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親愛なるWiseman様:
今年も残りわずかとなりましたが、お変わりありませんか。大学は冬休みに入り、学内の図書館も明日までしか使えなくなりました。
わたしのキルケゴールにおけるソクラテス理解の研究も、何とかこの冬休みの間には目鼻を付けて、一応の顔として見ることができるようにはしたいと思っているのですが、やはり、年末の細々したことに時間を割かれてしまいます。
さて、『イロニーの概念』の直接の動機についてですが、わたしは、キルケゴールが唯一尊敬して止まなかったコペンハーゲン大学の哲学教授ポール・マルティン・メーラー教授が1838年に亡くなり、哲学教授の席が空白のままに置かれていたことではないかと思います。
つまり、キルケゴールは、この学位論文の提出による学位の取得によってその席を獲得したいと願っていたのではないでしょうか。
1831年、18歳でコペンハーゲン大学の神学部に入学した彼は、神学と文学の学びを続ける中で、これまで自分を育んでくれた伝統的キリスト教が揺らいでいることを実感し、それと同時に、「真の自己」を発見しようともがき始めましたね。
神学の諸講義を受講する傍ら、学生の文学サークルのメンバーとなり、そこでアンデルセンとも知り合っています。
しかし、次第に神学への情熱を失い、1835年8月1日、ギーレライエで、今では彼の「実存宣言」として有名になった、次のような言葉を日記に書き残しています。
「私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきか、ということについて、私自身、はっきりわかっていないということだ。・・・つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが重要なのだ。
すなわち神は、私が何をなすべきことを本当に欲しておられるのか。これを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを心から願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。・・・
さあサイコロは投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!きっとこの道は私を闘争へと導くだろう。しかし私はそれを拒絶はしないだろう。」
これが、彼が日記に書き残した言葉ですが、伝統的な教えや観念、思想にあぐらをかいて座り込み、他の人々がしているのと同じことをして納得したり、他の人の賛同を得て安心したりするのではなく、「私にとって真理であるような真理」を発見し、それに従って生きることを、彼はここで語ります。
青年キルケゴールは、そう決断し、人生を彷徨して行きました。彼のそれまでの目標は、父ミカエルが望み、優秀な兄ペーターが歩いたように、神学国家試験に合格し、牧師になることでした。
しかし、既存のキリスト教を批判的に研究するようになり、文学へとのめり込むようになります。
ゲーテの『ファースト』を読み、『ドン・ジュアンニ』を研究し、アンデルセンの『徒歩旅行』から知った『彷徨えるユダヤ人アハスヴェルス』について考えていきます。
そして、ついに、彼は神学国家試験の勉強を中断し、牧師への道を自ら閉ざしていきました。
人生の具体的な目標であった神学研究によって牧師となる道を閉ざし、哲学と文学にのめり込み、「自分にとって真理となるような真理」、つまり、主体的真理を追究し、自己を追求していきましたが、現実的には、心を閉ざして浮き草のような生活を繰り返し、3年近くの日々を無為に過ごしてしまうのです。
1838年までの学生生活で、製本屋、喫茶店、レストラン、たばこ屋、書店、洋服屋からの借金総額は1262リークスダーラーにまでふくれあがっていました。
この金額は、当時の大学教授の2年分の年俸に当たる額ですね。彼はこの借金を1835年1月に父親に支払ってもらっています。
そして、1838年3月、コペンハーゲン大学神学部に入学して7年後、キルケゴールの才能を唯一認め、彼を指導し、支持してきたメーラー教授が死去し、彼は唯一の師を失います。
メーラー教授は、放蕩生活を続けるキルケゴールを心配し、何度か注意を与えると同時に、才能と血気にはやるキルケゴールに客観的思考の方法を教えた人でした。
キルケゴールは、学問上にも、人生においても、彼を師と仰ぎ、信頼を寄せていたと思います。そして彼は、この師を失うのです。
たった一人でいいから「師」と呼べる信頼できる人があるということは、人生にとって極めて意義のあることです。
大学は「出会いの場」と言われますが、「師」との出会いは学問研究のみならず、思想性や生き方そのものへ大きな影響を与えますね。
ただ、今日の日本の大学ではこのような深い出会いは奇異のことになったような気もします。
あっ、今回はわたしのメールがとても長くなりました。これはもう少し続くのですが、続きはこの次に書くことにいたしましょう。お返事は、この続きを書いた後でけっこうです。
年末年始、少しゆっくりできますか。健康に注意してお過ごし下さい。
ではまた。
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