世界の思想 vol.1_No.69-90

- キルケゴールのソクラテス理解(3) -

親愛なるWiseman 様:

風の便りでは、風邪を引かれたとお聞きいたしましたが、その後いかがでしょうか。大したことがなければよいがと思っています。

さて、『イロニーの概念』のキルケゴールにおける思想定位置づけについてですが、初めにお断りしなければならないのは、短時間の内に膨大な執筆をなしたキルケゴールの全思想を短く要約するようなことは、無謀な行為ではないかと思っています。

一般には、彼の思想は、人間が実存していること、今ここに生きていることを焦点にして人間の主体性の問題を取り扱っっていますので、「実存思想」と呼ばれうるかもしれません。

また、その最終目標はキリスト教が伝えてきた真理、人間の「永遠の幸い」、「救い」ですから、宗教思想と呼ぶことも可能であるでしょう。あるいは、「宗教哲学」や「哲学」と簡単に呼ぶことも可能でしょう。

しかし、わたしは、それらのいずれにしても、ある特定の概念や形でキルケゴールの思想を規定すれば、その規定の隙間から、彼の思想がぽろぽろとこぼれ落ちていくような気がいたします。

それほど、彼の思想は繊細で、複雑であり、また大きくもあると思うからです。ですから、Wisemanさんが指摘してくださったように、彼の一つ一つの作品に表された思想は、常に全体の中で顧みられる必要があるとわたしも思います。

彼の思想の営為は、具体的には、1843年の『あれか−これか』から始まる一連の、綿密に計画され、つぎつぎと出版されていった著作活動の中に散りばめられています。

ソクラテスを学問的に取り扱ったマギスター学位論文『イロニーの概念−たえずソクラテスを顧みて』は、先に触れましたたように、1841年にコペンハーゲン大学に提出されたものですから、彼の一連の著作活動の以前に書かれたものです。

従って、年代的に見るなら、『イロニーの概念』は、彼の一連の著作とは別個に独立しているように見えるのです。

文学類型としても、『イロニーの概念』は哲学の学位論文であり、一連の著作活動の最初である『あれか−これか』は、むしろ文学作品です。

彼が、一連の著作活動において実名で出版した『講話』は、キリスト教の聖書の言葉の深い意味を説き明かしたものであり、キルケゴール自身は「キリスト教講話」であると厳密に規定していますが、ある意味では教会で語られる『説教』そのものです。

しかし、キルケゴールの仮名著作の中で、その仮名著者の中で高位の段階にいるものとして使用したヨハネス・クリマクス(「クリマクス」は英語のクライマックスに当たり、梯子を一段ずつ上った最高の段階)が記したとする『哲学的断片』は、構造的にはソクラテスとイエス・キリストとの対話でもありますね。

『哲学的断片』は、「真理とは何か、また、人はその真理をいかに獲得できるか」をめぐって、非キリスト教を代表するソクラテスとキリスト教の真理を具現するイエスを対置させるものでしょう。

その意味では、『哲学的断片』は、ソクラテスを直接取り扱った『イロニーの概念』の延長にあることがわかります。

この点については、Wisemanさんは、どのようにお考えでしょうか。わたしのキルケゴール理解は、ここを出発点にしていますし、出発点をきちんと定めておくことは何においても重要なことだと思いますので、まず、この点はどうかな、と思っています。

お忙しいとは存じますが、ご返事をいただければ幸いです。でも、けっして無理をされませんように。お体の方が大切です。健康に注意してお過ごし下さい。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メール、拝見いたしました。僕の風邪は大したことはありませんが、今年の風邪は「しつこい」みたいですね。

さて、『哲学的断片』が『イロニーの概念』の延長にあるというのは、的を得たご意見だろうと思います。

問題は「どのような延長にあるのか」ということですね。これは、どのようにお考えでしょうか。

取り急ぎ、返事いたします。まとめられたら、また、お書きくだされば幸いです。お元気で。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman 様:

さっそくのご返事、ありがとうございました。わたしは、キルケゴールの「思想的延長」を次のように考えています。

かって、ソクラテスは、自らが何事かを知っていると思っているソフィストを初めとする知者たちとの対話において、彼らが知っていると思っている命題についての意見を論述させ、その一つ一つを分析し、その論理的整合性を問い、結局は、彼らが何も知らないという「無知」を引き出しました。

