世界の思想 vol.1_No.69-90

- ソクラテスの重要性 -

親愛なるWiseman 様:

ずいぶん寒くなりましたが、お変わりありませんか。天気予報では、今夜あたり雪だそうです。

ソクラテスの知的誠実さについて、「知に対する信頼」ということが、知識そのものではなく、知への姿勢であることがよくわかりました。

ただ、私は思うのですが、もし現代にソクラテスが生きたとしたら、やはり現代でも同じように、ソクラテスはその知のゆえに苦しめられたかもしれませんね。

ですから、ソクラテスの現代的意義、のようなものを考えておく必要があるような気がしますが、どうでしょうか。

今夜はあまり時間がなくて、わたしの考えを書くことができませんが、いま、それを考えています。

お体に注意して、お過ごしください。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メール、ありがとうございました。こちらも朝晩はとても冷えます。僕は寒いのがどうも苦手ですので、暖房器具をフル活動させています。

さて、ソクラテスの現代的意義を考えることは、もちろん、一考に価することですし、これなしにソクラテスの理解も深まらないでしょうね。

人間の精神的営為の高みとしてのソクラテスは、現代の私たちにも重要な問いを投げかける者として存在しているように思います。

それにはまず、、時代や状況的なことも見てみるといいかもしれません。

今週は本当に冷えるそうですので、風邪などひかれませんよう暖かくお過ごしください。 ではまた。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman 様:

お返事、ありがとうございました。お変わりなくお過ごしのこと、嬉しく思います。

ソクラテスが生きた時代や状況と現代の状況では、その社会の形や生活、そして、、もちろん人間の知識の量も、圧倒的に異なっていますが、わたしは、現代の精神的・文化的状況がソクラテスの時代と類似していることに気づくかさせられます。

ソクラテスの少し前の古代ギリシャは、ピタゴラス学派やデモクリトスのような原子論者に代表されるように、自然についての科学的知識の探求の時代でした。

ピタゴラス学派の人々は、世界は数字で表すことができると考え、数理論を形成しましたし、デモクリトスは、世界の最小単位をアトム(原子)と定め、世界のすべてが原子の結合体であると主張しています。

一方、ソフィストの一人、プロタゴラスが「人間はすべての者の尺度である」と明言したように、個人の自由と独立性が協調されるあまり、徹底的な個人主義が広がってもいました。

政治的にも道徳的にも腐敗と混乱が進行したとも言われますね。

現代もまた、おおよそ19世紀に西欧で始まった自然科学のめざましい発展によって膨大な量の自然に関する知識が獲得され、原子物理学は原子の構造を解き明かし、天文学は私たちが生息する宇宙の彼方まで見据え、生物学は人間の遺伝子、ヒトゲノムの構造さえ明らかにしました。

これらは、古代ギリシャの先人たちと同じように、科学的に合理的な理性の追求の賜物だと思います。

ピタゴラス学派が考えたように、コンピューターは数字の世界であり、その数字によって実際に世界を表すことさえできるようになりましたし、コンピューターの中でのヴァーチャルといわれる世界さえ構築できるようになりました。

そして、一方では、あらゆる価値観が多様化し、個人の自由と独立性が「人間の尊厳」の名によって主張され、さらに徹底した個人主義、自己中心主義が横行しています。

政治的腐敗や社会的混乱が絶えず起きているのは言うまでもないことですね。

ソクラテスは、紀元前5世紀のそうした状況下で登場し、「汝自身を知れ」という人間の自己認識から始まる「知」の向かうべき方向性を示し、人間の精神の高みを具現しました。

ですから、このソクラテス的「知」のあり方は、客観的科学的合理主義とあくなき自然への探求によって得られる膨大な知識、そして徹底した個人主義で混迷を深めてきた現代の精神状況に、すべての「知」のあり方を示唆してくれているのではないかと思うのです。

現代もまた、ソクラテス的知性の統合が必要なのではないかと思います。ソクラテスの時代的・状況的重要性について、わたしはそう思っています。

またまた、長いメールになってしまいました。お忙しいのに、読んでくださることをとても感謝しています。

ソクラテスの意義については、もう少しあると思いますが、今日はこの辺で。
お元気でお過ごしください。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

本当に寒くなりましたね。お変わりありませんか。

秋から始まったこのメールでの「キルケゴールのソクラテス理解」ですが、ソクラテスが現代の精神性にとっても重要であることを考えてきましたね。

それが、キルケゴールの思想を理解する上でも重要なことだと思うからですが、前回、O. Maiさんは「知的誠実さ」ということを書いてくださいましたね。

それは本当に重要なことだと僕も思いますが、現代にとってソクラテスの重要性はもう少しあるということでしたね。

それは何でしょう。

冬の夜は、静かに、ソクラテス、そして自分に向き合うこともなかなかいいものです。でも風邪など引かれませんように。
ではまた。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman様:

