kierkegaard

<その63>

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「何らの可能性をももたない自己は絶望している。また、なんらの必然性をももたない自己も同様に絶望している。(p.52)」と言う。
 人間の現実性は可能性と必然性の統合である。人間の自己は、常にこの二つの関係の中に置かれた自己である。たとえば、人が「生きること」の意味を問う時、その問いは、まず、この二つの次元でなされる。
 第一に、自分がこうして生きていることの必然性はどこにあるのか、と考える。人は、自分が「生きなければならない」積極的な理由を探そうとする。苦しみのただ中で、自分は何故、何のために、これほど苦るしまならなければならないか、と問う。人生の理不尽さや不条理、あるいは生きることの空しさを乗り越えようとする。その時、人は、自分の生の必然性を尋ね求める。存在の理由を知ろうとする。
 この時、誰かに、あるいは何かに必要とされていることを感じることができることほど嬉しいことはない。それは、自己の必然性が実感されるからである。愛は、この必然性の最高の段階でもある。
 人間は自己の存在を確認しつつ生きる生物であり、存在の必然性を見出すことができない時、人は生の意味を失う。

 第二に、人は自己の可能性を問う。人間は自分自身と自己の環境を自分で開発していかなければならない宿命を負った存在である。人間の行為は、この宿命に応えようとする行為に他ならない。だから、人は、常に、自己の可能性を追い求める。たとえその可能性が何もないように思われるところでも、あるいは、その生命活動が終わろうとするその最後の瞬間でも、人は自己の可能性を探す。そして、何らかの可能性が見いだせたとき、人は、その可能性によって生きることの意欲と勇気を引き出される。それ故、この必然性と可能性のどちらかが欠落したとき、人は絶望する。
 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、初めに、「可能性の絶望」について述べる。
「可能性の絶望」とは、文字通りには、人間がもつ可能性が絶望的状態になり、可能性が見いだせなくなることである。未来を失った状態と言ってもいいかもしれない。
 彼(彼女)は、自分の将来を悲観する。「夢も希望もない」と言う。「どうしようもない」と嘆く。彼(彼女)は失意の中にある。彼(彼女)の可能性が失われたかに見える。しかし、アンチ・クリマクス=キルケゴールに言わせれば、可能性の絶望は必然性の欠如に由来しているのである。彼(彼女)は、可能性を失っているのではなく、実は、必然性を失っているのである。
 なぜなら、可能性は必然性によって抑制されており、自己が可能性と必然性との統合であることを無視して、可能性が必然性を放棄するなら、その結果、可能性の中にあっても自己自身から遠ざかり、再び立ち返るべき必然性をもたないことになるからである。

 「可能的なもの」とは、一定の条件、あるいは前提の下で、実現されうるもの、現実的となりうるもののことをいう(I.カント)。この条件、または前提が事実(必然性)に基づかないならば、可能性は単なる空想または憧憬に過ぎなくなる。そして、単なる空想に生きる者が絶望であることは、前に述べたとおりである。彼の可能性は、実は、必然性を失っているが故に、絶望しているのである。彼(彼女)は、現実を見失っているが故に未来を失っているのである。その絶望は、言ってみれば、「捕らぬ狸の皮算用」の絶望である。
 また、人は必然性において絶望する。生きている理由がどこにも見いだせない時の絶望である。

<その64>

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、可能性の絶望が必然性の欠如にあるとのべた。つまり、未来が何にもないように思えるのは、自分が立つべき根拠を失っているからであるというのである。今ここに生きていることの意味を見出すことができないものは、未来に絶望するのである。
 しかし、それと同時に、人は必然性において絶望する。人は自分が生きる意味を見いだせない。人生を失敗し、あるいは失恋し、あるいは様々なあると思っていたものを失い、期待した報いが得られず、「意味」を喪失する。必然性とは、「他のようにはあり得ないもの」のことであるが、他のものと同じようにあることを考える人間は、初めからこの必然性を失っている。 だが、これは、必然性を失っているのではなく、可能性を失っているからなのである。

