kierkegaard

その9

 キルケゴールの左手著作の第二番目『おそれとおののき』は、第一作『あれか−これか』に続いて、1843年に「沈黙のヨハンネス」の名前で出版された。この書物の題材となっているのは、旧約聖書の『創世記』第22章1−14節に出てくるアブラハムの物語である。初めに、「調律」と題する次のような文章がしたためられてある。
 「昔ひとりの男があった。彼はまだ年のいかない頃、神がアブラハムを試みられ、アブラハムがその試みに答えて信仰をもち続け、思いもかけず息子を再び授かったというあの美しい物語りを聞いていた。年をとってからその同じ物語を読んだ時、驚異の心はますます大きくなった。・・・彼の切なる願いは、アブラハムが前方には憂いをもち、かたわらにはイサクを連れてき騎行したあの三日の旅路のお伴をすることだった。彼の願いは、アブラハムが目をあげて遥かにモリアの山をのぞみ見たあの瞬間に、アブラハムがロバを後に残してイサクと二人だけで山をのぼって行ったあの瞬間に、居合わせるということであった。彼の心を占めていたのは、空想の妙なる織物ではなくて、思想のわななきだったのである。・・・」
 つまり、沈黙のヨハンネスは、信仰の父といわれるアブラハムと出会うこと、真の信仰と出会うことを求める、というのである。しかし、これはいうまでもなくキリスト教的な宗教的書物ではない。沈黙のヨハンネス自身が「私は信仰をもっていない」と語り、「私は生まれつき鋭敏な頭脳を持っております。すべて鋭い頭脳の持ち主というのは、いつでも信仰の運動をするのに大変な困難をするものです」と言う。従って、この書物は、信仰を持たない沈黙のヨハンネスが信仰に出会うことができるか、理性は信仰を捕らえることができるか、人は自分自身を越えて信じることができるか、より哲学的には、有限は無限を理解できるか、と言う問いに答えようとするものである、と言うことができるであろう。
 『あれか−これか』で提示された理想の倫理道徳家Bは、いつも冷静で、平然とし、尊大にAを批判した。Bは、自分が不完全な罪人であることを認めることが重要であるといいながら、自らは満足し、自信に満ちていた。Aは人生の傍観者であり、Bは批評家であった。ちなみに、キルケゴールは、どんなことがあっても批評家にはなるな、と名言を残している。なぜなら、批評家はただじっと座っているだけで、自分自身が生きることをしないからである。しかし、沈黙のヨハンネスは、そこから一歩前に出て、自らが生きようとする。彼はアブラハムについて語るのではなく、アブラハムと出会おうとするのである。知解を求めるのではなく、真実の出会いを求める。沈黙のヨハンネスはそのような人である。

