世界の思想 vol.1_No.69-90

- キルケゴールのソクラテス理解(4) -

K. Wiseman 様:

お変わりありませんか。

このところ風邪で少し体調を崩していました。今年の風邪は、やはり、お腹にくるようです。どうぞ、Wiseman様もお気をつけてお過ごし下さい。

さて、キルケゴールのソクラテス理解についてですが、わたしはこれまでのことを次のようにまとめてみました。いかがでしょうか。

キルケゴールの全思想の出発点ともなり、また彼の実存弁証法の最初の対局として位置づけられるソクラテスについての理解とその位置づけを、キルケゴールは『イロニーの概念』で確立しました。

そして、それと同時に、歴史的に伝承され、また解釈されてきたソクラテス像を明瞭に統一しようとしたのではないかと思われます。

その統一のための視座や焦点、あるいは判断の基準の中で、キルケゴールは自らの思想を展開しています。

人が、キルケゴールを語る場合に自己自身を語らざるを得ないように、ソクラテスを語る場合にも、人は自己自身を語らなければならないからでしょう。真の思想家や哲学者とは、そうした存在ではないでしょうか。

ですから、キルケゴールもまた、ソクラテスを語りつつ自己自身を語っているのです。だが、先に触れましたように、キルケゴールは『イロニーの概念』を、その後の彼の他の著作とは異なって学位論文として書いています。

それはこの書物が始めから終わりまで学位論文の形式に従って書かれているということですが、キルケゴールはこの形式を踏襲し、ソクラテスの思想的意義を明確にし、それを「イロニー」という概念で定式化しようとしました。

「ソクラテスはイロニーである。」これがキルケゴールの理解ではないかと思います。

でも、その意味は大変複雑です。わたしはその意味をこれから考えたいと思いますが、いかがでしょうか。

まとめるまでの時間も残り少なくなりましたので、取り急ぎ、内容だけのメールになりました非礼をお許し下さい。

お返事をお待ちしています。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メールのご質問、拝見しました。お体の具合は、その後いかがですか。

これまでのこと、簡潔にまとめられていると思います。そして、「ソクラテスがイロニーである」ことは何を意味するか。これが問題ですね。ソクラテスは、知の最高段階に位置する人ですから、知の最高段階がイロニーであるということは、「知」をもって主体的に生きようとすることにとっては重要なことのような気がいたします。

また、「哲学者は自らを語る」というのも、その通りでしょうね。特にキルケゴールのような思想家は、自己の実存を追求しましたのでその色彩が濃いのでしょう。

この後どのように展開されるのか、期待しています。風邪、早く治ると良いですね。簡単ですが、お返事まで。

−K. Wiseman−

K. Wiseman 様:

さっそくご返事を下さり、ありがとうございました。Eメールは早いですね。時代のありがたさをつくずく思います。

さて、「ソクラテスはイロニーである」ということの意味ですが、キルケゴールは、ソクラテスについて述べるに当たって、これまで歴史的に述べられてきたことに独自の光を当て、それを統合しようとしました。

彼はまず、ソクラテスに関して残されている資料の比較検討を始めています。この方法は、これが学位論文として提出されることを目的としていることと関係しているのでしょうね。

彼は初めに、ソクラテスの無罪性を主張するあまりにソクラテスを通常のソフィストたちと同様か、あるいは常識人として描き、それによってソクラテスを弁護しようとしたクセノポンの『ソクラテスの思い出(ソクラテスの弁明)』を取り上げ、「クセノポンの意図とはすなわち、ソクラテスを死罪にしたことはアテナイの人々の天人共に許さざる非道であったと示すことであった」と明言します。

クセノポンがソクラテスの姿を描き出す意図は、まさにキルケゴールが指摘するとおりです。ソクラテスの弁護そのものでした。その点においては、プラトンの『ソクラテスの弁明』も同様の意図を持って記されています。

