世界の思想 vol.1_No.69-90

- キルケゴールのソクラテス理解(5) -

O. Mai 様:

このところ春の暖かさを、ほんの少しですが、感じることができるような日が多くなりましたね。

しばらくメールの返事を書くことができませんでしたが、お変わりありませんでしたか。

キルケゴールがソクラテスを「イロニー」として理解したという視点は、真に当を得た視点ですね。彼は、「イロニーの概念がソクラテスと共にこの世にやってきた」とさえ言っています。

そして、ソクラテスに関する資料の比較検討の観点で言うならば、イロニーは本質的に「滑稽さ」をもつが故に、たとえば、籠に乗って天上から登場するように描くアリストパネスの喜劇『雲』のソクラテスの方が、よりふさわしい解釈であるとさえ言います。

アリストパネスは、当時、最も認められた劇作家であり、プラトンによれば、ソクラテスの反対者の一人であり、ソクラテスを偽科学者として理解し、ソクラテスを嘲笑しようとした人物ですね。

キルケゴールが、その笑い者にされるソクラテスの中にソクラテスの神髄を見るのは、彼がアリストパネスの考えに賛同するからではなく、ソクラテスをイロニーとして位置づける本質理解からです。

「イロニーが滑稽さをもつ」ということは、もう少し、現象的にも本質的にも考察しなければならないことですが、今は、「存在のおかしみ」とだけ言っておきましょう。

キルケゴールは、「ソクラテスの存在についての伝説がイロニーと言う言葉と結びついてきたことは誰もが知っている」と述べていますが、ソクラテスを「イロニー」として徹底的に解釈したのは、キルケゴールが最初の人です。

問題は、そのイロニーの中味ですが、先の「滑稽さ」と合わせて、これを考えてみることが重要ですね。

今後、展開されることに期待しています。

時節柄、体調の変化に注意され、御自愛下さい。ではまた。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman 様:

メール、ありがとうございました。お忙しい日々が続いているのでしょうね。学生は、どんなに忙しいと言っても、やはり、自由な時間がたくさん与えられていて、これが学生であることの唯一の利点ではないかしら、と思ったりいたします。

もっとも、最近はアルバイトと「お遊び」だけにこの時間を使う人がたくさんいますが、経済に支配された時世でしょうか。

さて、キルケゴールの「イロニー」理解ですが、先に、彼のプラトン批判で触れましたように、ソクラテスはイデアを内在している者ではありませんが、人間に精神の最高の段階を示す者でした。無知でありながら、知の最高峰を現す人間です。

キルケゴールは、このソクラテスの存在自体が「イロニー」以外の何ものでもない、と言うのです。

「イロニー」とは、逆説的存在という意味ですね。あるいは、弁証法でいう二律背反するものを同時に存在させるものといっても良いかもしれませんね。

それぞれに異なったものを同時に内在させ、そこから生まれてくるものが「イロニー」なのです。

ですから、「イロニー」は否定的であると同時に肯定的であり、肯定的であると同時に否定的です。

キルケゴールは、この「イロニー」の歴史的出現を次のように説明しています。

たとえば、宗教改革のような歴史の変革の狭間で、「新しいものの到来」を自覚した人間は、もはや古い現実がその新しく到来する現実に妥当しないことを知っています。

その際、新しく到来する現実の輪郭を直感して、古いものを駆除し、新しい現実に向けて現実を変革しようとする人間が登場します。

この人間は「預言者的人間」です。彼は、来るべき新しい現実を所有しているのではなく、それを予感し、それを指し示します。

一方、新しい現実のために、今なお古い現実の中にいながら、その古い現実を否定し、これと戦おうとする人間が登場します。

彼は、まだ新しいものを得ていないし、自らは古い現実に生きているのであるが、その現実を否定します。

ここに歴史的な悲劇が登場し、彼は、古さと新しさの二律背反の中で、自らを含めた古い現実を否定します。

この否定する主体が「イロニー」であると言うのです。

より高いイデアを求めて、その高いイデアを知ってはいるが、まだ得ることができないために現実の自己を否定せざるを得ない存在、これを「イロニー」と呼ぶのですね。

これは、考えてみれば、大変重要な指摘だと、わたしは思います。なぜなら、知的存在であろうとすることは、すべて、「イロニー」でなければならないからです。

特に、より高度なものを前提にする自己否定に基づく芸術的存在や宗教的存在は、そのイロニーの度合いが深いですね。

知的であろうとする者は、イロニーである。

これは、本当にいろいろ考えさせられますが、このことはまた書くことにして、今夜はここまでで送信いたします。

お忙しい日々の中で、わたしのために時間を割いてくださり感謝です。お体を大切にお過ごし下さい。

−読者のMaiより−

O. Mai 様:

メール、拝読いたしました。

「知的であろうとする者はイロニーである。」真にイデアを求める知的存在にはその面が多々ありますし、真理がイロニーをもたらすとも言えるでしょう。

かつて、1960−70年代にかけて、「自己否定」ということが大変叫ばれたことがありました。残念ながら、そのころ「自己否定」を叫んだ人々の中で、そのイロニーを真に理解している人は少なかったのですが、その方向性そのものはとても重要だったのではないかと、僕は思っています。

逆に、自己否定なき者は真理に到達することができない、とも言えるかもしれません。

(これは、問いを発するための「言えるかもしれません」なのですが)このことも合わせて考えられるといいでしょうね。

時折、とても寒い日があります。「冴え返る」と言うのだそうです。お元気でお過ごし下さい。

取り急ぎ。

−K. Wiseman−

親愛なるWiseman様:

