その6
レギ−ネとの婚約を破棄した後、キルケゴールは精力的な著作活動にはいった。レギーネに読んでもらうためである。すぐに『あれか−これか』の執筆に取りかかり、2年の歳月を経て、1843年2月に刊行した。
キルケゴールは、初めから、常に二種類の書物を同時に出版するように計画していた。すべては、もちろん自費出版であるが、一方は、彼の実名で「信仰的・建徳的著作」を出し、もう一方で、様々な仮名で「この世的、非信仰的著作」を出したのである。彼はこれらをそれぞれ右手(聖なる手)の著作と左手(俗なる手)の著作と呼んでいるが、「信仰的・建徳的著作」の方は、今と同様、当時も、ほとんど読まれることはなかった。最初に右手の著作として出されたのが『二つの建徳的講話』で、左手の著作として出されたのが『あれか-これか』である。
彼の著作活動は、この実名著作と仮名著作の二重性の中で行われている。右手は徹底して宗教的であり、左手はこの世的である。1847年までの前期の著作活動は、左手のこの世的作品を次第に高尚にして行くことによって、最終的には右手の作品と結合させる目的で書かれている。それは彼の人間理解と密接に関係している。
今では有名になった例えであるが、彼は人間を地下室と一階、二階がある三階建ての家に例える。一番下の地下室とは美的・感覚的世界であり、一階は倫理的世界、二階は宗教的世界である。彼によれば、人間はこの三層の家のようなもので、どれも欠かすことのできないものであるが、何故か人間は地下室にのみ住みたがる。この三階建ての家の階段を上って行くこと、これが彼の左手の著作活動の目的だったのである。
左手の著作として、1843年に最初に刊行された『あれかーこれか』は、「美的世界に住む人間」に「倫理的世界」を提示する目的で書かれた。彼は、「美的世界」よりも「倫理的世界」の方が優れているとは言わない。「美的世界に住む人」の中に「倫理的世界」があることを気づかせようとするのである。そして、「倫理的世界」の価値を見い出し、「倫理的世界」に生きるように促すのである。人はだれでも、感性と理性をもち、美的世界と倫理的世界をもって生きているが、その両方に住もうとすると、結局は、「美的世界」にのみ住むことになり、「倫理的世界」に住むという決断によって、初めて、人は倫理的かつ美的世界に住むことができる。それ故、「あれも−これも」というのではなく、「あれかーこれか」と言い、人々に決断を迫るのである。人は理性だけの「倫理的世界」にのみ生きることはできないので、感性と理性の調和を図るためには「倫理的世界(理性的世界)」に生きるという決断が必要なのである。
『あれかーこれか』は、ヴィクトル・エレミタという名前で刊行され、著者は、単にAとBで表わされている。つまり、AとBが書いたものをヴィクトル・エレミタがまとめ、刊行したという体裁をとっているのである。キルケゴールの名前はどこにもでてこない。この「ヴィクトル・エレミタ(悲しみに打ち勝つ)」という仮名も象徴的で、それは、婚約破棄の悲しみに沈むレギーネへの呼び掛けそのものを意味していると同時に、人生行路の諸段階を一歩ずつ勝利して、階段を上って行く人間を象徴している。
『あれかーこれか』はAとBがそれぞれの考えを論述する二部構成で作られ、Aは美的・感覚的世界で生きる人間であり、Bは与えられている「ヴィルヘルム判事」という名前が象徴するように、倫理的世界で生きる模範的道徳家である。
はじめに、Aが紹介される。Aは冒頭でポ−ル・ペリソンの詩を引用し、「偉大さ、知識、名声、友情、快楽、財宝、なべて風にすぎず、煙りにすぎない。いな、なべて無にすぎない」という。すべては「無」である、というのである。そして、「人生はなんと空虚で無意味なのだろう!人は一人の人間を埋葬する。人々は野辺送りをし、三鍬の土を彼の上に落とす。辻馬車で出かけ、辻馬車で帰ってくる。自分の将来にはまだ長い人生があることを思って心を慰める。7×年が、いったいどれほど長いというのか」と述べるのである。つまり、人生は無に満ちているし、無そのものである。そして、無である死に飲み込まれて行くのだから、せめて、生きているうちに楽しもう」と言うのである。