しかし、クセノポンは、その弁護をソクラテスに敵対して告発した者の論理に従って、直接的にそれを行おうとしました。

ここに、ソクラテスに対する誤解が生じると、キルケゴールは指摘します。

彼は、「クセノポンはソクラテスが無罪とされるばかりでなく無害ともされるような仕方で彼を弁護している」と言います。

あるいは、「クセノポンは実際に、ソクラテスから危険なものをすべて取り除いてしまうことで、察するにソクラテスが度々他の人々のもとでそうしたことのお返しとしてでもあろうか、結局はソクラテスをまるで馬鹿ばかしいものへ還元してしまったのである」と批判します。

あるいはまた、ソクラテスの死についての解釈も、「クセノポンでは、同様に貧弱で、同様に偏狭なものとなっている。このことは、クセノポンにおいては、ソクラテスが自分が今死なねばならぬということのうちにある喜ばしいものを、老齢の衰弱と重荷から開放されることのうちに見ていると言うように示されている」と指摘します。

ある独自の存在を人々が理解できるようにするために、その人々の有限の地平にまで引きずりおろし、あるいは通常の人間の経験の地平にまで引きずりおろし、その独自性を解消してしまったとしたら、その人の存在は、無意味な、ただの退屈な人間へと変わりますよね。

クセノポンのソクラテス理解の誤りはここにある、と言うのです。つまり、クセノポンのソクラテスは、どこにでもある、どこまでも理解しうる有限の地平に留まっているソクラテスである、と言うのです。クセノポンのソクラテスは「計り知ることができる者」の一人なのです。

独自性は独自性によってしか真の理解には到達しないのかもしれません。独自のものを凡庸さの地平に引きずりおろす時、人は独自のものを安易に殺してしまうのでしょう。

この続きは、まだありますが、長くなりますので、また書くことにいたします。風邪はすっかり良くなりました。Wiseman様もお元気で。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メールを拝見し、人間の独自性は独自性によってしか理解できないというあなたの視座は、真に当を得たものであるように思いました。

キルケゴールのクセノポン批判には、ソクラテスという、ただ一回限りの、他と類比することなど不可能な、その人の存在なしにはその人の思想も存在し得ないような、普遍化できない独自性をもつ人間としてのソクラテス、というキルケゴールのソクラテスの位置づけが横たわっているように思われます。

人間の実存というのは、真の実存に到達すればそうなるでしょうね。その意味では、キルケゴールのソクラテス理解は、極めて実存的ですね。

このような独自性と実存に対する視座は、後の『哲学的断片』では、イエス・キリストについて語られるときにも出てきています。

キルケゴール自身が絶えず周囲の無理解の中に置かれましたから、この視座は生涯彼を支えたかもしれませんね。

いずれにしろ、大変おもしろく、また重要でもありますので、続きを期待しています。

お元気で日々をお過ごし下さい。ではまた。

−K. Wiseman−

Wiseman様:

メール、ありがとうございました。キルケゴールが周囲の無理解の中で実存を深めた、ということは、どこか勇気を与えてくれます。

わたしはキリスト教徒ではありませんので、イエス・キリストについてどのように考えたらよいのかわかりませんが、イエスは、新約聖書が提示するところに従って言えば、歴史上一回限りの、他と類比できない唯一の、彼なしにはすべてが無に帰すような存在であるということになりますね。

このイエスについての解釈が正しいかどうかも分かりませんが、キルケゴールがイエス・キリストを「実存の独自性」の手本のように考えていたことは分かるような気がいたします。

そういえば、キルケゴールがクセノポンのソクラテスを批判するとき、その基準となっているキルケゴールのソクラテスは、まるで、アテネのイエスのようですね。

それはともかく、キルケゴールは、同様の視点で、クセノポンのソクラテス理解と対局をなすプラトンが描くソクラテスも批判しています。

プラトンはソクラテスを「無知の知を知る者」として描くことによって、「イデアを内在する者」としてソクラテスを描いています。プラトンのソクラテスは「知のイデアそのもの」と言っても過言ではないかもしれません。

