世界の思想 vol.1_No.69-90

- プラトンのソクラテス理解 -

Wiseman 様:

お変わりなくお過ごしでしょうか。巷のうわさでは風邪をひかれたと聞いていますが、その後いかがでしょうか。

ソクラテスの思想を直接考えるに当たって、わたしはプラトンが記しています『ソクラテスの弁明』から始めてみたいと思います。

プラトンは、ソクラテスの姿と思想を『パイドン』や『クリトン』などの、いわゆる『対話編』と呼ばれる著作で記していますが、その中で『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスがアテネの議会に告発を受け、裁判の過程におけるソクラテスの発言を中心に書かれたものですね。

もちろんここにはプラトンの脚色もありますが、ソクラテス自身が自らの思想活動を、その始めから終わりまで述べると言う点で、ソクラテス理解には不可欠のものだと思うからです。

プラトンはこの最後の弁明をするソクラテスの姿を劇中の主人公のようにして描いています。彼は舞台の真ん中に立ち、おもむろに、そして静かに、「アテネの人々よ」と呼びかけます。

この呼びかけのスタイルは、当時の議会における演説のスタイルでもあり、それはこれから重大なことが告げられることを意味するものです。

つまり、プラトンはソクラテスを重大な内容を内包する人間として位置づけるように思われるのです。

この「重大事を内包する人間」としてのソクラテスの理解は、プラトンの中では一貫していますね。

たとえば、ソクラテスの最後の様子を伝える『パイドン』の結びの言葉は、「これが、われわれの友−われわれに言わせれば、この今に巡り逢えた人々の内で、最もすぐれ、とりわけ最も思慮と正義に適った人−の最期である」と最高度の賛辞を贈っています。

ソクラテスは、プラトンによれば、「人間の重大事である最も深い思慮と正義を内包する人間」です。プラトンにとってソクラテスは、最も高い精神そのものに他ならないのでしょうね。

このことは、わたしには、ソクラテスの思想のあれこれよりも、ソクラテスその人自身のあり方が重要である、ということに気づかせてくれました。

思想の内容ももちろん問題でしょうが、思想をもつその人自身が重要であること、これは、知識と人格性が分離してしまった現代の知のあり方に反省を迫るものではないでしょうか。

知識が豊富でも「人間が卑しい」人が、わたしの大学にも山ほどおられるような気がするのです。Wisemanさんは、どう思われるでしょう。

あまり長くなると、風邪をひかれたお体にさわると思いますので、今日はこのへんで失礼します。

早くお元気になられますよう。ではまた。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

ソクラテスについてのメール、拝見いたしました。

思想そのもの以上に、思想をもつ人間が問題であり、重要であること。ソクラテスの存在は、まさにそのような存在でしたね。「知性」というのが、「知をもつ人格」であることを改めて考えさせられますね。

自らは無知を自認したソクラテスが「人間にとっての重大事を内包する」高い精神そのものであるというプラトンのソクラテスは、後にキルケゴールが指摘するソクラテスのアイロニーですね。

プラトンにとってソクラテスは人間の高い精神そのものを意味していたことは疑い得ないことでしょう。

『ソクラテスの弁明』のソクラテスは、丁度、円形劇場の真ん中に立つ中心人物のようですね。プラトンが、いわばデレクターとして配置したこの構造も考えてみるとおもしろいかもしれません。

僕の風邪はずいぶんよくなりましたが、あと少しというところでしょうか。 あなたも風邪をひかれませように。ではまた。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman様:

メール、ありがとうございました。もうお体はすっかりよいのでしょうか。先日、インターネットでWisemanを検索してみましたら300件以上のも件数が出て、どれが、このWisemanさんなのか、ますます混乱しました。

あまりこういう詮索はよくないですね。ところで、円形劇場ということで、『ソクラテスの弁明』の人々の配置を考えてみました。

『ソクラテスの弁明』では、精神の高みそのものであるソクラテスが、彼の敵対者たち、告発者たちの顔を見ながら、そして親しい人々や彼の教えを受けた青年たちを遠くに見ながら、さらにはその向こうにいる処刑の狂気に酔うアテネの人々、そしてさらには、これを読む「知的読者たち」を見ながら、 あたかも、同心円を遥かに貫いていく光線を放つように、自らの生涯と思想を語っていることがわかります。

