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親愛なるWiseman 様:
メール、ありがとうございます。最近は、あまりご自分のことをお書きになりませんが、お元気でしょうか。
最近、大学の指導教官から「あなたの師は誰ですか」と聞かれ、「Mr. Wise-manです」と答えましたが、ご迷惑ではないですよね。
さて、キルケゴールがソクラテスを「イロニー」として受け取り直したのは、ご指摘のように、ソクラテスを人間の理性の到達しうる頂点と見なしたからだと、わたしも思います。
「イロニー」はあくまでも人間的なものであり、主体的な実存が、それ自体では到達できない超越の新しい世界を望みつつ、その限界にまで突き進んでいった時に現実に対して否定的に関わらざるを得ない姿の出現ですね。
現実に生きていて、なお、その現実の彼方にあるイデアから現実を見、さらにその具体的な現実からイデアを希求するものと言ってもいいでしょうね。
その意味では、ソクラテスは具体的のものから始めて抽象的・普遍的なことへと向かう近代理性の姿そのものであると同時に、自らの内にイデアを内在させないものとして規定することによって近代理性の批判者でもあるのでしょう。
少なくとも、キルケゴールのソクラテスはそのような者だと、わたしは思います。
キルケゴールが、そのような存在としてソクラテスを考えるとき、彼の中には、もう一つの最高の存在、プラトンの言葉を用いて言うならば、イデアそのもの、しかも、プラトンの言うイデアの影のような存在ではなく、人間の現実の中に突入したイデアそのものとしてのイエス・キリストの存在があったに違いないのです。
ソクラテスは偉大なる教師でしたし、そのソクラテスの姿をたえず顧みつつ、キルケゴールが『哲学的断片』で、それに対する真理へと導く真実の教師として、真理そのものでありながら、自らを低くして愛によって導く教師の姿を論述する時、それは、ナザレのイエスそのものを意味しています。
別の言い方をすれば、キリストの光の中でソクラテスを見てみれば、ソクラテスは「イロニー」そのものであるということなのです。
そして、ソクラテスは最もキリストに近い存在でありながらも、ソクラテスとキリストの間には「無限の質的差異」が横たわっているのです。
さらに言い換えれば、人は、自己自身を自覚して歩み始めようとするとき、ソクラテスのように主体的な生き方を歩むことができるのです。主体的存在は現実的にはまさにイロニーそのものとなります。
そうしてイエスに最も近い人間となることができるでしょう。しかし、人はそれ以上、「知」を用いて進むことができないのです。それ以上進むためには、「信じる」という実存の飛躍が必要なのですね。
キルケゴールが、後に、『哲学的断片への非学問的後書き』やその他の著作で用いた実存の三段階の用法に従って語るとすれば、美的段階から倫理的段階へと理性的に進んできた人間の最高峰に位置するのがソクラテスなのです。
ソクラテス的な存在は、その死において示したような絶対的な否定性というある意味での実存の飛躍によって、あるいは何らかの宗教性を獲得することによって、宗教性Aの段階にまで至ることができるかもしれません。
事実、キルケゴールはソクラテスを異教の代表者として規定しています。ここで言う「異教」とは、単にキリスト教以外の諸宗教や神なき哲学を指すのではなく、まさに「人間の次元」という意味です。
人間の理性の次元において、また理性的であることを追い求める次元において、ソクラテスはその最高峰に位置します。
しかし、ソクラテスは宗教性Aではありえても、決して宗教性Bには到達しない存在なのです。なぜなら、宗教性Bは、唯一、「信仰」によって到達されうるものだからです。
知の最高の段階は、宗教性Aではありえても、宗教性Bには至らない。これが、キルケゴールがソクラテスによって得た結論ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
わたしの『キルケゴールのソクラテス理解』も、もうあと少しで、結論部分に達したように思っています。キルケゴール自身は宗教性Bを求めていたのでしょうね。真実の平安を得るために。
また、わたしのメールは長くなりましたね。今夜はこのへんで失礼します。
いろいろとありがとうございます。
お体に注意してお過ごし下さいますよう。
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