kierkegaard

その18

 お互いに同じ時代に生き、同じ時間と空間を共有し、顔と顔とを合わせているからといって、お互いが深く理解し合うことは難しい。確かに、時間と空間を共有することは相互理解の重要な要件ではあるが、だからといって、それで真実に相手を理解しているかといえば、それは疑わしい。理解したといっても、それはわかったような気になっているだけのことかもしれない。人は、自分の目に見える表面だけで、物事を判断し、評価する。自分の視力が衰えていることに気づくこともあまりない。さらに、近寄れば近寄るほど、理解すれば理解するほど、遠のくこともある。たとえば、愛し合う者どうしが、固く抱擁し、結合した瞬間に、相手との計りがたい距離を感じ、越えがたい深淵を感じることもある。表面だけの時間と空間の共有は空しい。
 「同時代性」とは、それらいっさいの距離を超えた「隔てのない一体」を意味する。真実の相互理解を意味する。
 だとしたら、人はどれだけの「同時代性」を生きることが可能なのだろうか。
 ヨハネス・クリマクスは、神であり真実の教師であるイエス・キリストとの「同時代性」について考える。たとえば、信仰深い人々は、自分がイエス・キリストの直接の弟子であったら、と考える。イエスと同じ時代に生き、イエスの声を聞き、イエスと一緒にガリラヤ湖畔やエルサレムの町を歩き、彼に触れ、彼の教えを直接受けたら、あるいは、彼が十字架上で息を引き取ったその瞬間に、自分がゴルゴダの丘に立っていたら、あるいはまた、パウロのように復活のイエスに直接で会うことができたら、自分はさらに固い信仰を持つことができるのに、と思う。不信仰者たちは、イエスの弟子の一人であったトマスのように、自分が直接神を見たら、イエスの復活を直接見たら信じるが、そうでないので信じない、と言う。信仰者も不信仰者も、ともに、イエス・キリストとの「同時代性」を問題にしているのである。
 しかし、ヨハネス・クリマクスは、それはただ「わかったような気になるだけ」に過ぎないと言う。「もし、後代の者が、おそらく彼自身の熱情にかられてであろうが、直接的な意味で、同時代者でありたいと願っているとすれば、彼は自らが偽りの信仰者であることを証明しているようなものである。」なぜなら、彼は二千年前のキリストを空想しているだけに過ぎないからである。彼の信仰は「いま、ここで」の信仰ではないからである。同様に、不信仰者もまた、偽りの生を送っていることを証明しているに過ぎない。なぜなら、彼の生は「いま、ここに」あるのではなく、二千年前に置かれたままになっているからである。「同時代性」を問題にしながら「同時代者」ではないのである。
 どこまでいっても本質的に不真理である人間にとって、真理は不連続の彼方にある。人は神と同時代を生きることはできない。また同様に、人と人とも、不真理と不真理が点在するだけで、連続した同時代性を持つことができない。人はただ自分の影だけ、あるいは自分の影の投影としての他者を愛することができても、他者そのものを愛することはできない。自分の価値観や考えを理解するだけで、あるいはその投影としての他者を理解するだけで、他者そのものを理解することはできない。「隔てなき一体」は不可能であり、どんなにその人生を順風満帆に過ごしているように見えたとしても、神とも人とも繋がることができない孤独を抱えて、「いま」を生きているに過ぎないのである。それ故、あたかも、自分の中に真理があるかのように、あたかも同時代者であるかのように思い、そこから出発するのは欺瞞に過ぎない。
 では、どうしたら同時代性を獲得し、真理へ向かう一歩を踏み出せるのか。
 ヨハネス・クリマクスは、真理と不真理の不連続性、人間の非同時代性を越えるのは、信じて「決断」し、「飛躍」する以外にない、と言う。そして、この飛躍の決断が現実の中で起こる時、それは「生成」運動を起こす、と指摘する。

その19

 実存者、つまり「いま、ここで」を生きようとする人間にとって、人生は「生成」であり、主体的創造の場である。彼は、人間が本質的に自分自身と自分の環境を自分で開発しなければならない宿命を背負って生きていることに気づく。人生を自分の足で歩まなければならないことに気づく。そして、自分が常に「あれか−これか」の選択の岐路に立たされていることに気づく。彼は、何事かを自分で創造しようとする。それは、創造であるから、当然、その創造の業が大きくなればなるほど産みの苦しみも増す。そこには「不安」もつきまとう。「おそれとおののき」がある。しかし、彼の人生には創造されたものの軌跡が残り、彼自身は一歩ずつ階段(梯子−クリマクス)を上っていく。
 そうでない人は、苦を避け、安価な安心を求めて流れに身を任せ、そのためについに生きることそのものを失う。
 クリマクスは「生成」を「底なし沼からのはい上がり」と言う。底なし沼で、何もしないと確実に沈んでいく。かといって、ばたばたと闇雲にもがいても、結果は最悪となる。「生成」は「主体的創造の業」そのものを意味し、自己実現そのものを意味している。それは「反復」では決してない。「反復」は、「反復すべき何か」をすでに自分の内側に持っていることを前提にしているが、「生成」は、自分の中に何もないところから出発する。だからこそ、彼は自分で創造しなければならないと考えるのである。それは「無からの創造の業」である。それ故、主体的に、実存的に生きようとする人は、常に、たとえそれが現実的に多くの苦しみをもたらすことになったとしても、自分の「創造の業としての生成の運動」を展開するのである。「主体性」こそが「実存」の鍵に他ならない。人が生きることの意味はそこにある。それがヨハネス・クリマクスの結論である。
 ヨハネス・クリマクスは、「あとがき」を将来書くことを約束して、彼の『哲学的断片』をここで終わる。