彼が放つ光線は、それぞれの同心円上にいる人間の問題を明らかにしていくのですね。

そして、彼は「本当に正義のために戦おうとする者は、たとえ僅かの間でも命の保たれている限り、公人としてではなく、私人として行為しなければならない」と述べたとおり、一人のただの人間として、その同心円の真ん中に立っているのです。

精神の最高の具現者としてのソクラテスは、ここでは、キルケゴールの言葉を借りて言えば「単独者」として立っていると言っても良いかもしれません。

ただし、彼の眼前にあるのは、キルケゴールの言う「単独者」の場合の「神」ではなく、「人間」であり、知識を得たと思ってかえって非理性的になって「不徳」に陥っている人々ですが。

彼はそれらの人々を前に、「汝自身を知れ」という命題に従って「徳」に向かって歩む「知」の姿を明らかにしようとするのです。だからこそ、今、この「知」は人々の中にあって孤高の光を放つのでしょうね。

この姿を見て、わたしが思うことは、人は、その人が為しえた業績や成果、獲得した成功によって光を放つのではないということです。

なるほどそれらのものもある程度の光は放つが、それはあたかも銀がすぐに酸化して黒ずんでいくように闇に吸い込まれていくものでしかありません。

獲得された「知」の光、精神のありようの光だけが、存在を輝かすのではないでしょうか。それは外形や状況に依存しないものであるだけに真の光となるのでしょうね。

プラトンにとって、ソクラテスはこの「光」であり、「知のイデア」そのものとして受け取られているように思われます。

真の光は、自分を輝かそうとしなくても、自ずと光るのでしょうね。わたしもそのような知の光を獲得できればいいな、と思います。

お体を治されてから、また、いろいろとヒントをくだされば嬉しく思います。
あまりご無理をされませんように。ではまた。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メール、ありがとうございました。風邪の方はもうすっかりよくなり、日常に戻りました。ただ、今度の風邪は再来しますので、お互い、気をつけた方がいいですね。

さて、<プラトンにとって、ソクラテスはこの「光」であり、「知のイデア」そのものとして受け取られているように思われます。>と書いてくださいましたが、真にその通りでしょうね。

そこで、今度はソクラテスの「知」とは何か、ということが問題になります。 「知」と「知識」が分離してしまった現代では、なおさらこのことを考えてみる必要がありますね。

あなたのソクラテス理解が深まるよう願っています。
お元気でお過ごしください。ではまた。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman様:

お体の具合が良くなられたそうですが、あまり無理をされませんよう。でも、メール、ありがとうございました。

ソクラテスの「知」について、その弁明のスタイルから、私は次のようなことが言えるのではないかと思っています。

彼の弁明そのものは、当時の裁判の進行に従って、当面の告発内容に対する無罪の証明と、有罪が票決された後の刑の量刑をめぐる申し立てと、死刑判決後の告別的弁論に大別されますね。

そして、あたかも光がてらされることによって影が姿を現すように、知者と呼ばれる人々の無知性と、無知であることを知ること(無知の知)の重要性が訴えられています。

ソクラテスは、自分が無知であるということの自覚から始めて、できる限りの整合的な理性のあり方を人々に求めます。

人は自分が知り得た事柄に従って行動します。たとえば、あるところに安くてよい品物を売るお店があることを「知って」、そのお店に出かけます。

言葉を「知って」、言葉を語ります。知識は行動を促します。ですから、ものごとを正しく知ること、これこそが人間が生きる上で重要なこととなります。正しい知識こそが正しい行動の源である、ソクラテスはそう結論します。

ただ、その場合、ソクラテスの「正しく知ること」は、論理的な整合性を意味するものに他なりません。彼は、可能な限り合理的に、理性的に論を進めようとします。

だからこそ、彼は対話を重ね、その論理の整合性を貫こうとするのですね。そして、論理学でいう帰納法と演繹法を交えながら、知識の一貫性を求めたのです。

彼は具体的なことから始めて、それを普遍化する方向へと「知」を導こうとしました(帰納法)。そしてまた、普遍化されたものから具体的なことへと下ります(演繹法)。

その意味で、彼の対話は弁証法的です。ある一人の人の話を取り上げ、それを分析し、その矛盾を示し、さらにもう一人が、前者の矛盾と誤りを認めた上で自分の意見を陳述します。