『哲学的断片』では、このソフィストの位置にソクラテスを置き、「人間は自己自身について何も知らない」という「無知」を命題として述べさせ、今度はイエスが、その命題についてのソクラテスの意見を一つ一つ分析し、「人間は自己自身について何事かを知っている」という「知」を引き出そうとしているように思われるのです。

ソクラテスのイロニーの方法をソクラテス自身に適用し、「知」を暴露させると言ってもいいのではないでしょうか。

『哲学的断片』は、こうして「知、すなわち人間の内部に真理がある」というソクラテス的思想を否定し、真理が人間の外から人間に与えられるものとして存在していることを示すものです。

同じヨハネス・クリマクスの名を使い、キルケゴールの全思想のターニングポイントであると自らが規定した『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』は、この『哲学的断片』から導き出された「今、ここで生きている実存の主体性の問題」を論じたものです。そして、ここでもまた、ソクラテス的思想が対置されています。

これらはすべて『イロニーの概念』によって提示されていることの展開であるように思われます。

こうしたことから考えれば、『イロニーの概念』こそがキルケゴール思想の出発点であると言えるのではないかと思うのです。そして、このことはキルケゴールが感じ続けていた時代の要請の思想的展開ではないかとも思います。

でも、今日はもう時間がありませんので、これについては今度書くことにしましょう。

いろいろと本当にありがとうございます。時節柄、御自愛下さい。
ではまた。

−読者のMaiより−

親愛なるWiseman 様:

まだまだ寒さが厳しいのですが、お元気でしょうか。

先日、キルケゴールを学ぶためにはどうしてもキリスト教会を知っておこうと思い、キルケゴールと同じプロテスタントのルター派の教会を訪ねてみました。

地方の小さな教会でしたが、そこの牧師をされている方が、偶然、このメルマガの読者であることが分かり、驚きました。

「宗教」そのものはあまり好きではないのですが、ときどき訪ねてみようかと思っています。

さて、前回のメールでは、キルケゴールの『イロニーの概念』が、彼の思想の出発点であり、方向づけであることを述べましたが、キルケゴールが自らの思想の出発点にソクラテスを置いたのは、「思想の段階」を示すと同時に、当時の精神的・思想的風潮への批判もあったのではないでしょうか。

キルケゴールが生きた19世紀半ばの西欧、特にデンマークにおいては、思想史的にはロマン主義から現実主義へと移行していく時代であると言われています。

一方では、自然科学の驚異的な発達に見られるように、人間と人間の内部に「人間の可能性」が存在することが盲目的に信じられ、「可能性」が賞賛され、賛美されていました。

人間の精神の解放性は手放しで賞賛されました。

人間の可能性を信じる者は、その可能性を押し進めることによって真理に到達し、真理を獲得することが可能であるという前提をもっています。

キルケゴールは、こうした時代の精神風潮をソクラテスを見ることによって根本から問い直そうとしたのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

わたしのこの前提について、Wiseman さんは、どのようにお考えになるでしょう。

取り急ぎ書き進める前に、メールいたしました。お時間を取って下さることに心から感謝して。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

なかなか鋭いご指摘のメール、ありがとうございました。キルケゴールを見てみますと、彼が時代の精神風潮というものに敏感であった思想家であることは疑い得ないことでしょう。

彼は『現代の批判』という時代精神を直接取り扱った書物も書いていますが、特に、当時のデンマークの思想界の主流を占めたヘーゲル主義に対して、常にこれを意識していたようです。

実際に、ドイツでヘーゲル思想に触れたこともありますね。人間の可能性を信じ、これを押し進めることによって真理に到達できるという楽観的歴史主義を代表するものがヘーゲルとヘーゲル主義者たちであると見ていたようです。

彼がソクラテスを取り上げたのも、おそらく、人間に可能性が「ありや、なしや」を問題にしたかったからでしょう。

そのことについて、少しお考えになると、彼のソクラテスの位置づけもよくわかるのかもしれませんね。

取り急ぎ、内容だけしたためました。お元気でお過ごし下さい。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman様:

