営むものは、その「人間」に他ならないからです。

しかも、人間が自らを問うこの問いは、常に未決定の問題として、人間が人間である限り、また人間であろうとする限り、自己の根底と目標を問う根源的で永続的な問いとして発されます。

人間が自分自身とその環境の開発を宿命として負うということは、人間は「人間であると同時に人間であろうとする存在」に他ならないことを意味します。

だから、この問いは常に未決定の開かれた問いです。人間はいつも、その置かれている環境の中で、その到達した段階で、この問いの前に立たされ続けます。

なぜなら、人間の存在そのものが未決定の過程の中に置かれたものとしてしか存在しえないからです。

人間は未決定の生物として存在しています。人間はいつも「存在と生成の過程」の中に置かれているのです。

それ故、「人間とは何か」という問いは、たとえば、生物学的にその分子構造の結合法則や遺伝子の進化の過程をたどるにせよ、哲学や心理学が通常行うように、人間の精神思想史の歴史的経緯をたどるにせよ、幼児期の感覚的自己意識からの発達段階をたどるにせよ、常に人間存在の基盤と目的の両方をその射程として持つのです。

人が自分自身の宿命を問うのは、そういう理由からですし、「もう少しましな人間でありたい」と願うのも、その未決定性に由来するのです。

自分自身と環境を開発するように宿命づけられた人間は常に未決定です。そして、それが、人間学の構造基盤となるのです。

(続く)

- A Promenade of Western Thought - K.Wiseman, O.Mai 著
Note

☆人間論に入って、少し語調に難解さが出てきたかもしれませんが、この部分はいわば「序論」にあたり、ここでの序論は、ある意味では本論の集約でもありますので、忍耐をもっておつきあい下さればと願います。

☆「人間は未決定である」と僕はいつも思います。だから、人はいつも新しく始めなければならないし、また始めることができるのではないでしょうか。

☆最近の人間学は、たいていは生物学的な人間の記述から始まります。これは、人間の遺伝子の構造が科学的に解析された現代では、ますます顕著になるでしょう。

☆人間についての科学的知識は驚異的に増大しました。しかし、その知識の集約で人間を語り尽くせるわけではありません。人間は、それらの認識を常に越えています。なぜなら、それらの知識を内包させているのが人間だからです。

☆それにしてもやはり、「人間とは不思議なもの」ではありますね。

Index

第一章
宇宙(世界)と人間

第二章
人間とその位置づけ

第三章
人間と社会

第四章
人間と教育

第五章
知識と言語

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