メール、ありがとうございました。静かに静かに冬の夜が更けていきます。
お元気で何よりです。

現代でのソクラテスの重要性で、わたしが考えます二つ目のことは、ちょうどこのメールの往来で始まったような、真理の探究における弁証法的対話の必要性です。

人間は言葉によってものごとを考えますし、言葉は基本的に他の人とのコミュニケーションをするためのものですから、人間は本質的に対話的存在であるのではないでしょうか。

あっ、この場合の「他の人」というのは、自分の中にある自分自身ということも含んでいるのですが。

人は自分自身、あるいは他者との対話によって、その精神的行為を行っていますよね。

ですから、対話のない精神は、何も考えていないか、死滅しているかのどちらかであるだろう、とわたしは思います。

そして、弁証法的対話は、その真理の探究の過程で、いくつかの段階を踏まえながら進んでいくような対話ですね。

弁証法的な対話は、自分自身であれ他者であれ、対話における理解に応じて進みますよね。正、反、合という形で。

人間の精神は、この段階を踏まえることなしに、直接的に、一息に理解の領域に進むことはできないのではないでしょうか。

ところが、即時的で直接性を求める現代では、それぞれの段階に応じて真理の探究を進めていくような対話が欠落しやすいですね。

現代人は、思考の過程ではなく、結果だけを求め、その得られた結果には、それはすでに結果なのですから、当然、対話のようにすすんでいくことは存在しませんよね。

そして、結果だけということであれば、人間が死という限界をもつ存在である以上、死があくまでも生の結果である以上、生が究極的には死の空しさに飲み込まれてしまうように、対話的進展のない結果は空しさに飲み込まれるのではないでしょうか。

ですから、人間の最高の精神を具現するソクラテスが、徹頭徹尾、対話的人間であったことを、本当の対話がなかなか起こることのない現代では、特に想起しなければならないことではないかと思うのです。

プラトンがソクラテスを描くのに『対話編』という形を取った理由もそこにあるように思われるのです。

ソクラテスが「産婆術」と呼ばれる独特の対話を繰り返したのも、そこに理由があると思うのです。

相手の主張をまず受け入れ、それとは違うことを提示し、新しい理解を引き出そうとするソクラテスの産婆術は、弁証法そのものですね。

わたしがソクラテスの意義を考える時に重要だと思うことは、その対話です。
現代では、おしゃべりはたくさんあっても、真の対話があまりにも少ないし、またできなくなっているのではないかと思うからです。

またまた、長いメールになりましたが、いかがでしょうか。寒い冬の日々、お元気でお過ごしくださいますよう。ありがとうございました。
今夜はこのへんで失礼して、また書きます。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

ソクラテスの現代的意義についての2回目のメール、拝見しました。知識の導くところにはどこまでも行こうとする「知的誠実さ」と弁証法的対話の2点をあげられましたが、この2点だけでも、ソクラテスの存在は現代に置いても重要であることがよく理解されていると、僕は思います。

その意味でも、彼は、今なお生ける哲学者であると言えるでしょうね。

19世紀の中頃、S.キルケゴールは、このソクラテスの存在の重要性に気づいたのだろうと思います。

そして、ソクラテスをもって自らの思想の出発点に置き、20世紀に大きな影響を与えた実存思想という独自の思想を展開しました。

だから、キルケゴールの思想の鍵は彼のソクラテス理解にあるとも言えますね。

ですから、キルケゴールがそのことに気づいて、直接ソクラテスを取り扱った修士論文『イロニーの概念』は、その意味でもキルケゴールの出発点であるのかもしれません。

次回、その『イロニーの概念』そのものを考えてみられてはいかがでしょうか。「知的誠実さ」や「弁証法的対話」の理解も深まるのではないかと思っています。

よい日々をお過ごしください。ではまた。

−K. Wiseman−

☆知識という点では、現代の知の状況は、すごく膨大であると同時に比較的整然と体系化され、整理されています。これは、ソクラテスの時代のソフィストたちが乱立した状況とは異なっています。

☆しかし、知性を持つ人間のあり方という点では、昔も今も変わらないのかもしれません。知識が生き生きと命をもつ「知」なのか、それとも、死んだ知識として累積されているだけなのか、これが問題なのかもしれません。

☆知の統合ということを、僕はずっと考えてきて、これを倫理学を含めた人間学の中で行いたいと思っているのですが、取り扱うべき分野が拡大して、肝心の統合がぼやけていくのを感じたりもします。

☆大切なことを見失わない、これはここでも言えることですね。僕が思考のペースをあえてゆっくりさせたいと自戒しているのは、そのためでもありますが、少しゆっくり過ぎるのかもしれませんね。

☆ソクラテスの対話は、真理を導き出すための対話で、無数のおしゃべりやチャットとは根本的に異なるものでした。

☆対話を対話たらしむるためには、いくつかの基本的なルールが必要です。第一には、ソクラテスが採っているように、対話によって追求されたものに誠実であろうとする姿勢です。

☆そして、対話には対話をするだけの内容を双方がもっているということも不可欠な要素になりますね。

☆第三に、共通に理解される言葉を使うということもあるでしょう。同じ言葉でもそれぞれに意味合いの違う概念で話すと、対話は空回りします。

☆その他にも、いくつかのルールがあるでしょうが、「対話」こそが人の人格というものを形成していくものであるに違いありません。

☆その意味で、対話は人間を生み出す「産婆」なのでしょうね。「対話」ができる人でありたいですね。