「人間的実存がその可能性を欠くところまで来ると、それは絶望の状態にある。しかもそれが可能性を欠いているあらゆる瞬間ごとに絶望である。(p.56)」 とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
 可能性、つまり未来がないが故に、彼(彼女)は、今に意味を見いだせないのである。

 こういう場合、俗物根性の持ち主は、単純に、「可能性」があれば、立ち直り、息を吹き返して蘇生できると考える。そして、現実に根ざした真の可能性ではなく、空想や曖昧な期待に身を賭けようとする。しかし、それが虚偽の可能性であるが故に、人は簡単に絶望状態へと舞い戻ってしまう。可能性とは、結局は、主体的決断の問題であるにもかかわらず、これを自己自身にではなく、自己自身から遠く離れたどこか他の場所に見出そうとするがゆえに、人は絶望するのである。
 結局、人間は、パスカルが言うように、自分が生きている意味などはどこにも見いだせない。「理由がない。誰がここに、この時代に、この状況に私を置いたのか。誰の指図か、誰の命令か、誰によってこのときにこの場所が私にあてがわれたのか。」その理由はないのである。

 人間は世界へ偶然に出現し、しかもそれを理由づけることができない。人間は自らが選ぶことができない状況の中に投げ出されている限りにおいて実存する。だからこそ、投げ出されたものであるが故に、自己自身を投げかけるという主体的な決断の行為によってのみ、その可能性を見出すことができるのである。
 ここでは、「存在するのではなく、実存する」という決断が必要とされる。そして、その場合においてのみ、人間の必然性と可能性は統合されるのである。キルケゴールは、先に、この主体的決断について『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』で述べているが、絶望においてこそ、これが必要であることをここで考えているのである。

<その65>

 可能性と必然性、つまり、未来が開かれていることと今ここにあることの意味の相貌のもとでの絶望について述べた後、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、人間の意識(自己意識)と絶望の関連について考察する。なぜなら、絶望は意識の産物でもあり、人は自己意識があるが故に絶望するからである。
 彼は、「意識の度が増すごとに、その増大に比例して絶望も増す。」と述べる。絶望を仮にaとし、意識の度をnで表すとするならば、絶望の強さはaのn乗anで表される。(p.62)と言う。
 ある人がどれくらい絶望しているかは、その人の意識の度合いに比例しているというのである。深い意識を持つものは深く絶望し、絶望する者は深い意識を持つ。それ故、人生を深く生きる者は深い絶望を味あわなければならないが、深い絶望者は、人生を薄っぺらではなく、深く生きる。
 反対に、絶望しない者は自己を放棄したものである。そして、自己を放棄しているが故に、彼(彼女)は自らは気がつかないとしても絶望しているのである。彼(彼女)の意識の度nは0である。しかし、a0=1である。この人は絶望しているのだが、自分の絶望を知らない。この人の生は浮き草の生であり、風に揺らぎ、川面を漂って流れていく。やがてその川が巨大な滝壺へと落ちることも知らずに。この人は、一時的な感性や感情に支配されて生きている人である。熱いものは喉元をすぎればいいわけで、今さえよければよいのだから、この人の人生は、常に一時的なものとなる。
 これは、現代人の多くの姿かもしれない。人は、感性の王国である「地下室に住みたがる」のであり、この地下室では、虚栄とうぬぼれが交差している。
 たとえばTVのCMに支配された現代、現代青年の多くが追い求める「流行」、それが今の「気分」であるとしたら、たとえそれがどんなに明るく見えようとも、それは「地下室の気分」に他ならない。だから、感覚的な快・不快、虚栄とうぬぼれに支配された地下室の住人である現代人の多くは「気分屋」であり、快・不快や虚栄を提示してくれるものの感覚の分裂に伴って、自己分裂を起こす。
 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望の最低度、言い換えれば、自分で絶望を知らないが故に浅くしか生きることができない絶望について、この人は自己が永遠的なものを持っているということに無知であると述べる。

 永遠的なものを失っているが故に、この人は一時的とならざるを得ないのであり、肉体的、感性的に生きるだけであって、精神とはなり得ないのである。
「自分の絶望について無知であるとき、人間は自己自身を精神として意識することから最も遠く隔たっている(p.65)。」精神が何であるかということは美的には規定されない。従って、美的段階に生きる地下室の住人は、同じ絶望を繰り返すが、決して自己自身を取り戻すことはない。

