kierkegaard

<その54>

 キルケゴールの思想を代表する書物の一つといわれる『死に至る病』は、副題に「教化および覚醒のための、キリスト教的・心理学的講話」と掲げられた「建徳的講話」の一つである。これまで「建徳的講話」と彼が呼ぶ「キリスト教講話」は、そのすべてを実名で出版してきた。しかし、この書物は、あえて、 アンチ・クリマクス著作、セーレン・キルケゴール刊行 という形で、1849年7月コペンハーゲンにて刊行された。 これは、『あれか−これか』などのこれまでの「左手の美的・倫理的著作」と呼ぶものと同じ形式の出版である。
 キルケゴールは、先に『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の中で、これまでの仮名著作が自分の手になるものであることを明らかにしたのだから、通常なら、もはや仮名を使用する理由はないはずである。それにもかかわらず、「建徳的講話」の中に位置づけられるこの『死に至る病』を仮名で出版するということは、この書物そのものが特別の意味をもつことを示しているように思われる。
 もしかしたら、この書物こそが、これまでの実名と仮名(右手と左手・人間の救いに関わる宗教的なことと極めて人間的な美的・倫理的なこと)の著作の統合を示すもの、という意図があったのかもしれない。その意味では、本書こそがキルケゴールの思想を代表するもの、といっても良いのではないだろうか。

 ここで使われているアンチ・クリマクスという著者名は、明らかに、以前に出版された実存的主体性の問題を取り扱った『哲学的断片』や『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の著者名ヨハネス・クリマクスに対抗するものであることが意識された名前である。
 ヨハネス・クリマクスという名前は、精神の梯子をのぼっていく人間、限界や「破れ」、「罪」を抱えた人間が、自分の地平から真理(救い)を追い求めて行く人間の一人として位置づけられた名前である。これに対して、アンチ・クリマクスは、天の梯子から下ってくる人間である。アンチ・クリマクスは、精神の高みから低いところに向かって出発する人間である。
 上に登っていく者と上から降ってくる者、この両者が出会うところ、そこに人間の実存がある。「義人であると同時に罪人(M・ルター)」、「善であると同時に悪」である人間。キルケゴールの思索は、そこでの人間についての思索に他ならない。
 通常、「人間」は「人の間を生きる者」と倫理的に理解される。英語の「ヒューマン」も同じ意味である。しかし、人間は、「天と地の中間にある者」、「善と悪の中間」、「聖と俗の中間」の存在という存在論的理解もある。
 キルケゴールが『死に至る病』をあえて仮名で出版したことには、こうした「中間存在としての人間」という人間の実存的理解があるように思われるのである。

 キルケゴール自身もまた、自分はヨハネス・クリマクスとアンチ・クリマクスの中間にいる人間であると感じていたようである。
 彼は、日記の中で、「(ヨハネス)クリマクスは私よりも低い。自分がキリスト者であることを否定している。アンチ・クリマクスは、私よりも高い。彼は異常なまでもキリスト者である」と書いている。そして、人間が「天と地の中間のもの」であるが故に生まれてくる精神の気分、これが「絶望」である。
 夢破れ、希望が失われても、なおそれを望まざるを得ないが故の絶望。キルケゴールはこの絶望を見つめ続けるのである。

 考えてみれば、ある意味で、キルケゴールは人生に失敗した人間である。成功とか失敗とかは、人生においては、本当は何の意味もないことではあるが、一般的に言えば、彼は、自らの意志とはいえ、愛する女性と別れ、望む職には就けず、多くの誤解と非難を受け、失意の連続の中にあったのである。しかし、それだからこそ彼の思想は聞くに値する。絶望の中での深い思索に意味がある。絶望は人間の根本的気分に他ならないからである。

<その55>

 本書の緒論によれば、『死に至る病』という表題は、「この病は死に至らず」という新約聖書のヨハネ福音書第11章のラザロの復活物語の中で言われたキリストの言葉からきている。ラザロという生まれつき病を抱えていた人が手当の甲斐もなく亡くなった。その姉妹のマルタとマリアは、悲嘆にくれていた。そこへ、エルサレムへ向かうイエスとその弟子たちが通りかかると、マルタとマリヤは、イエスに、来るのが遅かった、ラザロはすでに死んでしまいました、と訴えた。そこでイエスは、「この病は死に至らず」と語り、ラザロの生命を取り戻したというのである。
 キルケゴールは、この聖書の物語から、人間を「死に至らない病」と「死に至る病」の状態にある者に区別して、究極的な死に至る病としての精神の死、つまり、絶望が究極的なものであることを示そうとしたのである。肉体の死は、それが多くの苦痛を伴うものであれ、まだ究極的な死を意味しない。人はまだ、思いでの中に、記憶の中に生きることができる。「この病は死に至らず」という言葉は、「希望がある」と言うことを意味する。
 しかし、精神の死は絶対的である。人は空虚な「無」そのものとなる。だから、絶望は死に至る病である。絶望と無は、相関的に人間の暗闇の淵を無限に開いていく。人は、自分が「無」となることを恐れる。無視されることを最も嫌うのは、その予兆である。それ故、彼はまず、第一部で絶望が死に至る病であることを示そうとする。