お元気でしょうか。

お忙しい中でメールを書いてくださり、ありがとうございました。いつもいろいろと教えられるところが多いのですが、書いてくださるメールを拝見する度に、『ソフィーの世界』のソフィーになった気分です。

ことに、「より高いイデアを求めて、その高いイデアを知ってはいるが、まだ得ることができないために現実の自己を否定せざるを得ない存在を『イロニー』と呼ぶ」ということについて、「自己否定なきものは真理に到達できない」ということを示唆してくださいましたことは、考えさせられました。

そして、イデアを求めるものは永遠の求道者であるというプラトンの姿勢を思い起こしたりしました。

道は果てしなくても、人間の至高を求めて歩み続けることの中にこそ深い意味があるのだろうと思います。

「イロニー的な主体」にとって、現実は、それがイデアそのものではないために、否定されるべきものであり、イロニー的な主体はイデアそのものについては知らないが、現実がイデアにふさわしくないということだけを知っているのです。

自己否定の道は、こうして初めて意味を持つのでしょうね。

人が自己自身というものを自覚して主体的に生きようとするとき、初めに生まれてくる自覚が現実に対しての否定的なものだということは、心理学でも周知の事実です。

ですから、キルケゴールは、主体はいつでも世界に対して「イロニー」として存在するというのでしょう。

「イロニーこそが主体性の規定」なのであり、主体性は、常に、世界の現実に対して「イロニー」として存在するのでしょうね。

イデアというものを求めれば、人はそうなりますし、イデアを求めることなしには、人はその生の意味を深めることができないのも事実だと思います。

キルケゴールはこのことに関し、「イロニーが主体性の規定であるなら、それはまた主体性がはじめて世界史に登場するときに現れるに違いない。すなわち、イロニーは主体性の最初の、そして最も抽象的な規定なのである。このことは、主体性がはじめて登場した歴史的転換点を示唆するものであり、それによって我々は今やソクラテスに到達したわけである」と言っています。

つまり、ソクラテスは「汝自身を知れ」という命題に従って、新しく「自己自身」という主体性をもって世界に登場しました。

彼が「自己自身」という主体性をもつ限りにおいて、彼にとっては、それまでのギリシャ精神は妥当性を失い、否定されるべきものでしかないものとして映ります。

彼は現実を否定しますが、それにもかかわらず、その否定の根拠となる「自己自身」については、彼は何も知りません。だから、ソクラテスはイロニー的でなければならないのです。

彼は無知でしたが、教師のようにたえず人を導き、啓蒙しようとしました。
彼は無知を装いながら、他人を教えました。これがソクラテス的イロニーの一側面ですね。

ソクラテスは、自分は無知であると言いながらも、自分が無知であることを知っていたのだから、やはり知っていたのです。

しかし、それは何かについての知識というのではなく、現実に対して否定的な作用を起こす「知」です。だからこそ、それは「イロニー」なのです。それ故にまた、ソクラテスのイロニーは弁証法的な対話のスタイルでもあるのです。

キルケゴールは、ソクラテスの「無知の知」をイロニーとして理解することによって、「彼の無知は、それによって彼があらゆる知を滅却する無なのである。このことは、死についての彼の考え方から最もよく見て取ることができる。彼は、死がなにであるか、また死後には何があるのか、そこには〈なにものか〉があるのかそれともまったくの〈無〉か、と言うことについて無知であり、そういうわけで彼は無知である。

しかし、この無知を彼はそれ以上に気にかけはしない。知るどころか、彼はこの無知において自分がまさに真に自由だと感じている」と言っています。

その理解に従えば、ソクラテスは、そのイロニーによって、全くの自由であり、死からさえも、「死が何であるかを知らないことを自分が知っていることによって」自由であり、死に捕らわれることなく、主体性がもたらす無限の絶対的否定に生きた人、ということになりますね。

まさに、「イロニーにおいて主体は否定的に自由なのである。」と言うとおりです。

ソクラテスは、イロニーであることによって「知」からも「無知」からも自由です。あるいは、自由であることによってイロニーであるとも言えるでしょう。

わたしはソクラテスの知恵と自由さを自分のものにしたいと願います。「主体性がわたしを自由にする。」この言葉を心に刻みたいと思うのです。

メール、とても長くなってしまいました。いつでも結構ですので、書いたことにご批判をいただければ嬉しく思います。

お元気でお過ごし下さい。

−読者のMaiより−

☆「自己否定」ということは、常に、ある高次のイデアを前提にしてなされなければならないことです。

☆たとえその自己否定の結果が現実的な破滅であったとしても、その破滅の中に高次のイデアが内在するときに、自己否定はその論理性をもち、破滅的な現象も真理性を持つことができるからです。

☆ソクラテスの死は、そういう次元での「死」であったでしょう。ただ、問題はそのイデアの中味です。

☆つまり、人は何を祈り求め、何を理想とするか、それが問題でしょうね。

☆その意味では形而上学的なものは形而下的なものを規定するのですから、形而上学的なものを否定して成り立っている現代人の生活が「空しさ」に包まれるのは当然のことかもしれません。

☆生活にファンタジーがない。これは寂しいことです。

☆真理を知る者は逆説的であるというのは、まさに生きることの皮肉(イロニー)ですね。思想の静かな着地を得るためには無限の否定が繰り返されるというのも、真にイロニーそのものでしょう。

☆ソクラテスの知恵と自由さ、これは本当に憧憬に価しますね。「自由」こそが思想の究極的目的だと思います。

☆現代思想は「自由」についての考察から始まりましたが、「自由」を抽象的に措定することしかできませんでしたので、議論も抽象的になったきらいがあります。

☆「自由」は「光のどけき」姿のような気もしますが、どうでしょうね。