 では、自己の絶望を意識している場合、つまり、自分が絶望していることを知っている場合の絶望はどうか。
 初めに、絶望の度合いが低い場合、たとえば、自分が絶望していることは知っているが、どのように絶望しているかを知らないような場合、その場合、たいていの意識は「気晴らし」へと向かう。人間は自分を幸福にさせておくために、辛いことや悲しいことを考えないようにしたい。たとえば、死という自分を無にすることは知っていても、それを考えないようにして、あたかも「明日」があるかのようにして振る舞いたがる。
 現代の多くは、この「気晴らし」の行為であり現象である。地下室から、頭だけを出して、「気晴らし」を探す。安酒場で上司の悪口を肴に盛り上がったり、カラオケボックスで自己満足的に歌をうたったり、TVゲームに熱中したり、とにもかくにも「気分を変えること」に情熱を燃やす。
「気晴らしは」、確かに、一つの文化を創る。ファッションというものを生み出す。しかし、そこには精神性が乏しいが故に、いつもくるくると変化していく。ここには、永遠なるものは見いだせない。それ故に、それはまた絶望するのである。

<その66>

 自分が絶望していることを知らないことから、次ぎに、自分が絶望していることは意識しているが、絶望して自分自身であろうと欲しない場合、つまり、絶望して自暴自棄になり、自己を放棄している場合を考えてみる。通常、「絶望的な状態」というときは、この種の絶望を言うのであり、「絶望のあまり死んでしまう」時は、この状態にある。
 この状態について、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「この世またはこの世の何ものかについての絶望」と「永遠的なもの、もしくは自己自身についての絶望」の二つに分けて考える。
 第一の場合は「世の中への絶望」であり、第二は「自己自身への絶望」である。

 初めに、第一の場合であるが、これは、われわれが何かが嫌になるときの絶望であり、多くの人が最初に自分の絶望を感じる場合でもあるので、ここでは、少し長くなるが、キルケゴールの言葉を直接引用してみたい。


「この世またはこの世の何ものかについての絶望」は、全くの直接性の絶望である。絶望は単なる「悩み」に過ぎず、決して内からの行動は現れない。

「直接的な人間は、単に情念的に規定されているだけである。彼自身(彼の自己)は、世間的現世的なものの連関の中にあって、ともにその一環をなしているにすぎず、他の多くの環との直接的な関係においてある。
 かくして自己は希望し、欲求し、享楽しつつなどしつつ、直接的にこの世と関係し、しかも常に受け身である。欲求するときでさえ、自己は誘い出され、引きつけられ、束縛されており、従って受け身である。彼の弁証法は快と不快であり、彼の概念は幸、不幸、運命などである。
 ところで、この直接的な自己の身の上に何かが起こる。自己を絶望に陥れるような何かに、彼はぶつかるのである。
 ここではそれ以外の仕方で絶望が起こることはあり得ない。自己は自己自身へのいかなる反省をももっていないのだから、自己を絶望に陥れるものは外から来るのでなければならない。
 絶望は単なる悩みである。直接的な人間が生活のよりどころとしているものが、「運命の打撃」によって彼から奪われたとしよう。彼は、人々がそういっているように、不幸になる。そして、彼の内にある直接性が、もはやそれだけでは再び立ち上がれないような打撃を被るならば、彼は絶望する。・・・
 そもそも直接性は、それだけとしてはとてももろいものなので、直接性に向かって反省を求めるような「桁はずれのもの」は、すべて、直接性を絶望に陥れる。
 かくして彼は絶望する。ここにいたって、彼が絶望しているということが事実上現れてくる。けれども、彼の絶望は、それ自体がすでに誤解である。
 彼は自分の境遇を絶望的なものだと考える。だが実は、そう考えている自分の状態こそが絶望的なのである。
 いいかえれば、彼が永遠的な自己であるにもかかわらず、自分の時間的な境遇を絶望だと考えていること、あるいはまた、彼がその折々の現世的な境遇の内にあって、自己の永遠性を頼りに自己を自己として主張するような自己ではないこと、それこそが絶望なのである。彼が現世的なものに絶望しているのは、永遠的なものを失っているがためである。その限りにおいて彼は絶望している。(彼は絶望するにも及ばないものに絶望しているが故に、絶望しているのである。)
 かくして直接的な人間は絶望している。・・・もし彼の境遇が変わり、彼の願望が満たされさえすれば、彼は再び生き返り、さらに生き続ける。ただし自分の生命を自分の内に持たない人間としてである。・・・
 いつでも手に入れることができるようなわずかばかりの人生の享楽で、彼は満足する。(彼は自己自身ではなく。それを外に求める人間である。)・・
 しかしそれでもなお、不幸が次から次へと重なるならば、彼は二度と再び彼自身になることができないという悲しみから逃れて、むしろ自分とは違った別の人間になりたいというような願望へと飛躍する。
(彼は自分の生命を自分自身にもつような自己になるべきであるが)彼はそんなことは考えていない。
 彼はただ、境遇の点で自分をもっと都合のいい関係におくことができるような別の人間になりたいのだ。
 従って、本質的に見れば、ただ彼がこれまで生きてきた生活をさらにそのまま続けるに過ぎないような別の人間に、彼はなりたいのだ。(その場合の別の人間というのは、彼自身ではあるが自己ではない。)
 直接的な人間は常にその絶望の中で自分を誤解しているのであるから、そのような人間の絶望は、もともと無限に喜劇的である。(白水社版『キルケゴール著作集』p.75−78)


