kierkegaard

<その60>

 人間は有限と無限の統合である。彼は、自ら有限なものであるにもかかわらず、無限を思考することができるし、ある場合には、「無限の中で生きる」ことさえできる。また、「無限」を追い求める彼は具体的な「有限」な存在に他ならない。彼は有限であると同時に、無限であり、無限であると同時に有限であるのである。

 キルケゴール=アンチ・クリマクスは、「自己」をこの無限と有限の統合であると規定した。人間の「自己」の課題は、常に、自分自身となることである。

 「自己は、それが現に存在するあらゆる瞬間ごとに、生成の途上にある。・・自己がそれ自身にならない限り、自己はそれ自身であることはない。」

 事物は存在をもっているが、人間は実存をしか持っていない。「実存するとは何か」。実存するとは、生成することによってのみ存在することである。事物はどんな場合でも、それがすでに存在するところのものである。しかし、人間は常に、彼が自ら成ることを選ぶところのものでしかない。ヤスパース的な表現をすれば、人間の存在は可能的実存でしかない。
 だから、「自己」は、常に、具体的な自己自身となることを欲し、有限性と無限性の間を反復し、その統合を意識的に試みるのである。
 それは、自己を無限性の中に置くことによって自己を自己自身から解放すると同時に、自己の有限性を認識することによって自己を自己自身に立ち返らせる。
 たとえば、満天の夜空を見上げて、きらめく星座の彼方に広がる宇宙の無限に思いを寄せ、それと同時に、小さな惑星の上に生きている小さな自分を感じる。その時、人は、自分が自己自身であることを感じる。無限と有限の統合は、自己の解放性と自己の限定性であり、そう言うふうに自己が自己自身となるのでないならば、自己は絶望の状態にある。なぜなら、無限と有限の同時性がないときには、人は自己自身を失った状態にあるからである。
 この状態の第一は、自己の有限性の認識を欠如させた場合である。これは、自己の有限性を忘れ、空想によって自己を自己自身から解放しようとする者の絶望である。

 19世紀、人々は近代科学がもたらすバラ色の未来を空想し、ロマンを謳歌し、人間の可能性が限りなく広がっていくことを信じた。新しい市民社会を形成し、科学技術の恩恵を歌い、経済活動を活発にし、知識を増殖させた。夢(ロマン)と空想はどこまでも拡大し、人間の未来は希望に満ちたもののように感じられた。
 あるいは、ここで、一人の将来の希望に満ちた人の姿を思い浮かべてもよい。彼(彼女)は「成功」を夢み、バラ色の人生を空想する。長い間の労苦が実って、収穫ができ、蓄えもたまった。「さあ、これを飲み食いして楽しもう」というわけである。彼の空想はどこまでも広がる。彼はその空想の無限性の中に自己を置く。
 しかし、社会にしろ、人にしろ、キルケゴール=アンチ・クリマクスに言わせれば、このような状態は「絶望」の状態である。
 社会は、たとえば、突如として地震に見舞われ、崩壊する。あるいは、核爆弾のスイッチが押される。かの人は、今宵、自分の生命が取り去られることを知らない。無限となったところの、あるいはただ無限であろうとするあらゆる人間の実存は、絶望である。彼は自らの具体性である有限性を失うが故に、自己自身を失い、絶望の深淵にのみこまれる。
 20世紀の人間の状況は、まさにこれではないだろうか。20世紀の後半になって、人間は自らの有限性を自覚し、その反省を行ったが、この深淵があまりに深かったために、いまだに「出口なし」の状況が続いていると言えるかもしれない。

