kierkegaard

<その57>

 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「絶望してなお自分自身であろうとすること」について、「存在の根拠の発見」ということで述べた。だが、それは可能なのだろうか。人はどこに自分の存在の根拠を見出すことができるのだろうか。「人よ、あなたはどこにいるか。」
 自分自身に絶望している者は、自分自身に自分の存在の根拠を置くことはできない。具体的な他者との関係において絶望している人間は、他者との関係に自分の存在の根拠を置くことはできない。 だとしたら、人はどこに自分の存在の根拠を見出すことができるのだろうか。人は、生きている限り、自分の存在の根拠、あの「生きていてよかった」という実感を伴った根拠を求めざるを得ない存在である。
 だからこそ、人は自分自身と関わり、他者と関わる。だが、その存在の根拠はどこにもない。ここに、もう一つ深い絶望が横たわっているのである。

 そもそも、人は、何故、絶望するのか、絶望はどこからやってくるのか。この問いに対して、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「絶望の可能性と現実性」という観点から論じようとする。
 「可能性」と「現実性」という言葉は、アリストテレス以来、現実の状態を示すために用いられている概念である。「可能性」とは、「ありうる」「できうる」ということを示し、「現実性」とは、「ある」「・・・している」ことを示す。
 たとえば、家の柱となりうる木とすでに柱である木。視力を持っているが、今は目をつむっている者と現に見ている者。ある像となりうる大理石の固まりとすでに彫刻されて完成している像。一方は可能性においてあり、他方は現実性においてある。通常、「可能性」から「現実性」への移行を「生成」と呼ぶ。
 しかし、「絶望の可能性(絶望できるということ)」と「絶望の現実性(現に絶望していること)」との関係は、通常の生成の場合と異なっている。普通なら、可能性から現実性への移行は、存在可能なことから存在へと至る上昇と考えられる。しかし、絶望の場合には、可能性から現実性への移行は、存在から非存在への下落となる。
 なぜなら、現に絶望していることは、絶望することができるという可能性すら失っていることであるからである。絶望は、あらゆる可能性の否定であり、非存在へと向かう精神の運動に他ならない。そこでは現実性は、無力な否定された可能性である。
 人間は自己であり、精神であるからこそ、絶望することができる。人間の自己は絶望する可能性を無限にもっている。もし、「自己」をもつあなたが自分は絶望などしていないと思ったとしよう。しかし、それがただ単に絶望していないというだけのことであるなら、あなたは、やはり、絶望しているのである。
 絶望していないということは、絶望することができるという可能性を全面的に否定することであり、それは「自己」というものを失っていることを意味する。そして、「自己」を失っているのであるから、それは絶望に他ならない。
 だから、絶望することができるということは、「自己」、あるいは「精神」をもっているということであり、これは人間がもっている無限の長所である。
 しかし、「現実に絶望するということは、最大の不幸であり悲惨であるばかりでなく、実に最大の堕落である」のである。なぜなら、絶望は自己自身を失うからである。この絶望は、人間が、自己そのものであると同時に、自分自身に関わるという二重性の統合的な存在であるところからやってくる。人間は無限と有限、時間と永遠、自由と必然の統合である。
 この統合のバランスを失い、自己自身に対する関係の内に分裂が起こることが絶望に他ならない。人間の二重性の統合は、その内に分裂の可能性を内包している。
 そして、この統合の分裂を引き起こすものは、あくまでも「自己」であり、それ故、絶望は自己の自由な決断によって、自らが招き寄せたものに他ならない。
 絶望の責任は、どこまでも自分自身が負わなければならないものなのである。

<その58>

 絶望は「死に至る病」である。
 しかし、この「死に至る」という概念は、絶望したことの終わりが死というような意味ではない。確かに、絶望状態にある人は、肉体的にも精神的にも疲労困憊の状態に陥るが、絶望という病で、人は肉体的な死を経験するのではない。「絶望のあまりに自殺する」ということもあるが、その場合、自分で自分の生命を断とうとする人は、その最後の瞬間には、まだ「自分(自分の生命を断つことができる自分)」というものがあり、自分に対する信頼は、「死ぬことができる」姿で残されている。
 絶望は、その自分自身に対する信頼さえ失うことであるのだから、「絶望の苦しみは、まさに死ぬことができないという点にある。」のである。
 死は過ぎ去ったものであるか、これから来ようとするものであるかのどちらかである。もしそこに苦痛があるとすれば、これから確実に来るものに対する不安から生み出されたものである。しかし、「死に至る病」の内には、過ぎ去ったものも来たらんとするものもない。そこにあるのは、常に現在的な苦痛である。絶望者にとっては、死ぬことができるという希望さえも失われるのである。
 絶望は「最後の希望である死さえ来ないほどに希望が絶たれているのである。」(P.27)「絶望とはまさしく自己自身をすり減らすことである。けれどもそれは自己自身をすり減らそうとする情熱だけであって、自己自身をすり減らす力は持っていない。しかもこの無力感が新たな倍加された絶望の原因となる。」(P.27)

