kierkegaard

<その68>

 絶望は精神の分裂である。人は、絶望してなお自己自身であろうと欲して分裂する。この世、あるいはこの世の何ものかに目を注いだり、耳を傾けたりしては分裂し、自己自身に目を向けては分裂する。彼(彼女)は、結局のところ、全体的で統一のとれた自己自身であることはできない。
 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、この絶望の最後の段階に近い人間を、絶望している自己が行動的である場合と、絶望して受動的である場合に区別して、絶望の姿を明らかにしようとする。
「絶望している自己が行動的である場合」というのは、絶望の中で、なんとかして自分を取り戻そうとしたり、今までとは違った何かある新しい自分になろうとして、あれこれと試みる場合である。
 この場合、自己は自己自身の絶対的な支配者になろうとするのである。自分自身を自分でコントロールしようとする。彼(彼女)は、絶望しない新しい自己を思い描いて、そこに近づくことを試みる。彼(彼女)が思い描く「新しい姿」は、絶望の度合いによって変化し、その度に応じて、彼(彼女)が求める姿は変わる。しかし、どの度合いにおいても、彼(彼女)は自己の絶対的支配者であろうとするのである。だが、絶望の中で何かある新しい姿を思い描いて、それに近づこうとするのは、常に実験的に自己自身に関係するにすぎない、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
 彼(彼女)が試みる自己の絶対的な支配は内実をもたない。絶望している自己は絶えず空中楼閣を築き、空を切るのみである。彼(彼女)が思い描く「新しい自己」は、絶望に耐え、絶望を乗り越えた輝かしい外観を呈しているが、それは、絶望している自己自身を否定したものの上に築かれるが故に、常に、「砂上の楼閣」でしかない。
 それ故、これはいつも「実験」で終わる。だから、自分で自分をコントロールし、自己の絶対的な支配者なろうとすることには、「真剣さが根本的に欠けている」とアンチ・クリマクス=キルケゴールは指摘する。
 人は、自分でどうにかできる部分もあれば、どうすることもできないことも抱えて生きている。そして、どうすることもできないことの中で、人は歯を食いしばって自分の人生を歩んでいる。自己の絶対的な支配者であろうとするものには、この人生への真剣さが欠けているのである。人には、「今ここで生きている自分」しかない。この「今ここ」への真剣さが欠落するのである。
 たとえばニーチェの「力への意志」や「超人の夢」、あるいはニヒリズムには、この「真剣さ」がない。「絶望している自己が受動的である場合」というのは、自分の絶望的な状況を「仕方がない」といったような諦めをもって、自分でそれを引き受けようとする場合である。
 彼(彼女)は諦め、自分で自分の絶望を引き受けようとする。自らに刺さった肉の棘を引き受けようとするのである。しかし、そうすればそうするほど、自分に刺さった肉の棘はますます食い込んでくるので、ついには、その棘に憤りを覚え、棘を機縁として存在全体に憤りを覚え、存在全体に対して反抗的になり、存在全体に逆らい、存在全体に立ち向かおうとする。彼(彼女)は、まるで苦痛に耐え忍ぶ英雄のように、自分の苦悩に誇りさえも感じながら自己を保とうとする。彼(彼女)は、苦悩に耐え忍び、すべての存在に立ち向かう英雄となる。だから、彼(彼女)は他からの救いの可能性を欲しない。「他の人に助けを求めるということはどんなことがあってもしたくない。(p.102)」のである。
 自分自身に絶望していながら自分自身だけに頼ろうとし、反抗的に自己自身であろうと欲し、自己の絶対化を生み、さらなる絶望の深みへと墜ちる。かくして、絶望は究極に達する。自己絶対化は悪魔的な絶望である。
 こうした自己の絶望に受動的である場合の最高度の絶望の哲学を、カミユやサルトルの無神論的実存主義の文学思想や虚無主義(ニヒリズム)に見ることができる。カミユの『異邦人』やサルトルの『嘔吐』は、その典型的な例である。
 こうして人は自己意識を上昇させ、ついには自己絶対化にまで行き着こうとして、その度合いを深めていくのである。そして、自己絶対化こそが「罪」である。従って、絶望は罪であり、死に至る病は罪そのものなのである。

