その11
キルケゴールの左手著作の第三番目、『反復』の著者名はコンスタンティン・コンスタンティウスである。この名前から想起されるのは、キリスト教を帝国の宗教として初めて公認し、世界を変えてしまったローマ皇帝のコンスタンティヌスである。それは自分自身とローマ帝国にとっての大冒険であった。キルケゴールがそのローマ皇帝を意識したかどうかは別にして、『反復』の著者コンスタンティウスもまた思想の大冒険を試みる。
『おそれとおののき』の沈黙のヨハンネスは、アブラハムの信仰にあこがれつつも、信仰は不可能だと諦め、思い悩む。彼は思い悩むだけである。『反復』の著者コンスタンティウスは言う。「期待(ただ期待するだけで実際には何もしようとしない人の期待)は、見た目にはおいしそうな果実ではあるが、人を満腹させることはない」と。それ故、彼はそこから抜け出る運動を提唱する。それが「反復」である。
コンスタンティウスのいう「反復」とは、通常、日本語で理解されるような「くり返し」のことでは決してない。「反復」とは、本来の自分自身、本来人間が持っていた人間性、実存感にあふれた自分自身への立ち返りを意味する。むしろ「復帰」と言った方がよいかも知れない。「反復」は、「すべての認識は想起である、とギリシャ人たちが言う時、彼らが意味したのは、存在するすべての現存在はかって存在した、ということである。これに反して、人生は反復である、とわれわれが言うとき、それが意味するのは、かって存在した現存在がいままた現存在になる、ということである」と定義されている。つまり、本来のものへの復帰の運動、それが「反復」なのである。
たとえば、人は成長し、大人になり、様々なことがらを経験するに従って、何か大切なものをなくしていく。純粋に人を信じていた人間が、くり返し裏切りを経験することによって、もはや人が信じれなくなる。そして、人生はなんと裏切りに満ちていることか。彼は人生行路を進むに従って信じる心を失っていく。あるいは、かって感動したことに、次第に感動しなくなる。認識や知識が増加するのに反比例して感動は減少していく。1+1が2になることを当たり前だと思う精神には、もはやそれが2になることの不思議はない。そして、不思議がないところには感動もない。人は過去の経験や認識や知識に縛られ、素朴さや可能性を失う。人生の悲しみや苦しみをなめればなめるほど、一切のものは無味乾燥したものになる。そして、「諦め」だけが永遠に続く。一度赤く染められた布は、どんな漂白剤を用いても、決して元の白さにもどることはない。犯した罪責が消えることはなく、不安は永遠に続く。そこで、人は諦め、一時の快楽と安価な安心感を求めるか、他人への批判や、陰口、疑惑を持って自己弁護の運動を始めるかのどちらかである。生き生きとした、喜びに満ちた本来への自己への復帰、反復は不可能なのか?
『反復』はこの問いに答えようとする。そのために、キルケゴールは、この書物の中で、ちょうど『あれか−これか』のAとBのように、反復しなければならないひとりの悩める青年と、人生経験が豊かであるが故に「反復できない」と考える相談役としてのコンスタンティウスを登場させたのである。
青年は実ることのない恋をしている。彼はひとりの女性に憧れてはいるが、彼女を決して愛することができない自分の心の内を知っている。にもかかわらず、彼は彼女から離れがたい思いが自分の中にあることも知っている。愛しているのに愛せない自分に悩む。「彼の憂鬱は、ますますつのり、肉体の力も、内心の戦いのために消耗していった。彼は彼女を不幸にしたのは自分であることを悟った。」そして、彼は人生の深い経験者、哲学的に冷静に考えることができるコンスタンティウスに相談するのである。
コンスタンティウスは、社会的人生経験が豊かで、思想的成人であるが、何故か人生に「しらけ」、情熱というものを失った人である。彼もまた、「反復できない人」である。その彼が「青年は自己撞着に陥り、自分自身から一歩も前に出ていない」と言う。しかし、彼自身も、「私は、私の意見を誰にも押しつけようとは思わない。そのかわり、どんなことがあろうとも、他人から押しつけられることもごめんこうむる」と語る。彼は、自分と自分の世界を守るために、聞く耳と語る口を失い、他者との関係を失った人である。彼自身もまた自己撞着に陥っている人間の一人である。
