世界の思想 vol.1_No.69-90

- キルケゴールのソクラテス理解(6) -

O. Mai 様:

キルケゴールがソクラテスをイロニーとして理解することの意味について、あなたがお考えになる「イロニーと自由」のメール、真にありがとうございました。

もう、こちらはすっかり春の気配が濃厚になってきました。お元気そうで、何よりです。

無知であることを知っている知においてイロニーであるソクラテスが、「無知」からも「知」からも自由であるという主張は、大変おもしろいと思いました。

このように、ソクラテスを「イロニー」として理解することによって、キルケゴールは人間の理性が到達しうる段階を示そうとしたのでしょうね。

キルケゴールにとって、人間は、ロマン主義やヘーゲル主義が信じたようには可能性やイデアを内包するものではなく、どこまでも限界をもつもの、宗教的な表現をすれば、罪あるもの、なのです。

人間の理性は、それがどんなに高みに上り詰めたとしても、限界を持つ。そしてこの理性の限界内で、理性の高みを極めたときに出現するものとして、あるいは無限と有限が相克するときに出現するものとして「イロニー」をとらえ、そのような存在としてソクラテスを位置づけたのでしょう。

一人の限界のある人間が無限を内包させようとするとき、彼は「イロニー」として逆説的に存在せざるを得ないのかもしれませんね。

彼は、理解と無理解の狭間にあるので、かなりつらいように見受けられますが、彼自身は、そういうことからも自由なのでしょう。

キルケゴールが人間の段階をどう考えたのかは、後になって明確になるのですが、この点を少し明確にするといいかもしれません。

とにかく、論文、なかなかいいものになりそうですね。期待していますが、あまり根を詰められると、論理にゆとりがなくなりますので、御自愛下さい。
ではまた。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman 様:

メール、ありがとうございます。最近は、あまりご自分のことをお書きになりませんが、お元気でしょうか。

最近、大学の指導教官から「あなたの師は誰ですか」と聞かれ、「Mr. Wise-manです」と答えましたが、ご迷惑ではないですよね。

さて、キルケゴールがソクラテスを「イロニー」として受け取り直したのは、ご指摘のように、ソクラテスを人間の理性の到達しうる頂点と見なしたからだと、わたしも思います。

「イロニー」はあくまでも人間的なものであり、主体的な実存が、それ自体では到達できない超越の新しい世界を望みつつ、その限界にまで突き進んでいった時に現実に対して否定的に関わらざるを得ない姿の出現ですね。

現実に生きていて、なお、その現実の彼方にあるイデアから現実を見、さらにその具体的な現実からイデアを希求するものと言ってもいいでしょうね。

その意味では、ソクラテスは具体的のものから始めて抽象的・普遍的なことへと向かう近代理性の姿そのものであると同時に、自らの内にイデアを内在させないものとして規定することによって近代理性の批判者でもあるのでしょう。

少なくとも、キルケゴールのソクラテスはそのような者だと、わたしは思います。

キルケゴールが、そのような存在としてソクラテスを考えるとき、彼の中には、もう一つの最高の存在、プラトンの言葉を用いて言うならば、イデアそのもの、しかも、プラトンの言うイデアの影のような存在ではなく、人間の現実の中に突入したイデアそのものとしてのイエス・キリストの存在があったに違いないのです。

ソクラテスは偉大なる教師でしたし、そのソクラテスの姿をたえず顧みつつ、キルケゴールが『哲学的断片』で、それに対する真理へと導く真実の教師として、真理そのものでありながら、自らを低くして愛によって導く教師の姿を論述する時、それは、ナザレのイエスそのものを意味しています。

別の言い方をすれば、キリストの光の中でソクラテスを見てみれば、ソクラテスは「イロニー」そのものであるということなのです。

そして、ソクラテスは最もキリストに近い存在でありながらも、ソクラテスとキリストの間には「無限の質的差異」が横たわっているのです。

さらに言い換えれば、人は、自己自身を自覚して歩み始めようとするとき、ソクラテスのように主体的な生き方を歩むことができるのです。主体的存在は現実的にはまさにイロニーそのものとなります。

そうしてイエスに最も近い人間となることができるでしょう。しかし、人はそれ以上、「知」を用いて進むことができないのです。それ以上進むためには、「信じる」という実存の飛躍が必要なのですね。

キルケゴールが、後に、『哲学的断片への非学問的後書き』やその他の著作で用いた実存の三段階の用法に従って語るとすれば、美的段階から倫理的段階へと理性的に進んできた人間の最高峰に位置するのがソクラテスなのです。

ソクラテス的な存在は、その死において示したような絶対的な否定性というある意味での実存の飛躍によって、あるいは何らかの宗教性を獲得することによって、宗教性Aの段階にまで至ることができるかもしれません。

事実、キルケゴールはソクラテスを異教の代表者として規定しています。ここで言う「異教」とは、単にキリスト教以外の諸宗教や神なき哲学を指すのではなく、まさに「人間の次元」という意味です。

人間の理性の次元において、また理性的であることを追い求める次元において、ソクラテスはその最高峰に位置します。

しかし、ソクラテスは宗教性Aではありえても、決して宗教性Bには到達しない存在なのです。なぜなら、宗教性Bは、唯一、「信仰」によって到達されうるものだからです。

知の最高の段階は、宗教性Aではありえても、宗教性Bには至らない。これが、キルケゴールがソクラテスによって得た結論ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

