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親愛なるWiseman様:
お元気でしょうか。
お忙しい中でメールを書いてくださり、ありがとうございました。いつもいろいろと教えられるところが多いのですが、書いてくださるメールを拝見する度に、『ソフィーの世界』のソフィーになった気分です。
ことに、「より高いイデアを求めて、その高いイデアを知ってはいるが、まだ得ることができないために現実の自己を否定せざるを得ない存在を『イロニー』と呼ぶ」ということについて、「自己否定なきものは真理に到達できない」ということを示唆してくださいましたことは、考えさせられました。
そして、イデアを求めるものは永遠の求道者であるというプラトンの姿勢を思い起こしたりしました。
道は果てしなくても、人間の至高を求めて歩み続けることの中にこそ深い意味があるのだろうと思います。
「イロニー的な主体」にとって、現実は、それがイデアそのものではないために、否定されるべきものであり、イロニー的な主体はイデアそのものについては知らないが、現実がイデアにふさわしくないということだけを知っているのです。
自己否定の道は、こうして初めて意味を持つのでしょうね。
人が自己自身というものを自覚して主体的に生きようとするとき、初めに生まれてくる自覚が現実に対しての否定的なものだということは、心理学でも周知の事実です。
ですから、キルケゴールは、主体はいつでも世界に対して「イロニー」として存在するというのでしょう。
「イロニーこそが主体性の規定」なのであり、主体性は、常に、世界の現実に対して「イロニー」として存在するのでしょうね。
イデアというものを求めれば、人はそうなりますし、イデアを求めることなしには、人はその生の意味を深めることができないのも事実だと思います。
キルケゴールはこのことに関し、「イロニーが主体性の規定であるなら、それはまた主体性がはじめて世界史に登場するときに現れるに違いない。すなわち、イロニーは主体性の最初の、そして最も抽象的な規定なのである。このことは、主体性がはじめて登場した歴史的転換点を示唆するものであり、それによって我々は今やソクラテスに到達したわけである」と言っています。
つまり、ソクラテスは「汝自身を知れ」という命題に従って、新しく「自己自身」という主体性をもって世界に登場しました。
彼が「自己自身」という主体性をもつ限りにおいて、彼にとっては、それまでのギリシャ精神は妥当性を失い、否定されるべきものでしかないものとして映ります。
彼は現実を否定しますが、それにもかかわらず、その否定の根拠となる「自己自身」については、彼は何も知りません。だから、ソクラテスはイロニー的でなければならないのです。
彼は無知でしたが、教師のようにたえず人を導き、啓蒙しようとしました。
彼は無知を装いながら、他人を教えました。これがソクラテス的イロニーの一側面ですね。
ソクラテスは、自分は無知であると言いながらも、自分が無知であることを知っていたのだから、やはり知っていたのです。
しかし、それは何かについての知識というのではなく、現実に対して否定的な作用を起こす「知」です。だからこそ、それは「イロニー」なのです。それ故にまた、ソクラテスのイロニーは弁証法的な対話のスタイルでもあるのです。
キルケゴールは、ソクラテスの「無知の知」をイロニーとして理解することによって、「彼の無知は、それによって彼があらゆる知を滅却する無なのである。このことは、死についての彼の考え方から最もよく見て取ることができる。彼は、死がなにであるか、また死後には何があるのか、そこには〈なにものか〉があるのかそれともまったくの〈無〉か、と言うことについて無知であり、そういうわけで彼は無知である。
しかし、この無知を彼はそれ以上に気にかけはしない。知るどころか、彼はこの無知において自分がまさに真に自由だと感じている」と言っています。
その理解に従えば、ソクラテスは、そのイロニーによって、全くの自由であり、死からさえも、「死が何であるかを知らないことを自分が知っていることによって」自由であり、死に捕らわれることなく、主体性がもたらす無限の絶対的否定に生きた人、ということになりますね。
まさに、「イロニーにおいて主体は否定的に自由なのである。」と言うとおりです。
ソクラテスは、イロニーであることによって「知」からも「無知」からも自由です。あるいは、自由であることによってイロニーであるとも言えるでしょう。
わたしはソクラテスの知恵と自由さを自分のものにしたいと願います。「主体性がわたしを自由にする。」この言葉を心に刻みたいと思うのです。
メール、とても長くなってしまいました。いつでも結構ですので、書いたことにご批判をいただければ嬉しく思います。
お元気でお過ごし下さい。
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