こうして、キルケゴールは、「反復できない」二人の人物を描くことによって、反復の不可能性が自己撞着にあることを明らかにし、そこから抜け出る道を二人の対話を通して示そうとしたのである。
しかし、『反復』は、その肝心な後半部分にはいると、突然、支離滅裂に乱れて、意味不明のままに終わる。これには、キルケゴール自身の実人生の陰が深く関係している。
その12
キルケゴールがこの『反復』を書いていた時、レギ−ネ・オルセンがF.スレーゲルという男性と新たな婚約を結んだというニュースが伝わったのである。彼は衝撃を受けた。彼自身がレギ−ネとの婚約を破棄したとはいえ、彼のレギ−ネへの愛は、ますます深められ、著作活動の度ごとに純化されていったからである。
1841年の秋に婚約が破棄されて以来、彼は、ただちに執筆活動に没頭し、綿密に考え抜いて、左手著作として『あれか−これか』を1843年に刊行した。『おそれとおののき』もその後すぐに出す予定であったし、右手著作として実名で『二つの建徳的講話』も刊行され、その後に、合計6編の『建徳的講話』が出る予定であった。そして、左手著作の『反復』を仕上げる間近のことである。
レギーネが新たな男性と婚約を結んだニュースが伝わった1843年には、キルケゴールは、結局、『あれか−これか』、『おそれとおののき』、『反復』と9編の『建徳的講話』を出版している。その他に、日記が書かれているので、彼は、1841年秋からの1年半の間に、文字どおり、寝食を忘れ、寝る間も惜しんで、執筆活動に没頭していたことがわかる。驚くべき著作量である。それは、彼の思想的な問題とは別に、ただ、ただ、レギーネのためだけになされたのである。
当時のキルケゴールを知るコペンハーゲンの人々の目には、彼は、婚約破棄という醜態を演じた破廉恥漢で、毎日、ふらふらし、父親の遺産を食いつぶすだけの怠け者と映った。キルケゴールは、よく、コペンハーゲンの運河沿いの道を歩き回っていた。『あれか−これか』や『おそれとおののき』の中にはキルケゴールの名前は一度も出てこない。彼が実名で出した『建徳的講話』は、予想通り、人々から見向きもされなかった。『あれか−これか』が評判になり、人々が、本当の著者は誰か、と騒いでいた時、彼はひたすら次に著作の執筆を続けていた。彼は自分が人々から軽蔑されていることを知っているし、むしろ自分の方から軽蔑されるようにしむけたのである。人間的な評判や評価、名声や名誉といったものを、彼はもはや全く求めなかった。誰一人彼を理解するものがいなかったばかりか、誤解だけが流布されていった。その誤解の中で彼は黙々と執筆を続けた。
彼の目の前には、レギ−ネ・オルセンただ一人が立っていた。もはや、彼女から微笑みかけられることも、愛や思いやり、ねぎらいの言葉一つさえかけられることもない。彼女に触れることも、彼女の声を聞きことも、自分が現実に語りかけることもない。それ以上に、彼の著作を彼女が読んでくれるかどうかの保証もない。それでも、彼は、レギ−ネ・オルセンただ一人のためだけに書いた。彼女に人間の精神の上昇課程を示すためだけに書いたのである。
しかし、そのレギーネが、もはや自分とは決定的に無関係の人となる。自分が蒔いた種であり、予測されたこととは言え、キルケゴールの思いは乱れた。それが『反復』の後半部分の乱れであり、その本来書かれていたものは、この時に、抹消され、書き換えられた。「産みの苦しみは、おわりました。ぼくの小舟は、水に浮かんでいます」という言葉で、『反復』は締めくくられる。これは、『反復』の結論ではなく、その時のキルケゴールの、どうすることもできない絶望的な心の声に他ならない。キルケゴールは落胆し、レギ−ネに対する「反復」が、もはや決定的に不可能になったことを知ったのである。
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