わたしの『キルケゴールのソクラテス理解』も、もうあと少しで、結論部分に達したように思っています。キルケゴール自身は宗教性Bを求めていたのでしょうね。真実の平安を得るために。

また、わたしのメールは長くなりましたね。今夜はこのへんで失礼します。
いろいろとありがとうございます。

お体に注意してお過ごし下さいますよう。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メール、ありがとうございました。いよいよ、キルケゴールのソクラテス理解の結論がでたようですね。

「知の最高の段階は、宗教性Aではありえても、宗教性Bには至らない。」

真にその通りかもしれません。そしてそれは、自分は決して宗教性Bには到達しないと考えていたキルケゴール自身の姿でもあったでしょう。また、それと同時に、「遥かにそれを望み見て喜ぶ(『ヘブル人への手紙』第13章)」ような生き方を貫く姿でもあったでしょうね。

ソクラテスは、人間の理性の最高の段階を示すと同時に人間の理性の限界を示す人間、哲学の最高峰であると同時に哲学の限界を規定する人間。

キルケゴールにとってソクラテスとはそのような人間であったに違いないのです。

だからこそ、キルケゴールはソクラテスを自分と重ねたのでしょうね。人間にとって「知」とは何か、と改めて考えさせられますね。

健康に留意して、お元気でお過ごし下さい。取り急ぎ。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman様:

お忙しい中、メールを書いてくださり、ありがとうございました。

「人間にとって知とは何か。」本当に考えさせられます。わたしのキルケゴールのまとめも、その問いを巡るものになるでしょうね。

まとめるにあたって、わたしは改めて彼の生涯を考えると、「晩秋のコペンハーゲンで、ただ一人の単独者たらんとした一人の思想家が、静かに、そして穏やかに42年の生涯に幕を閉じた」という一文が浮かんできました。

人間は時間的な存在で、一定の時を生きて必ず死しますが、それだからこそ、キルケゴールは、いかにしてその短い人生を生きるかが重要であると考え、そのことについて一生涯をかけて格闘した思想家であったと言えるでしょう。

キルケゴールの短い人生をたどるとき、その天才的な思索の深さと呼応して、ソクラテス的な姿が目に浮かびます。

彼は、常にソクラテスを見据え、ソクラテスに遡及し、思想の原点に位置するものとして、ソクラテスを置きました。

それによって、キルケゴールは、ひたすら、「知」を追及する客観的な思想家に対して、「生きることそのもの」に思索を傾ける思想家を主体的思想家と称し、自らそうあろうと苦闘したのです。

そして、彼は、その人生の最期まで「単独者」として生き抜きました。彼の実人生は、私達の想像を絶するような、あまりにも孤独で切ないものであったに違いないと思います。

キルケゴールは、人間の到達しうる三つの段階における、最終的段階として、宗教的段階を掲げました。

人が、自己の無力を悟り、この無力感と挫折のうちに、しかし、人生の真実の目標が別のところにあることを知るとき、その人生は、人間から神に移り、宗教的な段階に入る事ととなるというのです。

彼の言う宗教的段階は、「生ける神の御手に飛び込む事」によって、人間が救済される段階に他なりません。

だが、果たして、キルケゴール自身はその人生を安泰のうちに終わる事ができたのでしょうか。

わたしは、いつも、そのことが気にかかります。特に、キルケゴールの場合は、当時のデンマークの国教会との厳しい闘いの中にありましたから。

でも、キルケゴールの最期を看取った、甥のルンは次のように語っています。

「力のことごとくが次第に尽きていくなかで、死が姿を見せたのです。」と。

かつて、「全デンマークの牧師の敵」と罵られ、揶揄された戦いの人は、今は、まるで与えられた全人生を完全に生き抜いた人のように、穏やかな微笑を浮かべて横たわっていたのです。

それは、まさにプラトンが描いたソクラテスの最期の姿そのものでもありますね。その意味でも、真にキルケゴールは「デンマークのソクラテス」であり、しかも、ソクラテスを、その求める信仰の真理の故に越えた思想家であったのでしょう。

これで、わたしの論文も終わりです。いろいろ教えてくださり、ありがとうございました。

これからも、また、メールは差し上げたいと思いますが、お元気でお過ごし下さい。

−読者のMaiより−

☆最高の段階が限界をもつものであることを知りつつも、なお、その限界を極めようとすること。これは、まさに知の冒険ではあります。

☆しかし、知的誠実さとは、そのような道を歩くことではないでしょうか。

☆宗教性Aと宗教性Bについては、このメルマガで『哲学的断片への非学問的後書き』で触れました。関心があられる方は、バックナンバーを配信機関のサイトで見ることができますので、ご覧下されば幸いです。

☆そのバックナンバーは第34、35、36、37号前後となります。

☆「実存の三段階」というのは、キルケゴールの思想としてはよく知られたものですが、美的段階、倫理的段階、そして宗教的段階というものですね。ただ、大事なことはこの段階が明瞭に区別されているのではなく、人は美的であると同時に倫理的でもありうるという段階の混在にあります。

☆僕自身、真にこの三つが混在しているなぁ、と思います。