 以上で展開された「この世への絶望」についての考察には、大変興味深いものがある。多くの人が絶望だと考える「この世への絶望」は「喜劇的である」という。
 真にその通りかもしれない。

<その66>

 人は、この世またはこの世の何ものかについて絶望する。しかし、その絶望は無限に喜劇的である、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
 彼(彼女)はこの世にまたはこの世の何ものかに対して幸・不幸の概念を持って直接的に望み、希求し、そして、奪われ、自分の境遇が不幸になったことで絶望する。彼(彼女)は、自分が直接的に生活の拠り所としていたものを奪われ、立ち直れないと感じて絶望する。
 だが、これは、キルケゴールにいわせれば、まだ絶望ではなく、単なる「悩み」にすぎない。もし、彼(彼女)の境遇が変わり、彼のあの直接的な願望が満たされさえすれば、彼は生き返り、わずかばかりの人生の享楽で満足する。あるいはそれがかなわぬと知れば、彼(彼女)はただ、境遇の点で自分をもっと都合のいい関係におくことができるような別の人間になることを望む。
 そしてこのことは、度々繰り返される。失業、失恋、喪失、不信でさえ、この種の絶望を生む。彼(彼女)は、再び、この世またはこの世の何ものかの中から代替え品を探し出そうとして苦闘する。その種の代替え品は、安価な慰めであり、安っぽい「癒し」であり、かくして彼(彼女)は、再びこの代替え品に絶望することになる。
 だが、これは喜劇的である。なぜなら、彼(彼女)は、絶望するに値しないものに対して絶望しているからである。それらのものは、本来的に「過ぎ去るもの」にすぎず、代替え品によって生き返ったように感じるのは、「ぬか喜び」にすぎないからである。
 彼(彼女)は、得ようとして失うのである。「人が、たとえ全世界をもうけても、自分の命を損したら、それはいったい何の得になりうるだろう。」

 彼(彼女)が失っているのは、実は、この世もしくはこの世の何ものかではなく、自己の永遠性であり、自己自身に他ならないのである。直接性において絶望する者は、このことを知らないが故に、喜劇的であり、それゆえにまた絶望なのである。
「彼が現世的なものに絶望しているのは、永遠的なものを失っているがためである。」彼(彼女)は失ったものをあれこれ数えて喪失感をもつが、彼(彼女)が失っているもののうちで最大のものは、それを数えている自分自身である。
「彼は自分の境遇を絶望的なものだと考える。だが実は、そう考えている自分の状態こそが絶望的なのである。」