<その69>

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望が自己を絶対化するがゆえに罪である、と述べた。「罪」は、法に触れるような犯罪を犯すことではなく、宗教的・存在論的概念である。英語表記でも、法に触れる犯罪は crime(クライム)、宗教的・存在論的概念である「罪」は sin(シン)として区別する。それは、人間が本質的に「欠けた」存在であることを意味する。あるいは、人間がその本来の姿を失って、関係を破綻させた姿を意味する。
 アンチ・クリマクス=キルケゴールが「絶望は罪である」というときの「罪」は、もちろん、宗教的・存在論的な概念としての「罪」である。従って、彼が「罪」という言葉を用いるときは、「神の前での自己」ということが語られているのである。

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、『死に至る病』の第二部で、この「罪」の問題と取り組む。それは、絶望が罪であるなら、罪とは何か、と問い返す形で、絶望と救いの問題を捕らえようとするからである。
 彼は、第二部の最初で、「罪というのは、人間が神の前に(もしくは神の観念を持ちながら)絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは絶望して自己自身であろうと欲することである」と罪を規定する。すでに見てきたように、絶望して自己自身であろうと欲しない場合と絶望して自己自身であろうと欲する場合は、共に、自己を失っていることを意味する。
 従って、「罪」とは、神の前で自己自身を失っている状態を意味するのである。  自己自身を失っている人間は、神の前に立とうとしないし、まるで、ヘビの誘惑に負けて、「してはならない」と言われていたことをしてしまったアダムとイヴのように、神から身を隠そうとする。
「人よ、あなたはどこにいるか」と問われても、彼(彼女)は答えることができない。神の前では、自己を失った姿がもっとも明瞭に現れるのである。
 それ故、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、これまでの『死に至る病』の第一部で述べてきた絶望における自己意識の上昇についてが、単なる「人間的な尺度」における上昇に過ぎないことを明瞭にする。
 自己意識は、自己自身であろうとすることによって、何らかの「永遠的なもの」へと上昇していく。しかし、これは、「人間的な自己」、あるいは、「人間が尺度であるような自己」という規定の内部で起こった上昇にすぎない、と彼は言う。
「自己をはかる尺度は、常に、自己が何に対して自己であるのか、というところにある。」(p.114)その基準が、世の中や周りの人々であれ、あるいは自分自身であれ、その基準は、常に、「人間的な自己」である。
 絶望の度は意識の度に従って強くなる。そして、意識の度は、自己をはかる尺度に従う。その自己をはかる基準が、「人間的な自己」である場合、人は絶望の堂々巡りを始める。彼(彼女)は、この世あるいはこの世のものに絶望する。そして次に自分自身に絶望する。自分自身に絶望した者は、その自己意識の故に、さらに深い絶望へと向かう。そして、絶望の故に、彼(彼女)は、この世もしくはこの世のものにいっそう絶望し、そこからまた、自己自身を失って絶望する。

 ところが、自己をはかる尺度を「神」に置いた場合、彼(彼女)は「神の前に立つ」のであるから、自己自身を無にすることができないし、彼(彼女)は神に対する自己を意識するのであるから、自己の度は無限に強くなる。ここにおいて、2つのことが明瞭になる、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。それは、「罪」と「信仰」である。

 彼は、「罪とは、人間が神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは神の前に絶望して彼自身であろうと欲することである。信仰とは、自己が自己自身でありまた自己自身であろうとするときに、同時にはっきりと自己自身の根拠を神の内に見出すことである。(p.118)」と述べる。
 自己の根拠を自己自身に見いだそうとするものは、遅かれ早かれ絶望の罠に捕らえられ、自由を失い、自己の根拠を神の内に見いだすものは、自己自身を委ねることによって、自己自身であり続ける。
 人間の目が、全くの暗闇しか見ないところで、信仰は神を見る、のである。
 こうして、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望からの一筋の道を「信仰」に見いだそうとする。人間は神を必要とする。ただし、ここでいう「信仰」とは、キルケゴールの場合は、キリスト教信仰であるが、彼のキリスト教理解は、通常言われるような「宗教としてのキリスト教」とは異なる。