プラトンの対話編はこの構成を取っていますが、ソクラテスはこの後者の矛盾も指摘し、こうして弁証法的に論理を進めて、誰もが認めることができる普遍に到達しようとするのです。

プラトンはこのソクラテスの対話で、さらに、それを読む読者がこれらの議論を通して、自分の見解を得るように仕組んでいるようにおもわれますが、それはソクラテスの弁証法(産婆術)を読者が自分のものとして獲得することを意味するものですね。

その意味でも、プラトンにとってソクラテスは「知の見本」でした。ソクラテスの弁明のスタイルに見られるソクラテスの「知」は、このような姿をもつ「知」ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

また、長くなりましたね。今夜はこのへんで失礼しますが、「知の整合性」とは、知的誠実さではないかと思います。これについては、また書きます。

いつもありがとうございます。今夜は冷えます。健康に注意してお過ごしください。ではまた。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メール、拝見しました。「知的誠実さ」は、「知」の、あるいは「知を求める人間」の生き方そのものの大きな課題ですね。

「知」と「知識」が分離したのは、この知的誠実さを失ったからかもしれません。そこに「知の誤魔化し」が生まれます。ソクラテスを学ぶと、自分の知のあり方が、本当に問われる気がいたします。

『ソクラテスの弁明』においてのソクラテスの最期の姿は、「自分の死後もアテネに名誉や金銭ではなく、知を求める活動が絶えないことを要望する」知的誠実者そのものの姿ですね。

対話においても、ソクラテスは「あなたがこれ以上先に進みたくないと思っているなら、この会話はこれまでです」と言って、対話者のもとを去りますが、この姿は、ソクラテスが、論理の導くところに従って、自分はどこまでも進んでいくという知的誠実者であることを示すものでしょう。

人は、多くの場合、自己保身や欲求、つまらない世俗的な配慮から論理の展開を途中で止めようとします。

それは「ある程度の安定や安心」を得ようとするからでしょう。しかし、ソクラテスは知性の導きに従ってどこまでも進もうとしました。「知」への絶対的信頼があるからですね。

「知」を信じ、その「知」に誠実であることによって絶えず求め続ける者、それがソクラテスなのでしょう。

僕もまた、そうしたソクラテスの姿に学びたいと願っています。

寒い冬の夜は、星の瞬きが美しく見えますね。風邪をひかれませんよう。 ではまた。

−K. Wiseman−

☆僕がソクラテスについて考えるたびに思うことは、その思想のあれこれの内容ではなく、思想をもって生きるということはどういうことか、ということです。

☆あるいは、知識とは、結局、人間にとって何なのか、ということです。明治以降に導入された日本の学校制度は、学校を階級の上昇手段として位置づけることによって定着してきました。

☆つまり、学校は資格や社会的ステータスとして作用したのです。「学歴」というのがそのような意味ですね。何を学んだかではなく、どこの学校を出たかが、この国の一般的な履歴書の中味となりました。

☆「知をもって生きるとはどういうことか」という知の反省は、残念ながらなされませんでした。

☆大学の入学案内に「〜の資格が取れます」ということを謳っている大学は、言い過ぎかもしれませんが、学ぶに価しない大学のような気さえします。

☆「知をもって生きるとはどういうことか」こそが、恐らく、最高の知なのかもしれません。

☆知り得たことに従ってどこまでも進んでいこうという「知的誠実さ」ということは、「妥協」ということにいつのまにか慣れてしまった僕に、いつも反省を迫ります。

☆「生活のためにする妥協」が、いろいろな仕事を引き受けさせますが、たとえそうせざるを得ない状況だとしても、この姿勢は、自分の人生を貫く柱としてもちたいなぁ、と思います。

☆真の対話ということは難しいことですね。ある方が、「深く青い湖を隠しもっている人は、話せばわかる、二言三言で」という詩を贈ってくださいました。真の対話は、その二言三言で成り立つと、僕は思うのですが、どうでしょうね。

☆対話には、深い意味を持つ沈黙が必要だと思いますし、僕自身がその沈黙の意味を感じ取れる人間であれたら、と願います。