この観点で、Aは第一にドン・ジュアン(ドン・ファン)の賛美から始める。ドン・ジュアンは、花から花へ移るように、女から女へと移り行き、その時その時の愛を楽しむ。その愛は感性的であり、刹那的である。Aはそのドン・ジュアンを理想とする。
モーツアルトの歌劇『ドン・ジュアン』の中に、ドンナ・エルヴィーラという女性が登場する。彼女は修道女であり、世俗との関係を断ち、ひたすら祈りと戒律、禁欲の生活を続けている。彼女は、キリスト教の精神性の中にのみ生きる女性である。そこにドン・ジュアンが登場し、ひたすら甘い言葉をかけ、彼女を落とす。ドン・ジュアンは彼女を落とすためには、それこそ全身全霊をかけて行動する。しかし、彼女が落城すたと見るや、彼の心は、もうそこにはなく、他の別の新しい女性へと向かっている。Aはそれを「まるで虎が百合を折るほどにすばやい」と言う。Aは、この歌劇を聞きながら、ドン・ジュアンの快楽と、これまで理性と信仰で押さえつけていた情念を解き放たれ、その瞬間に捨てられたエルヴィーラの悲劇の美しさを観賞する。そこには、虚無の勝利の快楽がある。修道女であれ、才女であれ、しょせんは情念と快楽のとりこになる。
Aは人間の理性をあざ笑い、信仰を軽蔑する。彼は、モーツアルトの『ドン・ジュアン』だけでなく、ゲーテの『ファースト』についても語る。学問という崇高な精神的営為を追求してきたファーストが、永遠の肉体と快楽を求めたが故に悪魔に魂を売り渡す姿を見て、Aは満足する。結局は、その時、その時を楽しく過ごすことがすべてなのだ、と。
そして、Aは『誘惑者の日記』を著す。コーネリア(レギーネの姉の名)という美しく清楚な娘をもてあそび楽しむ誘惑者Aの策謀と喜びが書かれている。すべては遊びであり、一時的な快楽、気晴らしである。そして、すべてに人は快楽を求め、それを追い求めるのが人間の自然であると説かれる。快、不快で物事を判断する人間の原形がそこにある。そして、多くの人は、たいていの場合、このAの次元で生きている。
この作品の中には、キルケゴールの名前は一度も出てこない。しかし、彼は自ら悪人、誘惑者として判断されることを決心し、自らをAに偽装する。レギーネがこの作品を読めば、それがキルケゴールであることが分かるような事柄が暗示され、レギーネにとって自らが最悪の人間であることを提示し、一刻も早く自分のような人間のことは忘れ、レギーネが婚約破棄の痛手から立ち直るようにしむけられている。
この美的快楽主義者Aに対立する人間として、キルケゴールは『あれかーこれか』の第二部でBを登場させる。
その7
ヴィルヘルム判事という名前が与えられているBは、模範的な結婚をし、社会人としての常識をわきまえ、一般的な尊敬を勝ち取るに値する人物として描かれている。BはAに対立し、BはAを非難する。キルケゴールは、まず、「美的快楽主義者のAか−倫理的道徳家のBか」の二者択一を迫るのである。
Bは言う、「約束を守ることは人間としての良識であり、婚約を破棄するような人間は下の下である」と。そして、「君(A)の心理的関心は真摯さを欠いており、楽しみではなく、むしろ憂鬱的好奇心である」と言うのである。Bは、まず、Aが軽蔑をしている結婚について次のように語る。「私が真底心にかけていることは、妻が私を真に愛し、また私が妻を真に愛するということである。結婚は人生の厳粛事なのだ。・・・Aは感情にのみ揺り動かされている。しかし、感情は刹那的なものである。確かに、感情的なものは一時的な満足を与えてくれる。しかし、それは真の満足ではない。大切なものは、真の倫理性である愛における真の永遠性である。」
BはAの刹那主義を批判し、愛の永遠性を主張する。そこには、感情を押さえる理性と、その理性を支えるしっかりとした倫理が必要とされる。そのような土台の上に、真の愛が成り立つ、とBは言うのである。Aの人生には様々な満足があるように見えるが、所詮は、それは暇つぶしの人生でしかない。その満足は、時が移れば次々と消え去って行く。それ故、実在しているようであるが、実は影だけしか残らない。人間は自分自身の生活の中で体験したことをしっかりと身につけ、それを経験として将来への土台としなければならない。人生は実際の生活の中から教訓を習得しつつ、それによって確実に築きあげていくものである。だが、Aは、生活の中で出会ったものとすれ違いをくり返し、決して積極的に人生を築こうとはしない。できるだけ上手に片足だけを入れ、もう片足はそこから逃げる準備をしている。快楽はあっても徳がない、とBは言う。
