第3章 人間と社会

2.「国家」の思想(15)

10.国家論の二つの流れと課題

  これまで、古代ギリシャから現代に至るまでの様々な国家論を見てきましたが、これらを総合すると、国家論には二つの大きな流れがあることに気づきます。

 ひとつは、国家においては全体的な統制や統合が必要であり、集団や組織体としての国家の絶対的な主権の必要性を説くもので、おおむね、プラトンからニーチェに至る流れの中にあるものです。

 人間の不平等性は本質的な事柄であり、人間は他の動植物と同じように自然淘汰の中におかれているのだから、社会的な自然淘汰もまた必要不可欠である、というのが、その基本にはあります。

 この場合、国民や組織を形成する構成員のひとりひとりは、社会講座の中で、自分の地位を適切に占めなければならず、ある者が支配者となり、他の者が被支配者となるのは、自然で正しいことになります。

そして、個々人の豊かさは、組織や国家の豊かさによってもたらされ、保証され、支配者はその豊かさを導くのだから、被支配者は支配者に服従すべきであると主張します。

 これらの国家論の人々は、当然、民主主義や個々人の自由と平等を説く思想を受け付けません。

 この国家論の中で、プラトンは、まだましな方ですが、民主主義を無政府状態に至るものとして否定し、英知を持った哲人君主による統治を主張し、人々はきちんと整合された組織の中で各人の役割を果たすべきだと考えたのです。

プラトンが描いた哲人は、もちろん、理想的な人間の姿ではありますが、基本的な線では、全体主義的な傾向を持つものでした。

 ヘーゲルは、さらに、諸国家や諸集団の中には、他のものよりも優れた組織体系を持つものがあり、その優れた国家や集団が他の国家や集団を支配すべきだと考えました。それが歴史の必然であると彼は主張したのです。

西欧の植民地主義やナチス・ドイツは、その国家観の最たるものでしたし、現代の「驕る強いアメリカ」も、「自由と平等の民主主義」の旗を振りつつも、その根底には、この思想があります。

 他方、もう一つの流れを持つ国家論は、ロックやルソーなどに代表されるような個人の自由と平等を最大限に広げる国家論です。これは、これまで見てきましたように、ルネッサンスから近代にかけて、人間の尊厳が認識され、人間中心的思想が形成されてから生まれてきたものです。

基本的には、フランス革命やアメリカ独立宣言にみられるように、すべての人間が生まれながらに自由と平等を持ち、創造者である神によって一定の権利を与えられており、その権利は、いかなる状況下でも、何者も奪うことができない、ということを認めるものです。

奪い取ることができない「与えられている権利」ということで考えられてきたものは、主に、「生命、自由、幸福の追求」ということですし、国家権力を制限し、個人の労働の自由と労働の報酬を守る自由を拡大することでした。

これは、人間中心的な国家論の一つの理想ではありますが、ここには根本的に解決を要する問題もあります。

つまり、本質的に不平等な存在でしかない人間の何をもって平等とするか、という「平等概念」の明確化と、個人の自由を極端にまで認めるということであれば、たとえば、強者が強者のままで自由を主張することは弱者の圧迫をまねき、極端な個人主義によって、かえって、支配−被支配の関係が強められたり、社会的差別を肯定することがでてきたりします。

国家による全面的な統治や規制を行うにしろ、あるいは、個人の自由を拡大するにしろ、基本的な倫理の問題を棚上げすれば、社会や組織は滅びますし、両方とも、圧迫、抑圧、非自由、そして貧困を生んでいくのです。

 そこで、多くの場合、個人も集団や組織も、それぞれにとって繁栄をもたらすような組織内自由のあり方が模索されてきました。もちろん、その解決は、まだ見いだされていません。

 しかし、ここで改めて、国家ということを考えます。なぜなら、これまでの国家の枠組みは、すでに消滅しつつあるからです。たとえば、現代では、物流を含めた経済活動は国家の枠を越えて行われます。

毎日の食卓に乗る魚はロシア産やノルウェー産、アラスカ産だったりしますし、野菜はアメリカ産や中国、東南アジア産です。現代生活に不可欠な電気はアラブ産の石油を使います。

インターネットの世界は、いながらにして、世界中の人々との情報の交換を可能にしました。インターネットに、これまでの国家論を持ち込むのは、もはや滑稽な話です。ジョン・レノンが歌った「国境なき世界」は、各家庭の小さなパソコンを通して実行されています。

 それでも、人間は本質的に社会的存在であり、生きていく上で、何らかの集団や組織を必要としていますから、個人と組織や国家との関係を整えていく必要があります。

 ここで、僕は、カントの道徳律の定式を思い起こすのですが、簡単に言えば、「あなたがよいと思うことが、全体にとっても良いことであるように行動すべき」ということなのですが、具体的な組織形態のあれこれを考える上で、極めて有効ではないかと思っているのです。

 これまで、人間と社会の問題を、家族、国家という主題で見てきました。僕自身は、今のところ、僕の国家論を展開する時間的な余裕を持っていないのですが、国家論としてではなく、社会論として語るべきだろうとは思っています。

次回から、いよいよ、第4章「人間と教育」の問題に移りたいと思っています。現代日本の教育事情は、実に寒い限りですが、社会の基礎は教育でもありますね。現代の学校教育がどこから出てきたかを探るのは意味のあることだと思っています。

- A Promenade of Western Thought - K.Wiseman 著

Note

☆このメルマガで書いてきましたことも、かなりの量になってきましたが、ようやく当初の計画の半分近くになりました。第1号を改めて読み返してみて、ずいぶん無謀で荒削りな計画を立てたものだと思っています。

☆メルマガの性質上、それぞれの事柄で十分に論を尽くしているのではないのですが、いくつかの課題が浮かび上がってきたのではないかとは思っています。辛抱強く読んでくださっている方々には、改めてお礼を申し上げます。

☆それぞれの項目は、もっと細かな論議が必要ですが、このメルマガの目的は全体像を捕まえることですので、時折、僕の思考を停止させて、次に進んだりしています。その意味でも、国家論は、やはり、いずれは書くべきでしょうね。

☆現在の社会状況を見ていますと、「現代日本よ、どこへいく」という思いに捕らわれます。先日、アフガニスタンにいる友人が、アフガニスタンの憲法制定の話を書き送ってくれましたが、「民主」ということで意味するものも違いを感じたりいたします。

☆いずれにしても、皆さんと同じように、世界が平和で豊かな地となることを切望しています。

☆寒いですね。インフルエンザのきざしもあります。風邪など引かないように、暖かくしてお過ごし下さい。

Index

第一章
宇宙(世界)と人間

第二章
人間とその位置づけ

第三章
人間と社会

第四章
人間と教育

第五章
知識と言語

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