その10

 旧約聖書の『創世記』に描かれているアブラハム物語(12−25章)は、実に複雑で、多彩な内容を持つ物語である。
 ある日、彼は、一切を棄て、神が示す知に行くようにとの言葉を受け取る。そうすれば、神はアブラハムを祝福し、その子孫は浜の真砂のように、星の数のようになる、と言われるのである。アブラハムは、ただその神に約束の言葉だけを信じ、あらゆるものを棄てて旅立つ。しかし、アブラハムにはなかなか子どもが与えられなかった。神の言葉を信じて出立して数十年の月日が流れた。もはやアブラハムも妻のサラも子をもうけることのできる年令を過ぎてしまった。しかし、その時、ようやく、子が与えられる。アブラハムはその子にイサクと名付け、寵愛する。だが、ある日、神は突然、そのイサクを自分に犠牲としてささげよ、と言うのである。アブラハムは苦しむ。そして、アブラハムは決心し、イサクささげるために、イサクと二人でモリヤの山に向かう。三日の行程の後、モリヤの山に着いたアブラハムは、祭壇を築き、イサクを寝かせ、イサクの生命を断とうと剣を振り上げる。まさにその瞬間、アブラハムは「あなたの信仰はわかった。あなたはその子を殺してはならない」という神の声を聞くのである。
 沈黙のヨハンネスが出会いを切望したのは、愛する息子イサクを捧げる決心をした苦悩のアブラハムである。彼はこのアブラハムの姿に驚嘆する。それは、第一に、アブラハムが神の命令に従って自分の愛する息子を殺そうとまでしたことに対する驚きである。通常人は、自分自身の生命を投げうってでも自分の子どもは守ろうとするし、それが倫理的美徳としてたたえられる。しかし、計り知れないほどの無限の苦痛を覚えつつも、アブラハムは無条件に神の命令に従った。その信仰に、沈黙のヨハンネスも驚くのである。そして、第二に、そのアブラハムが、最後に、再び喜びを持ってイサクを神から受け取り直したことに驚く。
 沈黙のヨハンネスは、そのようなアブラハムに驚き、そして苦しむ。アブラハムのように神を信じたいが、信じることができない自分を知るからである。彼は、愛する者はもちろん、自分のものを捨てきることができない物欲を持っている自分を知っている。捨てきれない自分の所有物、愛するものが、家が、財産が人を縛る。また、一度捨てた者を再び喜びを持って受け取り直すことができない自分を知っている。彼がその立場にいるとしたら、そこにあるのが冷えきった息子への愛情と後ろめたさだけであることを、彼は知っている。沈黙のヨハンネスにとって、アブラハムのようなあり方は完全に不可能のように思えるのである。彼は、もし自分にこのような命令が下ったなら、家に留まることも、アブラハムのようにゆっくりとでもなく、一刻も早く苦境を抜けだせるようにモリヤの山に急ぐ、というのである。多くの信仰者たちが、この種の不都合な命令(宗教的には神への奉献だが、倫理的に見れば殺人)を、聞かない振りをして平静さを装おうのとは違い、自分は行動するだろう。その点では、多くの欺瞞的信仰者とは異なる。しかし、もし、イサクを再び受けとしたら、当惑し、喜びどころか苦痛のうちにイサクを持ち続けることになる、と考えるのである。
 行くも地獄、退くも地獄で、行けば苦痛を得、行かなければ欺瞞者となる。どちらにしても、信じることには到達しない。「現代では、誰が本当に信仰の運動をすることができようか?いや、できはしない」と言う。「有限性のこの世界においては、可能でないことがたくさんある。」そして、有限性か無限性か、この世か神か、の選択を迫られた時、人は有限性を選択する、と言うのである。
 しかし、沈黙のヨハンネスは、ここで「無限の諦め」という概念を見い出す。「無限の諦めの中には、平安と安息がある」、「無限の諦めは、信仰に先立つ最後の段階である」と語る。そこで初めて、人は自分自身の永遠の価値を自覚することができるからである。富みも地位も知識も、すべては時間とともに流れ去る。しかしそれら一切を無限の諦めの中に置いた時、そこで人は裸の、何ものにも変えがたい自分自身の固有の価値、永遠に変わることのない価値を見い出す。それ故、「無限の諦めは信仰への最終段階」なのである。アブラハムは無限なものを捕らえるために有限なものを放棄した。そしてそのことによって最も貴重な有限なものを受け取り直した。人は有限なもの、生きるために必要だと思って身につけているもの、職業、知識、財産、家族、友人関係、に固着する。そしてそれらを失う。無限の諦めこそが、実は、最も確実な現実との調和を生み出すのである。それは、真理のパラドックス(逆説)であり、現実のアイロニーである。
 沈黙のヨハンネスのこの到達点は、禅の世界そのものと言えるかも知れない。禅の説く「悟り」に近い。彼は『おそれとおののき』の「結びの言葉」で「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることであろう。・・・しかし、いまだ信仰にすら至らない者にも、人生は十分の課題を与えてくれる。そして、もし人がこの課題を誠実に愛するなら、最高のことを理解し把握した人たち(真のキリスト者たち)の生涯もまた無駄ではなかったことになるであろう」と述べる。
 キルケゴールは、この沈黙のヨハンネスを『あれか−これか』のAやBよりも上位の人間だと位置づけている。自分の楽しみだけを追い求め、結局は根無し草の空しさを覚えるA、倫理と良識、世間の常識に身を縛り、結局は自分自身が生きることを失うB、それらに比べれば、沈黙のヨハンネスは、あらゆる欺瞞や虚偽を排して、徹底して裸の自分を知り、そこから生きようとする。倫理家Bは世の中に生きている自分を知っているし、世間に通用する信仰の理解はもっている。しかし、彼は、神の前での自分を知らない、神への真実の信仰はもっていない。彼が相手にするのは、世間であり、人々であり、神ではない。沈黙のヨハンネスは、自ら信仰が持てないと告白するが、神の前に立っている。それが彼を上位につける、とキルケゴールは考えたのである。しかし、沈黙のヨハンネスは、まだ、そこで無限の諦めを見い出し、思い悩んでいるだけである。彼は思い悩みから解放されることはない。そこからさらに一歩抜け出すこと、これが、キルケゴールの次の著作『反復』の課題となるのである。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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