kierkegaard

<その75>

「私は語らなければならない 。」キルケゴールは1848年4月19日付けの日記に新しい決意をそう書き記す。
 キルケゴールは、この年、驚くべき分量の執筆をした。彼は、何かに追われるようにして執筆に執筆を重ねていたに違いない。彼は、この年、2月か3月に『死に至る病』の構想を考え、翌年には出版し、同時に、キリスト教講話である『野の百合・空の鳥』を書き、『キリスト教の修練』の大半、『危機および一女優の生涯における一つの危機』などを次々に書き上げていった。そして、この年の春から晩秋にかけて、彼は、自らの著作活動を振り返って、その位置づけを明確にしようする『わが著作活動の視点』と題する書物を執筆した。もともと、キルケゴールの執筆量は、想像を絶するくらいの量ではあったが、1848年は、彼の生涯の中でも格別の感がある。

 彼がこの年にひたむきに執筆した理由は、いろいろ考えられている。第一に、この年、デンマークはついにプロシアとの戦争を開始し、敗戦し、混乱の中に陥り、社会体制も、独裁君主制から立憲君主制へと変化するという激動期の社会的混乱の中にあった。時代は大きく変わろうとし、人々の精神は不安定となり、拠り所を求めて彷徨い、自己中心的で保身的となり、むき出しのエゴイズムが支配的となる。
 感性の鋭いキルケゴールは、こうした人々の精神状態に危惧を感じていたに違いない。特に、何の指針も示すことができないデンマークの知識人や指導者層の人々のあり方に、彼は大きな問題を感じていた。

 第二に、彼自身の個人的な事情も、かなり切迫していたものになっていた。彼のこれまでの生活を支え、執筆と出版を支えてきた父の遺産も、そろそろ底をつくようになり、経済的な不安が重くのしかかり始めていた。その善後策のために4月に転居したトーネブスケ街の家は、住み心地が悪く、加えて、長年彼の日常の世話をしてくれていたアナースが都合で暇をとって、彼の日常的な孤独はますます深められていった。
 また、キルケゴール自身、この年にひどく健康を損ね、これから先、もうあまり長く生きられないのではないかという予感を抱くようになっていた。

「私は語らねばならない。」キルケゴールは万感の思いを込めてそう記す。
 だから、彼は、この時期、言葉を吐き出すようにして書き続けた。そして、これまで多くの誤解を受けてきた自分の著作活動の真意を書き留めておきたいと願ったのである。
『わが著作活動の視点』は、この理由で書き始められているのである。キルケゴールは、この書の執筆を、迫り来る自分の死を予感しつつ、自らの遺書を書くような思いで書いたに違いない。

 だが、彼のような人間にとって、このような書物を公刊することはできることではない。何度かの逡巡の後、彼はこの原稿を自分の「秘密の記録」として残した。この書物が出版されたのは、彼の死後の4年後の1859年、後世への遺言として、兄のペーターによってである。
 キルケゴールは、自らの思想と人生を率直に語ろうとする。そして、多くの研究者たちはこの書物によって、彼の著作の二重性の真意を初めて知ることができたのである。

<その76>

 遺書のような思いで書かれた『我が著作活動の視点』は、それまで仮名の著者によって書かれた一連の「美的著作」と呼ばれるものと本名で公にされた「宗教的著作」の二重性の意味を明らかにしようとする。ここで彼は、真理の伝え方の二重性を語る。つまり、彼の二重性は、真理の伝達の方法の二重性によるというのである。真理の伝達の方法の二重性とは、真理を真理として直接伝える方法と、真理を間接的に伝える方法である。
 これは、おそらく、キルケゴールが『あれか−これか』を出す以前の修士論文としてソクラテスを取り上げた『イロニーの概念』以後のキルケゴールの認識だったのではないかと思われる。そこでは、真理が非真理の前では常にイロニーであり、逆説であると主張されているが、それは、真理の伝達がただ間接的にのみ行われることを意味しているからである。
 人がいかに大声で真正面から真理を語っても、その声を聞く人が「欺瞞とうぬぼれ」で眠りこけている以上、いつしかその声は抹殺され、無視され、最後には真理を語る者を、ただ、変人のように思うのが、せいぜいである。だから、たとえば、デンマークのようなキリスト教世界に、真実のキリスト教を提示するようなことは、ただ、間接的な伝達によってしか可能とはならない、とキルケゴールは考えた。
 それは、生きて存在している人々に人間の実存の真理を語る場合も同じである。実存している者に実存の真理は、ただ、間接的にしか伝えられない。この間接的伝達を、キルケゴールは「反省における伝達」とも呼んでいる。