 ここでは、まだ、「絶望者は、まだ、いわば自分の背後に起こっていることに気づいていない。」「彼はこの世の何ものかについて絶望しているつもりで、いつも自分の絶望している当のものについて語るが、その実、彼は永遠なものについて絶望しているのである。なぜなら、彼がこの世に対してかくも大きな価値をおくということ、それこそがまさしく永遠なものについての絶望である。
 ところで、この誤解が絶望者にとって明らかになってくると、新しいいっそう高度の形の絶望の可能性が生じてくる。(p.88)」

 それは、絶望者が自己自身を閉じ込めていくという形である。彼(彼女)は自らをこの世から隔絶しようとする。それは、絶望して自己自身であろうとすることではなく、自己自身であることを放棄した姿である。世間の内にありながら、この絶望者は孤独であり、「よそ者」である。自分自身の内に閉じこもっているこの種の絶望者は、行為について恐怖を抱く。彼(彼女)が行動しなければならないとき、彼(彼女)はそこに誤謬と後悔の原因をしか見ない。彼(彼女)は、後ろしか見ようとしない。
 だから、彼(彼女)は行動することができない。彼(彼女)の自己は絶えず自己自身の上に戻ってくる。内省ではなく不安が支配する。夢によってかき立てられながらも過度の分析によってすり減らされ、思想において勇気づけられながらも、実践において気後れする。
 だが、やがて、彼(彼女)は自己自身を取り戻そうとする。自己自身でありたいと欲する。

<その67>

人は、自分自身に対して絶望する。
まず始めに、この世もしくはこの世の何ものかについての絶望がある。次に、永遠なもの、もしくは自己自身についての絶望がある。絶望は、一般に現象的には、この世、あるいはこの世の何ものか(この中には、当然、ある人に対する絶望といった他者をも含んでいる)についての絶望から、自分自身への絶望へと向かうが、自分自身に絶望している者は、自分で自分が嫌になっているのであるから、自分自身であろうなどとは欲しない。
 しかし、この絶望がもう少し進み、何故、自分自身であろうと欲しないかという理由を問い始めると、事態は一転して、「傲慢」が現れてくる、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは述べる。

 彼(彼女)には、自分で自分が嫌になるもう一つの「自分」がある。その「自分」は、たいていの場合、自己が理想として夢想した「自分」である。その夢想され、想定された理想の「自分」から見て、自己自身がはるかに遠くにしかあり得ないことを知り、自分自身に絶望するのである。ここに、現実に存在する自己自身をないがしろにしようとする傲慢さが登場してくるのである。ここには、自己否定をしようとするもう一つの自己を肯定してしまう傲慢さがあるのである。
 この絶望では、自己の傲慢さが最も端的に現れる。彼(彼女)は、実は、自分自身であろうと欲するが故に、自分が嫌になり、自分自身であろうと欲しないのである。

「絶望して自己自身であろうと欲するには、無限な自己についての意識がなければならない。しかるにこの無限な自己は、もともと自己の最も抽象的な形、その最も抽象的な可能性に過ぎない(p.97)」

この抽象的な自己、抽象的な可能性を求めるが故に、彼(彼女)は自己自身に絶望するのである。そして、絶望しながらも自己自身を思いのままに支配しようとするのである。彼(彼女)は、絶望のうちに自分自身を造り出そうとさえする。
 人間は自分の自己を、自分がそうありたいと思うような自己に仕上げようとし、自分の具体的な自己の中でもちたいものともちたくないものとを規定しようとする。自分の中の気に入った部分と気に入らない部分を区別させ、自分の欲する通りの自己を自分で造り出すために、気に入らない部分を何とかして捨て去り、それらの規定から自己を解放しようとする。こうして、彼(彼女)は、自分を一つの全体として捕らえることができずに、分裂する。
 現代は、この抽象、理想化された人間像、しかもテレビドラマやCMで演じられるような安っぽい人間像が幅を利かす時代である。髪型、ファッション、スタイル、お化粧、持ち物、あるいは思想まで。人間とその生活が仮想の映像として映し出され、人はそれにあこがれる。現代の分裂病はこうして着々と進攻してきた。
 この種の絶望をさらに立ち入って明らかにするためには、絶望している自己が行動的である場合と受動的である場合を区別し、いかに自己が自己自身に関係するかを示すのが最も好都合である、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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