 彼は、その晩年、「宗教としてのキリスト教」に闘いを挑み、孤軍奮闘して、その生命を終える。彼が求めたキリスト教について、第1章の『付論』で、「キリスト教には躓きの要素がある。それはキリスト教があまりに高く、用いる尺度が人間ではなく、人間を人間が理解し得ないものにしようとするからである。」と述べる。

<その70>

 絶望は罪である。なぜなら、絶望は、いずれにしても自分自身を失っており、この失った自分を世間や他の人に求めたところで、その得られるものは空虚な「偽り」でしかないし、根本的に自分自身を失っている状態や「偽り」に身を委ねる状態こそが罪に他ならないからである。

 絶望は罪を明瞭に示す。
 ソクラテスに言わせれば、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは、第2章で「罪のソクラテス的定義」を述べる。ソクラテスに言わせれば、「罪とは無知」である。ソクラテスは、「知は徳」であると考えた。正義や思慮、勇気、美などのいろいろな徳も、すべて「知識」に基づくのであり、何が正しいかと言うことを知る者が正しいことを行うと考えたのである。「徳」を知る者が徳を行うことができ、「愛」を知る者が愛することができる。「徳を知らない者」は、ただ、動物的な感性と欲求だけで生き、「愛を知らない者」は、自分を真実に愛するものに気がつかないし、肉欲を愛とすり変える。また、「自由を知らない者」は、束縛のない状態を自由と勘違いする。
 現代のように「知」と「徳」とが分離してしまった時代は、知の不幸である。ソクラテスは、むしろ、知が徳であるような知のあり方を求めた。しかし、知が徳であるような知のあり方をする人とめったに出会うことはない。現代ではなおさらである。近代人F.ベーコンは「知は力」と言った。現代人は「力」としての「知」を求める。しかし、かつては「力」は「徳」の一つでもあったのである。現代では、力と徳は完全に別のものになってしまった。
 ソクラテスは知者を捜し求めたが、ついにこれと出合うことはなかった。そして、知が徳であるような知のあり方を自らに課した。知の究極の目的は徳を知ることなのである。徳なき知は、人間にとって無意味なものに過ぎない。
 それゆえ、ソクラテスに言わせれば、人が不正をなすのは、正しいことが何かを真実に知らないからであり、無知であるか、誤った知をもっているからである。誤った知は、結局は、そのものについての正しい知識をもたないのだから、無知そのものである。だから、「知っている」と言いながら罪を犯すものは、実際は、無知そのものに他ならず、彼(彼女)は自分の無知にも気がつかないほど無知なのである。その無知から罪が生まれ、罪は無知そのものである。彼(彼女)は、まず第一に、自分自身さえ知らないし、知ろうとしない。そして、絶望は自分自身を失うことであるから、「無知」そのものに他ならないことになる。

ところで、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
 キリスト教的に言えば、罪は自由な意志に関する問題である。善を欲することも悪を欲することも、またそのいずれかをも欲しないことも、ただ人間の自由な意志の決定に委ねられている。誘惑者にさし出された見るに麗しい「木の実」を食べるかどうかは、イヴの決断に委ねられている。そこに自己の行為の責任がある。どんなに巧みな言葉が並べられ、さし出されたものがよさそうに見えようとも、それを食べたのはイヴの意志である。彼女はその意志の結果を負わなければならない。彼女はエデンの園を追放され、愛する者との関係の断絶を負わなければならない。悪を欲することの容易さに比べて善を欲することの何と難しいことか。
 意志とは、その人の思いが向かう方向を意味する。イヴの思いは、神でも、もっともよきパートナーでもあったアダムでもなく、誘惑者の方向へと向かったのである。
 従って、「無知」であるかどうか、絶望するかどうかは、その人の思いが向かう方向と大きく関係している。真実の知に向かうかどうか、真実の愛に向かうかどうか、自分自身から始まる確かな希望に向かうかどうか、そこに絶望からの回復のカギもあることになる。
 もし、悔い改めがこうして始まれば、彼(彼女)の絶望からの救いが始まる。キルケゴールはここに一縷の望みを託す。ここで、罪の弁証法、絶望の弁証法が始まる。そこでは、絶望は積極的な意味をもつのである。