 この「反省」は『哲学的断片における結びとしての非学問的後書き』で語られた「主体的内省」でもある。それは、美的段階から、倫理的段階、そして宗教的段階へと至る「内省」である。
 それ故、美的段階(感覚や欲求の段階)にいる人々に、その美的段階の何たるかを示すために、また、そこからさらに高度な段階を示すために、「美的著作」を生みだした、とキルケゴールは語る。彼によれば、いささか自虐的ではあるにしても、たとえば『あれか−これか』のような「美的著作」は、世間を欺くためのものであり、自分自身を世間の目から隠し、そこで、人々の動きを観察し、彼らがその撒き餌に飛びついて宗教的方向を見いだすようにするためであったのである。
 もし、人々が間接的伝達によって伝えられる真理を見いだすことができれば、人々は、自らの主体的決断によって、さらに高度の段階へと進むことができる。それ故、彼はここでは、全くの裏方、黒子として自らを封じ込めたのである。
 その際、彼は自らを宗教的著作家と呼ぶ。それは、宗教的著作家が美的著作を生み出すことを示すことによって、この意図を明瞭にするためである。

 彼は、こうした間接的真理の伝達を試みる一連の仮名による美的著作と同時に、真理の直接的伝達を試みる宗教的著作としての『キリスト教講話』を出版した。それは、キリスト教の真理を伝えることは「真理を証をする」ことであり、真理の証しは直接的に伝えるべきことであると考えられたからである。宗教的著作は、たキリスト教の真理を直接伝えることを目指している。だからそれは、常に「講話」なのである。
 ここではあらゆる粉飾は不要である。何らかの装いをすることは害を及ぼす。だから彼は素顔で自分を現す。取るに足りない人間が謙遜に神の言葉を聞こうとする姿を示す。  こうした二重の著作活動を貫くために、彼自身の実人生も二重の色彩を帯びている。著作の背後には、もちろん、人間キルケゴールがいる。

<その77>
 1841年、キルケゴール28歳の時、愛するレギーネ・オルセンとの婚約を破棄し、類い希なる精力的な著作活動を開始し、2年後の1843年に『あれか−これか』を仮名で出版して以来、彼は、意図的に、美的著作と宗教的著作を平行させてきた。そして5年後の1848年の『わが著作活動の視点』の時点で、彼は、この二重の著作活動に対応して、自らの生き方を変えてきたことを語る。
 たとえば、『あれか−これか』を執筆していた当時、彼はいかに世間の目をくらまして自分自身を隠すことに苦心したかを語る。美的著作の著者は、いまだに準備の段階にいる人間であり、表に出て注目を浴びてはならないのである。
 彼は、この書物がどんなに世間の評判を得ても、自らを隠しつづけた。キルケゴール自身は、ひどい仕打ちをして婚約を破棄した破廉恥な男、という風評の中を黙々と歩み続けた。

 しかし、これとは反対に、大衆紙の『コルサール誌』が彼の肉体的欠陥をあげつらい、揶揄し、彼の思想を物笑いの種にしようとした時、彼はこれまでの美的著作家の仮面を捨て、俗悪なジャーナリズムの矢面に進んで立ち、人々と真顔で向き合ったと語る。これは、この後で全デンマークのキリスト教界を相手にキリスト教の真理を巡る闘いに入ったときも同じ姿勢であった。
 彼の意図とは反対に、美的著作は脚光を浴び、宗教的著作は顧みられないどころか非難の対象となった。そして、美的著作では自らを隠し、宗教的著作では人々の前に自らを現した。だから、彼の生活は、表面的には誤解と中傷の中で営まれ、彼はその中で、自らの思想の浄化だけを目指して黙々と歩み、執筆を続けた。
 そして、彼は、『わが著作活動の視点』において、彼の人となりに深い影響を及ぼした父との関係、青年時代、レギーネとの出会いと別離、コルサール事件、などの出来事が、彼を一人の著作家に仕立て上げる神の計らいである、と言う。彼は、今、自らの人生のあれこれを「神の計らい」として受け止める。それが失敗であるとか成功であるとかの視座ではなく、そんなことが少しも問題にならない地平で、自らの人生を受け取り直す。

 キルケゴールは、確かに、美的著作と宗教的著作の二重の著作活動を行い、これらを明瞭に区別し、位置づけてきた。しかし、恐らく、最初から自分の計画に従って、自分の全著作を計画し、その通りに、意志強固に計画を推進させてきたのではないだろう。
 『あれか−これか』に始まる一連の仮名の美的著作は、最初から彼の使命を行う戦術として、真理を提示する間接的手段として、あるいは、キリスト教界にキリスト教を導き入れるための手段としてあったわけではない。おそらくは、彼の内的必然性が、彼をこの類の著作に進ませ、自らの体験に基づいて執筆の情熱を傾けたのではないかと思える。
 そして、それと同時に、彼自身があるべき姿として描いた宗教的著作を、美的著作で取り上げた問題を別の角度から語る視点として提示したのではないかと思う。
 それだからこそ、彼は自分の生涯と著作活動を「神の摂理」として受け止めようとしたのではないだろうか。