お忙しい中、メールを書いてくださり、ありがとうございました。元気で過ごしています。

時代精神の中で、なぜ、キルケゴールがソクラテスを取り上げたかについてですが、次のように考えてみました。

ソクラテスが用いた真理獲得のための弁証法、産婆術と呼ばれるものは、対話する相手、つまり人間の中に何事かがあることを前提とし、それを引き出すことを前提としていますね。

それは人間の中に可能性と真理が内在していることを前提とすることによって始めて可能となるものでしょう。

人間の無知性を引き出しつつも、無知の知を語り、「知」を語ることによって人間の理性に絶対的な「信」を置いたソクラテスは、人間の中に可能性と真理が内在することを信じた道を歩む者のうち、最高の段階の思想を具現する者に他なりません。

つまり、「可能性を信じる者」の代表そのものです。しかしその姿は、ヘーゲルの歴史的進歩主義とは全く異なっています。

それは、ヘーゲルの歴史的弁証法とは異なったキルケゴールの実存弁証法の姿ではないかと思うのです。

キルケゴールは、『イロニーの概念』の時点では、そうした意識を持っていたのではないかと思います。

しかし、やがて彼は、その可能性に絶望していきます。それが『哲学的断片』でのソクラテスとイエスとの対置に繋がるのではないでしょうか。

幾分、話しが複層してきましたが、要は、その時代の人々が信じていた楽観主義をキルケゴールは危険なものと感じていたということでしょう。

現代もまた、楽観主義の時代ですが、現実の中でどうあがいてもどうにもならないものを感じていたキルケゴールの感性は深くて鋭いと、わたしは思うのですが、どうでしょうか。

以上のような背景から、いよいよ、キルケゴールがソクラテスをどう理解したかを次回から考えてみたいと思います。

いろいろありがとうございます。わたしの研究もこれから「本論」となります。ご指導下さることを感謝しています。

寒さが厳しい折、お体に注意してお過ごし下さいますよう。
ではまた。

−読者のMaiより−

☆その人が用いた概念や思想が、その人の全体の中でどのように位置づけられているのかを見るのは重要な視点の一つでしょう。

☆特に、現代のように「断片」ばかりの時代ではなおさらです。そして、表面や現象として現れるのは、いつもこの断片ですから、断片を見る視座が必要ですね。

☆また、表された断片をつなぎ合わせても全体は見えません。ちょうどモザイク画のようで、遠くから眺めてみたり、近くで分析してみたりしないと全体像もその繋がりも解りません。

☆人はよく「思想の一貫性」を求めたがりますが、思想の一貫性は、その思想が乗り越えられて、何らかの客観的視座が与えられた時にしか見えてこないのかもしれません。

☆たとえば具体的なあれこれの人の場合、死や別離によって、その人やその人との直接的な繋がりがなくなった場合かもしれません。もっともそれも取り上げるに価する場合に限りますが。

☆『哲学的断片』や『結びとしての非学問的後書き』については、このメルマガのバックナンバーを公開していますので、そちらをご覧いただければ幸いです。

☆時代の精神的風潮というものは、思想家なり哲学者には色濃く影響します。哲学は普遍的問題を取り扱うので、時代や状況とは無関係であると考えられがちですが、優れた独創的な哲学者ほど「時代精神」を感じ、また考えます。

☆問題は、それに流されないことです。私たちが「普通」に考えたり感じたりしてることは、多くの場合には、単に時代の風潮に流されただけのものが多いからです。

☆「時代・状況を見分ける」というのは、それがどんな時代であり、どんな状況なのかをよく見ることですが、そこで、時代にあったものを考えることではなく、そこで真実に進むべき道を探すということで、ある場合には時代精神と逆行する道を歩むこともありますね。

☆「今の時代はこういう時代だから、こうしなければ」と良く耳にしますが、こういう意見で聞くに価する意見に出会うことは少ないような気もします。

☆今、これまで進んできた合理的楽観主義に、社会状況的に陰りが見え始めています。これを打ち壊すのは、「主体性の思想」かもしれないと改めて思うことがありますね。

☆次回から、この往復メールの形で進めてきたことの「本論」です。一気に書け、また、読めないのが残念ですが。