 人間は空想する動物である。空想的なものは、感情や認識や意志にも関係し、一般に無限化の媒介となる。 空想は他のいろいろな能力と並ぶ一つの能力というのではなく、あらゆる能力を代表する能力である。ある人がどれほど感動なり、認識なり、意志なりをもっているかということは、結局、その人がどれほど空想をもっているかということに帰着する。
 空想は無限化していく反省である。そして、自己とは反省である。そして空想は反省であり、自己の再現であり、それ故に自己の可能性である。だから、すべての人間の能力が空想、つまり、イマジネーションに帰着するということは、言い換えれば、その人の感じたり知ったり欲したりする働きが、いかに反省されているかということに帰着する。
 空想は、無限の可能性へと人間を解放する。そして、それだけにまた、空想的なものは、人間を無限なものに連れだし、そのようにして人間を自己から遠ざけ、人間が自己自身へ立ち返ることを妨げるものでもあるのである。かって、「想像力が世界を救う」といった哲学者がいたが、その想像力がどのような想像力かということが、実際は問題なのである。

 キルケゴール=アンチ・クリマクスは、それ故、絶望における空想と自己との関係を取り上げる。

<その61>

 空想、あるいは確かな根拠のない曖昧な期待、あるいは一般的に「夢」と呼ばれるものは、人間を無限のかなたへと連れ出す。人はそこで一時的な開放感を味わうだろう。彼の魂は空想の世界を期待に満ちて飛翔する。だが、この開放感は、麻薬のように禁断症状を伴う。彼は、糸の切れた凧のように具体的な現実である自己自身を失う。彼は現実に絶望する。
 だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、感情、認識、意志、自己の全体が空想的になる場合について、次のように言う。

 まず、感情が空想的になる場合というのは、たとえば、個々の具体的で現実的な人間を感じるのではなく、「人類の運命」とか「人間愛」とかいった抽象的な事柄に対して多感な同情を寄せるといったことが行われる場合である。
 あるいは、映画やTVのドラマの主人公に対して感情移入をする場合もそうかもしれない。この場合、彼(彼女)が実際に知っているのは、自分が座っていたお尻の温もりと映画館のエアコンの寒さや暑さだけであるにもかかわらず、彼(彼女)の感覚は、映画の一場面やTVドラマの世界にある。
 彼(彼女)の現実の自己自身は希薄になる。やがて、映画館を一歩出て現実に引き戻されたときの奇妙な失意感が、彼(彼女)を襲う。
 あるいはまた、誰かを愛する思いが、感情的な次元でだけのものであり、それが曖昧な期待の中で展開されるなら、その愛は自己自身を失っているが故に破局へと至る。ただし、愛の場合は、これもまた「愛」と呼びうるものかもしれないが。
 次ぎに、認識が空想的になる場合であるが、一般に、認識の度は自己認識の度合いに対応している。認識が増せば増すほど、自己はそれだけ多くの自己自身を認識する。

 認識が空想的になると言うことは、認識が単なる知識となることを意味している。その場合は、その無意味な知識のために自己が浪費されるということになる。
 本来なら自己を高めるはずの認識が自己をすり減らすものとなり、知識が増せば増すほど自己は消失し、絶望するという悲劇を生む。この点からいえば、現代の知識教育は、教育によって人を絶望に落とし込むようなあり方をしていると言えるかもしれない。
 第3に、意志が空想的になる場合であるが、意志は意志としてのある一定のベクトル(方向性)を持つが故に、無限であると同時に有限であるというような方向を取ることができない。

 意志は、常に、具体的であるか、抽象的であるかのどちらかである。そして、意志が抽象的な場合、その意志は、何らの有効なものを持たないが故に、人は現実の具体性の前で絶望する。たとえば、全人類を愛そう、と言う意志は、具体的に煩わしい隣人によって簡単にうち砕かれ、この抽象的な意志の持ち主は、簡単に絶望する。
 最後に、人間の全体が空想的である場合、その場合には、人間が空想的なものに積極的に自ら身を投げる能動的なものと、空想的なものによって心を奪われるという受動的なものがあるが、いずれにしても、それは自己の責任において成されるものである。その場合、自己は抽象的な無限の内に、あるいは抽象的な孤独の内にあって、空想的な生存を営む。彼(彼女)は夢みる人である。
 しかし、彼(彼女)は、希望や夢を持っているように思えるが、その希望や夢は、単なる空想や曖昧な期待に過ぎない。けれどもそこはいつも自己が欠けており、自己はいよいよ自己自身から遠ざかるばかりである。
 こうして、人は、単なる憧憬や空想、期待にひり回される人となり、自己自身を失って自らを絶望の淵に立たせる。
 こうして、人はその立っている基盤を自ら失うのである。