 「神の摂理」という言葉で、彼はそれらのものの必然性を自覚するのである。ここに、これまでのあれこれの事柄を謙遜に受け止めようとするキルケゴールの姿がある。
 こうして、彼がたどり着いた地平が「単独者」の地平である。それ故、キルケゴールは本書の付録として「単独者」という一文を収める。
 神の前で一人の主体的実存者として立つ単独者の姿こそ、人生のあれこれを神の摂理として謙遜に受け止めて、その摂理の課題を黙々と果たそうとするキルケゴールそのものに他ならない。「人々からでもなく、人によってでもなく、神によって立てられた人間」(新約聖書『ガラテヤの信徒への手紙』1章1節)としての自覚、それが単独者の自覚なのである。

<その78>

 1813年、デンマークの近代化が推し進められようとする時代に生を受け、精神的放浪を続け、特に1843年以降、次々とその思索の跡を、全精力を傾け、まるで魂を注ぎ出すようにして書き続けたS.キルケゴールは、晩秋の色濃いコペンハーゲンの町で、42年という短い生涯を閉じた。
 1855年11月11日のことである。彼の最期を看取った甥のルンは、キルケゴールが深い安息に入ったことを実感したと言う。
 しかし、実際には、彼はまだ途上の人であった。生涯の夢であった牧師になることも、大学で哲学と神学を講じることも、彼は諦めていたのではなかっただろうし、死の直前の数年間、問題にしてきた「キリスト教会への批判」もまだ完成されたわけではなかった。
彼は、残りの数年間をキリスト教のあり方をめぐってデンマークのキリスト教界を相手に死闘を繰り返した。キリスト教界を相手にするということは、当時のデンマークの社会の精神的指導者層、あるいは常識的知識人、そして社会全体を相手にするということを意味していた。
 彼は、残りの資産のほとんどを使って自らの論を張る雑誌を刊行し、「これだけは言わねばならぬ」の思いを持って「キリスト教を信じることが何を意味するか」を論じた。
 そのため、彼は「すべての牧師の敵」という汚名を着せられた。もちろん、このような場合の一般的な傾向の通り、キリスト教側からの正当な反論はなく、ただ汚名だけが彼に残された。
 かつて自ら婚約を破棄したレギーネ・オルセンとの関係も、破廉恥な行為として個人的なスキャンダルになった。

 だから、彼の葬儀を引き受ける教会は、どこにもなかった。彼が生涯をかけ信じたいと願ったキリスト教を具現するはずの教会は、自らの体面を保つためと、伝統的な教義を保つために、彼を否み、死者にまでむち打ったのである。
 彼の死は、その途上で訪れたのである。彼は路上で倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれた。

 しかし、1843年の『あれか−これか』から、48年の代表的な著作である『死に至る病』まで、精力的な執筆を続けたキルケゴールは、健康の衰えと資力の乏しさ、そして何より、『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』や『わが著作活動の視点』などにもかいま見られるように、一応、一通りのことは語ったという思いなどもあったに違いない。
 1848年以降はほとんどまとまった著作をすることなく、協会側との論争に時を過ごし、恐らくその時期から死の予感を抱いていたと思われる。とは言え、散歩と思索に明け暮れる彼の日常が変化したわけではなく、彼自身は変わらず思索の人であり続けた。
 キルケゴールは、ただ一人真理を求め続けた孤独な魂の痕跡を残して、静かに息を引き取った。彼の葬儀は、牧師であった兄のペーターによって執り行われた。長い葬送の列ができたと伝えられている。しかし、その葬送の列には、キリスト教界の人々や知識階級と呼ばれる人の姿はなく、ただ、コペンハーゲンの町の貧しい人々の姿だけであったといわれる。

 彼が示した主体的実存のあり方は、その後、自由や存在の意味を求める人々にとって根本的な視座を提供するものとなった。それ故、人はその思想を指して実存主義と呼んだ。
 彼は、決して体系的な思想を展開したわけでもないし、人間の精神を体系化することに「否」を語り続けた。だから、彼の思想は、完成された完全な思想ではないし、またその思想の本質から言って、思想の完成などあり得ないものである。だが、もし人が、その人生の挫折や絶望の中でなお、自分が生きる意味を見いだそうとするなら、「主体的に決断せよ」といったキルケゴールの言葉が響くのではないだろうか。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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