その20

 キルケゴールが、『あれか−これか』から始まった左手著作の一応のまとめとして、『哲学的断片』を「主体的生成」で終えたことは、大変興味深い。なぜなら、「実存」と「主体性」とは、常に一体の関係を持つものとして認識されるからである。人が生きていることを実感するのは、まぎれもなく、その人の「主体」に他ならないし、実人生の出発は、いつでも、その人の「主体性」を問うところから始まるからである。人生の選択である『あれか−これか』の問題は「主体性」の問題である。そして、自分の人生の「生成」を問う時、決断の「主体性」が最も大きな問題となるからである。自分の人生が良かったのか悪かったのか、その最後の判定をするのは、結局は、その人の「主体」に他ならない。「人生は主体性である」。これが実存主義者ヨハネス・クリマクスの結論であった。それはまた、人間が自分というものを中心に据えたときの結論でもあるのである。
 一連の左手著作は、キルケゴールの実人生に照らし合わせてみれば、これらが、愛するが故に関係を絶ってしまったレギーネ・オルセンに宛て書かれていることは明白である。『あれか−これか』で、彼は自分が彼女と幸福な結婚をすることができない人間であることを告げ、それを乗り越えるためには、『おそれとおののき』を伴った「信じることの必要性」を説き、それでもなお、関係の修復、つまり『反復』が不可能となった後、彼は、「主体的生成」をもって、レギーネとの新しい関係のあり方、見ることも触れることもできなくなってしまった相手との、愛するが故の超越的な関係の生成へと歩み出す「決断」をするのである。
 しかし、キルケゴールの偉大さの一つは、彼が自分の実人生を普遍化したことである。彼が問題にした「主体性」の問題は、近代から現代に至る時代の極めて大きな問題に他ならない。彼は、今の時代に蔓延している人間中心主義や自己中心主義に疑問を投げかけ、真の「主体性」のあり方を問うたのである。
 彼が生きた19世紀と我々の20世紀、そして続く21世紀は、ともに人間中心主義とそこから生まれる自己中心主義に支配された時代である。中世のような静滞的な社会制度が崩壊し、社会全体が流動的に変化していくと、人々は、社会の上層部へと昇っていく上昇志向を強く持ち始める。それまで下層階級で押さえつけられた人々は、チャンスがあれば上流階級へ昇っていく可能性が開かれたことを知り、その運動を始める。社会制度的下克上が起こり、一介の坑夫や職人から身を起こし、町の名士にまでのし上がっていくことを「成功」と呼び、人々は自分自身の力で「成功」する事を夢見る。そこでは、当然、自分自身の能力や実力が問われる。自然科学の発達と人文主義と資本主義経済がこれに拍車をかけ、「力への意志」が誕生するのである。
 こうして、人間の能力と実力が問われ、「力への意志」が支配する社会では、「自立的」で、自分の力で何でもできることが「善」とされ、社会全体がそれを要求するようになり、目で見たもの、脳細胞で思考できるものが全てとなる。小さな自分の目や耳、脳には限界があるにもかかわらず、それが全てとなるのである。
 現代では、この傾向はますます激しいものになり、もはや「力を求める実力主義」社会になってしまったが、キルケゴールが生きた時代のデンマークは、社会全体でこの傾向を強めっていった状況に置かれていた。
 1813年にイギリスとの戦争に敗れたデンマークは、敗戦の苦汁をなめ、酪農を中心にした国家産業を回復し、国力を高めることが最大の課題となっていた。高度経済成長が望まれ、最先端の技術と知識を獲得することが火急のこととなり、人々の目は近隣の大国であったドイツに向けられていた。デンマークの知識人たちは、こぞって、デンマーク語よりドイツ語を好み、ドイツの思想を輸入した。コペンハーゲン大学では、ヘーゲル・サークルが誕生し、「歴史の前進」を夢み、自己の能力と力を持って社会・経済的発展に寄与するものが尊重された。人々は「主体性」を重んじ、「力」を重んじた。
 この時代の中で、キルケゴールは、「主体性とはいったい人間にとって何なのか」と問い、時代が求める「主体性」が「真の主体性」ではないことを語ろうとしたのである。
 では、「真の主体性」とは何なのか。彼はそれを『哲学的断片の結びとしての非学問的後書き』で答えようとする。しかし、その前に、問題をもう少し明確にするために、『哲学的断片』とほぼ同時期に出された『不安の概念』を見てみたい。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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