<その62>

 これまで、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「有限性を失った絶望」として、自己自身、あるいは自分が生きている基盤である現実を失った絶望について述べた。

 次に彼が述べるのは、「無限性を失った絶望」である。宗教的な表現をするなら、「神なき絶望」と言えるかもしれないし、「永遠なき今」と言えるかもしれない。これは、空想も冒険も失った現代の平均的人間の絶望である、と彼は言う。無限性を失った人間は、有限の現実に縛りつけられる。
 たとえば、彼(彼女)は、人間が創り出したものに過ぎない社会のシステムに支配される。経済に支配され、政治に支配され、法に支配される。少しでもお金があれば、あたかも自分が豊になったように錯覚して嬉しがり、なければ嘆く。他の人をひれ伏させる権力を手に入れれば、あたかも自分が偉くなったかのように「いい気」になり、なければ悔しがる。誰かに非難されたり、罰されたりすることを恐れる。あるいは、周りをきょろきょろ見回し、自分が流行に遅れていないかが気にかかり、流行を追う。他の人と同じでないことが、ひどく「惨め」なことのように感じられる。あるいはまた、彼(彼女)は科学技術に支配され、自分の有限な経験や知識に支配される。ほんのわずかなものに過ぎないのに、あたかも真理であるかのように自分の経験や知識を語りたがる。
 彼(彼女)が病気になったとしよう。設備や機械が整った病院へ行く。そして、病院のベットに寝て、彼(彼女)が見るものは、心臓の鼓動を示すグラフや数字、設置された機械である。有限性に支配され、無限性を失った彼(彼女)は、自分の魂を飛翔させる場所や自由を持たない。彼(彼女)は、有限な肉体に縛りつけられる。
 今だけの「快」、今だけの「楽しみ」、今が良ければよい、という者は、ついに深い愛を知ることはない。彼(彼女)は、自らを肉の塊とする。彼(彼女)は、ついに八方ふさがりとなり、行き場を失う。
 無限性を失った者は、自らを有限に支配させ、「もの」となり、機械化する。彼(彼女)は、常に集団の中にいて、「自分の決断」を恐れる。なぜなら、彼(彼女)は、ただひとり神のまえに立って自分の決断をするという勇気を、無限性を失うことによって放棄しているからである。
 彼(彼女)の決断の基準は世間であり、取るに足りない他人の評価である。

 人間は、どこまでいっても有限の生物である。だが、この有限に過ぎない人間が、もし、有限性と同時に無限性の契機を見失わないなら、有限性は決して人間を絶望に陥れるものではない。むしろ人間は、有限性においてこそ自己自身であることができるはずである。
 人間の有限性は無限性の中で初めて意味を持つのである。M・ハイデッガーが言うように、生は死によって意味を持つし、愛は無限の愛において初めて愛となるのである。
 無限性を失った人間、あるいは、無限性への契機を失った人間は、自らの有限性に閉じこめられ、魂の自由な飛躍をすることもできずに「出口なし」となり、自らの有限性に絶望する。従って、人間は自らの有限性を失うと自己自身を失い絶望し、無限性を失うと、有限性に閉じこめられて絶望する。

 これが、「無限性と有限性」という二つの相貌における絶望である。そして、次ぎに、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「可能性と必然性」という相貌の下での絶望について述べる。人間の現実が可能性と必然性の統合だからである。
 彼は言う。「何らの可能性をももたない自己は絶望している。また、なんらの必然性をももたない自己も同様に絶望している。(p.52)」

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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