 絶望者は何ごとかについて絶望する。一瞬、それはその通りである。だがそれは一瞬だけのことであり、本当は自己自身について絶望したのである。

「『カイザル(皇帝)か、しからずんば無』を標榜している野望家が、カイザルになれないならば、彼はそれについて絶望する。だが、その真の意味は別の所にある。
 彼はカイザルになれなかったために、自分自身であることに絶えられないのである。だから彼は本当は自分がカイザルになれなかったことに絶望しているのではなく、カイザルになれなかった自分自身について絶望しているのである。
・・・この自己が今では彼にとって耐えがたいものなのである。・・・カイザルになれなかった自己自身から逃れられないことが、彼には耐えられないのである。」(P.28)

 「だから、何ごとかについて絶望するのは、まだ本来の絶望ではない。それは絶望の始まりである。
 「若い娘が恋故に絶望している。彼女は恋人を失ったこと(彼が死んだとか、彼が彼女を裏切ったとか)について絶望している。彼女の絶望はまだあらわになってはいない。

 本当のところは、彼女は自己自身について絶望しているのである。彼女のこの自己、もし彼女が彼の恋人になっていたら愛情を込めて逃れることができたであろう彼女のこの自己が、今では彼女にとって悩みなのである。
 それはいまでは「彼」のいない自己であらねばならないからである。彼女にとって宝ともなったであろうこの自己、それが彼が死んだいまとなっては、いとうべき空虚となった。あるいは彼が彼女を欺いたことが思い出されるがために、この自己が嫌悪すべきものとなったのである。」(P.29〜30)

 絶望者は、自分が欲しない自己であることを強いられる。自分が欲しない自己であらねばならないことは、彼にとっては苦しいことである。絶望は、最後の砦ともなるべき自己を空虚なものにし、無と化する。だからこそ、絶望は「死に至る病」なのである。
 そして、この病は普遍的である。「普遍的」といのは、誰もが、たとえ、自分は絶望していないと思っている人がいたとしても、自らのうちにこの病を抱えていると言うことである。
 つまり、人間は「絶望する動物」に他ならないのである。

<その59>

 人間は「絶望する動物」であり、「死に至る病」としての絶望は普遍的なものである。つまり、人間は絶望しつつ生きているのである。「何らかの意味で絶望していない人間はひとりもいないと言わざるを得ないだろう。」(P.33)とアンチ・クリマクスは言う。
 彼によれば、「絶望についての通俗的なありきたりの考察は、外見だけに捕らわれたものであり、皮相的な考察である。」(P.34)それは、自分は絶望していると表明するものを絶望していると見なし、絶望していないと言う者を絶望していないと見なすだけである。
 人の姿の表面を見て、元気も生気もなくしているとか、悲しげな表情をしているとか、辛そうだとか言うだけで、その人が絶望していると言うなら、それはあまりにも皮相的である。人は明るい相貌の下で深い絶望を抱えて生きているのである。否、明るければ明るいだけ、その人は深く絶望しているかもしれないのである。
 そしてまた、「自分は絶望などしていない、自分には希望がある」と思っている人もまた、自分で気づいていないだけ余計に絶望の根は深いのである。

 だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールに言わせれば、「絶望していないこと、言い換えれば自分が絶望していることを意識していないことも、まさしく一つの絶望の形」なのである。

 通俗的な絶望についての考察は、絶望が自己認識によるものとの皮相的な理解しかしていない。自己が認識しない深い絶望が存在する。絶望は精神の「気分」であり、自己の分裂によって自分自身を見失ってしまうことであるから、自己の認識よりも深い存在の次元に根づいているものである。絶望を皮相的にしか考察しないものは、絶望の深み、ひいては人間をその深い次元において認識することができないのである。
 また、通俗的な絶望についての理解は、精神の病といわれる絶望が、弁証法的なものであることを見逃している。

 人間の精神は常に「あれか−これか」の選択と決断の危機の中に置かれており、精神はいつでも絶望に直面し、絶望の中に置かれる。「あれ」を選んでも、「これ」を選んでも、人間の精神は、そこに「自己」というものが存在する限り、絶望に直面し、絶望の中に置かれる。絶望は「無」であり、この絶望を認識する主体は「有」であり、絶望は、この無と有の弁証法の中にある。
 生きることは矛盾に満ちている。絶望の弁証法を理解しないものは、この矛盾に満ちた人間の実存を見損なう。
 それ故、キルケゴール=アンチ・クリマクスは、ここでは、再三に渡って、人間の自己というものを、二つの対立する契機(無限と有限、可能と必然)の統合として捕らえることを主張する。そうすることによって、絶望の様々な形が見えてくるからである。
 そして、それによって、たとえば、ある絶望と他の絶望との差異が、絶望が意識されているか否かによって構成されている、ということがわかる。

 一般に、自己にとっては、意識(自己意識)が決定的なものであり、意識がませばますほど、それだけ自己が増す。意識が増せば増すほど意志が増し、意志が増せば増すほど自己が増す。意志を持たない人間は、なお人間であることに変わりはないが、決して自己ではない。従って、自己の差異は意識の差異であり、絶望の様々な形はその意識の差異と相関的なのである。つまり、絶望の様々な姿は、その人の意識に従って段階をたどっていくのである。
 アンチ・クリマクス=キルケゴールは、こうして、人が絶望を意識する度合いに応じて変化していく絶望の形態を考察しようとする。
 まず初めに、絶望が全く意識されない場合であるが、この場合は、問題はただ二律背反する(それぞれに対立している)無限と有限、可能と必然の契機だけとなる。この場合、絶望は全く感覚的に捕らえられたものとなる。絶望は、ただ「気分」として理解されるだけである。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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