キルケゴールは、「プラトンでは、ソクラテスはまさに物事をたえず、彼の取り巻き連中がそこにおいて見ている偶然的な具象性から引き出して抽象的なるものへと導いていく者」であると言います。

実際、プラトンのソクラテスは、その対話において彼の産婆術を駆使しながら相手を真理へと導いていく教師そのものです。

彼は、自ら何も知らないということから出発ししながら、実際は何でも知っている教師のように振る舞います。そこでは、なるほど「ソクラテス以上の知者はこの世に存在しない」のです。

キルケゴールは、このような「イデアを内在させる者」、あるいは「イデアそのもの」として描くプラトンのソクラテス理解を批判するのです。

なぜなら、もしプラトンのソクラテス理解をそのまま押し進めていくとすれば、ソクラテスは神的存在以外の何者でもなくなるからです。

キルケゴールにとって、ソクラテスは、人間の精神の最高の段階を具現する者でありながらも、なお、人間の地平に留まる者だからです。

ソクラテスは、人間の知性の最高の段階を現実化する唯一の独自の存在でありつつも、なお、「人間」の次元にあるものにほかなりません。ソクラテスは、キルケゴールが使った仮名で言うとすれば、「ヨハネス・クリマクス」なのです。

キルケゴールのプラトン批判は、クセノポン批判とは逆に、プラトンがソクラテスをあまりに神格化しすぎる、というのです。

それでは、そのソクラテスとは何者か。

知の最高の段階でありつつ、なおかつ人間の実存の地平に留まる者。そのソクラテスをキルケゴールは、「イロニー」そのものであると言のです。

今回、また、長いメールになってしまいましたので、続きはまたにします。
いつも、おつきあいくださり、丁寧に読んで下さることを感謝しています。
今までのところで、もし間違っているところがありましたら、ご指摘下さいませ。

感謝しつつ、御自愛下さい。

−読者のMaiより−

☆学校の哲学の講義のように、だれか他の人の説を鸚鵡返しに語る人を、あるいは重箱の隅をつつくような批判を展開する人を、僕は「思想家」と呼ぶことはできません。哲学者は自らを語る、のです。

☆「天才は天才を知る」という言葉がありますが、思想家や哲学者の独自性は、その思想や哲学がどんなに普遍性を持ち、人々に広く理解されたとしても、やはり、独自性によってしか理解されないのかもしれません。

☆最近、「呼応」や「感応」ということを考えます。そして、呼応できる人は真に希有な存在ですね。もし、生涯においてそのような人と出会うことができれば、これ以上の幸いはないのかもしれません。

☆ただ、その「呼応」は独自性の響き合いによってしか生まれないかもしれませんね。自らを持たない人には無関係のことでしょう。

☆矮小化もせず、神格化もせず、ありのままをありのままに、しかも深く理解するというのは難しいことですね。

☆プラトンにとってソクラテスは最高に敬愛すべき師でしたので、幾分の神格化はやむを得ないところでしょうね。ただ、彼のソクラテス絶賛ぶりは並はずれているところもあり、キルケゴールのようにキリストの存在を視野にいれれば、その神格化を差し引くことができますので、案外、リアルな姿が浮かんでくるのかもしれません。

☆人間や思想の理解には、学問の手順としても客観的観察が必要不可欠ですが、ただ、僕は正しい理解にはその人物や思想を愛するということも不可欠ではないかと思ったりします。

☆その意味で、ソクラテスという人をどのように位置づけるかという問題は別にしても、プラトンのソクラテスへの傾倒ぶりは、僕は好きではあります。

☆「イデアを内在させる者。」これは、いつも宇宙の広大さを内在させたいと願う僕の理想ではあります。