<その70>

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、前回までで、絶望が罪であり、罪はソクラテス的理解に従えば、「無知」、キリスト教的理解に従えば、意志が本来のものに向かわない姿(「罪」を意味するギリシャ語のハマルティアは、もともとは「的はずれ」を意味する)である。
 そのいずれにしても、罪は消極的なものとして理解されている。そして、罪が消極的なものである以上、絶望もまた消極的なものとなる。

 しかし、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、罪を人間の弁証法的契機として位置づけ、それによって絶望も精神(自己)の弁証法的契機として位置づける道を探ろうとする。彼は、罪を全面的に消極的・否定的なものと見なすのは、本来のキリスト教的な罪の規定とは相容れないものであると言う。
 彼によれば、「罪を消極的否定的なものと見るのはディオニシウス・アレオパギタいらいの神秘主義思想の特徴であり、この思想は近世の思弁哲学によって受け継がれた。罪は非存在であり、無である。従ってネガティヴな規定をもつものに過ぎないとされる。」ことになる。
 これは、罪が否定的・消極的なものであるという理解を完全に否定しようと言うのではない。罪を否定的・消極的なものだけに限定することに対しての批判である。

 罪は否定的・消極的なものである。しかし、罪の役割はそれに留まるのではない。簡単に言えば、人は罪を自覚することによって悔い改めへと導かれる。罪は悔い改めの契機であり、救いの契機でもある。罪がアダム以降の人間に本質的なものであるとすれば、罪はこれを消すことができないし、これを否定したからと言ってどうなるものでもない。罪はこれを犯すまいとすることによってではなく、これを救いへの弁証法的契機として位置づけることによってはじめて乗り越えられるものである。
 同様に、絶望もまた人間精神(自己)にとって、自己が自己を意識する限りにおいて必然的に立ち現れるものである。

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、これまで、絶望が絶望として意識されない絶望、絶望が意識されるが、絶望して自己自身であろうとしない絶望、そして、絶望して自己自身であろうと欲する絶望、について述べてきた。それは、絶望が人間精神の自己意識にとって必然的なものであることを意味している。
 だとしたら、絶望は、絶望している自分を否定することによってではなく、あるいは絶望しないように細心の注意を払ったり、絶望した精神を他の何らかの気分とすり変えたりすることによってではなく、ただ、人間が真実の希望を持って生きることへの弁証法的契機として位置づけられることによって乗り越えられるものである。絶望は希望への契機であり、人間が自己自身となるための契機に他ならないのである。
 人は、罪の赦しや自己自身の契機としての絶望に「つまずく」。そして、そこでまた、つまずいて信じる気力を失った絶望と躓いて信じようと欲しない傲慢の絶望の中に陥る。
 キルケゴールに言わせれば、「キリストが罪をゆるそうとしたことに、人は躓く」のである。「神と人間との間に無限の質的差異があるという点に、除きがたい躓きの可能性が存する(p.182)」のである。

 だが、「自己が自己自身に関係しながら自己自身であろうと欲する時に、自己はこの自己を躓いた力の内に、はっきりと自己自身の根拠を見出す」(p.188)のである。

だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望を乗り越えるもの、絶望を自己の精神の自己自身への契機として位置づける信仰を絶望からの救いの道として位置づけようとするのである。まさに、「信じる者は救われる」のであり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」なのである。
 人は、自己自身を意識すればするほど絶望する。だが、絶望を本来の自己自身への弁証法的契機とするものは、その契機とすることの中に自己自身の根拠を見いだすことができる。様々な精神的遍歴を重ねたアウグスティヌスは、「神の内に安息を見いだす」と語ったが、そのような「安息」がそこに訪れるのである。
 そして、そこから、自律した自由な精神の持ち主である単独者の歩みが始まるのである。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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