そして、BはAに「絶望せよ」と呼びかける。Aの生活は絶望の状態にある。にもかかわらず、Aは満足していると言う。それは欺瞞である。自分の姿、絶望の姿を見つめよ、と言うのである。人はどのような嘲笑にも甘んじるべきではない。どんな時にも、魂の真剣さが、高潔さがなくてはならない。真実の理想は常に現実的なものであり、ごまかしや妥協は何も生み出さない。Aのような快楽に酔った人生も、為すべきことを知りつつも何もしない人生も、すべては空しい。Aは、自分の魂の真実にかけて、まず、自分の絶望状態を認めることから始めるべきである。一刻も早く自分の本当の姿を見つめ、自分自身で人生を築き上げる人生へと向かわなければならない、と提言する。
Bにとって、人生は、主体的に「あれか−これか」を選択することによって築き上げていくものである。「あれかーこれか」の選択に、その人の人格の形成がある。それ故、自分をごまかすことなく、真の自分自身からはじめて自分自身を築いて行く運動をすること、それが最も大切なことである、と主張するのである。そこには、あのソクラテスの「汝自身を知れ」の命題が響いている。そして、この命題を明確にするために、あたかもAの『誘惑者の日記』に対位するかのように極めて宗教的な『われわれは神に対していつも正しくないという思想のうちにある教化的なもの』と題する一文がしたためられている。この長い魅力的な題名をもつ一文は、実際には、レギ−ネ・オルセンに向けて語られているものである。
その8
『あれかーこれか』の第二部の最後に納められているBが書いた信仰的な著作『われわれは神に対していつも正しくないという思想のうちにある教化的なもの』は、「すべての人は自らの不完全さ、罪を認めるところから出発すべきである」という主張から始められる。Bは「人間は欠陥のある存在であり、完全な人はいない故に、すべての人は神の前で過ちを犯す」と言う。
Bは、先に、人間が自分自身であること、たとえ絶望していたとしても、ありのままの自分を認めることの大切さを訴えた。そして、そのありのままの自分を認めた時、そこにあるのは不完全で誤りを犯してしまう自分に他ならない。しかし、その自分の不完全さ、罪に気づき、それを認めることによって、誤りを正そうとする努力が生まれる。自分の欠陥を認め、努力をしてそれを正そうとすることこそ人間の理想的な生き方である、と倫理的道徳家のBは考えるのである。
このBの考え方は、極めて一般的・常識的と言えるかも知れない。誤りがあれば正し、欠陥があれば補う努力が必要である。それらは、なんとかして自分の力で改善できるし、改善しないのは本人の怠慢のせいだ、と今の小市民的教育者も言うだろう。Bにとっても小市民的教育者にとっても、彼らが考える人間の欠陥や不完全性は人間の能力の範囲内にあるものに過ぎない。そして、それが倫理的道徳家であるBの限界でもあるのである。Bは、人間がどのようにあがいても正すことができない欠陥と不完全さを抱えていることを理解できないのである。このBの限界は、キルケゴールの次の著作『おそれとおののき』で明らかにされていく。
『あれか−これか』で、キルケゴールは、ただAとBとの二つの生き方を提示するだけである。もちろん、密かにBの生き方が選択されるように願いながら、である。そして、レギ−ネ・オルセンに向けて、Bの最後の信仰的・倫理的著作で、キルケゴール自身はもちろんのこと、彼女自身も、ともに不完全な欠陥をもつ人間であることを理解するようにと促すのである。しかし、模範的倫理家であるBも、また、限界をもつ。このキルケゴールの著作の位置づけ、AとBの位置づけは、極めて弁証法的である。そして、相反するAとBがさらに上位のものに向かった姿、それが『おそれとおののき』の著者「沈黙のヨハンネス」に他ならない。
|
All rights preserved by K`s Community |