<第一部> 絶望が死に至る病であるということ

アンチ・クリマクスは、まず、絶望を三つの状態に分けて提示する。彼は、その三つを次のように規定する。
 絶望は精神における病、自己における病であり、それには三つの場合があり得る。
 1)絶望の内にあって自己をもっているということを意識していない場合(非本来的絶望)。
 2) 絶望して自己自身であろうと欲しない場合。
 3)そして、絶望して自己自身であろうと欲する場合。
 つまり、絶望を自己認識の度合いに応じて区別するのである。なぜなら、絶望は自己の気分であり、人が自分をどのように認識しているかによって、その状態が変わるからである。

彼は本文の書き出しを次のような有名な言葉で始める。

 「人間は精神である。精神とは何であるのか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。」

 彼は、人間は精神であると規定する。あるいは、断言するといった方が良いかもしれない。この場合の「精神」というのは、単に、人間を精神と肉体に分けて二元論的に考える場合のような人間の部分としての精神ではない。この場合の「精神」は、人間の全体を意味する。人間の肉体と精神は密接に関連し、人間は原子の集合体の一つであり、人間の意識は原子間のエネルギーの交換である。にもかかわらず、人間は精神である。われわれが自らをさして「人間」という場合、それは、われわれの「精神」を指している。「人間」は全体として「精神」なのである。

 よく、「人間の精神性」とか「精神としての人間」とかいう人間の概念が用いられたりする。その場合に対置されているのは、人間の肉体性である。しかし、「人間は精神である」というこの宣言は、その肉体性をも含めた上での全体としての人間を「精神」そのものとして位置づける、という意味である。
 それ故、精神とは自己そのものである。では、自己とは何か。アンチ・クリマクス=キルケゴールは、この自己を自己の関係性において捕らえようとする。


「自己自身に関わる関係、すなわち自己は、自分で自分を置いたものである  か、それとも他者によって置かれたのであるか、そのいずれかでなければならない。」
と彼は言う。

 人間は自己自身として単独に存在するのではない。もし、自己自身として単独にそれだけで存在しているものがあるとすれば、それは、「自己」という意識を持つことはないし、そのような自己意識を持つことは不可能である。人間は、本質的に関係存在であり、関係の中を生きている生物である。それ故、「自己」というものは、その人間が持つ関係から生まれてくるし、その関係によって明瞭になるのである。そして、人間が本質的に持つ関係は、常に二重である。第一に、人間は自己自身と関係をもつ。内省や意識というレベル以外に、人間の精神は、あたかも自分自身の外に立っているかのようにして、自分自身を眺めることも可能である。
 このようにして、人間は「自己」を獲得する。
 人間が本質的に持つ関係の第二は、第三者との関係である。

 「自己自身に関わるこの関係が、他者によって置かれたものであるとすれば、それは自己自身に関わる関係であるばかりか、さらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係である。」

 人間は第三者との関係において、自分がどのようなものであるかを知る。自分と関わる第三者が、自分をどのような人間と見なし、どのように扱うかを知ることによって、自己自身について認識する。
 このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。それは自己自身に関わるとともに、この自己自身への関係において他者に関わる関係である。そして、絶望とは、この人間が持つ関係における究極的な負の気分である。

<その56>

絶望は、自己の精神的状態であるから、自己意識のないところでは生じない。自己意識のないところで生じるものは、「不幸の気分」であったり、「悲しみの感情」であったりする感覚である。だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、これを「非本来的絶望」と呼ぶのである。「非本来的絶望」は絶望の感覚である。
 それに比して、「自己」をもつものは、「本来的絶望」を経験する。そして、人間の「自己」は、まず第一に自分自身と関わり、第二に自分以外の第三者と関わるという二重の関係の中で認識されるものであり、「絶望」がこの関係における究極的な負の気分であるなら、「本来的絶望」には二つの形があることになる。
 一つは、「絶望して自己自身であろうと欲しない場合」であり、もう一つは、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」である。
 自分自身を内省して絶望した場合は、簡単に言えば、自分自身が嫌になった場合は、彼は、今まで生きてきたような自分自身でないことを、自己自身から逃れることを、欲する。彼の自己は、自分自身であることを否定しようとする。内省というのは、常にそうした気分を伴うものであるとは言え、その場合には、絶望して自己自身であろうと欲するなどということはあり得ない。極端な場合は、自己が自己を消滅させようとするか、出口のない自己否定の暗い穴に落ち込んでしまう。もがけばもがくほど苦しみ、彼の自己は自らを傷つける。
 では、「本来的絶望」の第二の形である「絶望して自己自身であろうと欲する」ようなことができるのは、いったいどういう場合なのであろうか。それは、自己が自己自身に関係しつつ、同時にその関係そのものを置いた他者に対して関係している場合である。
 この「人間存在の本質的関係性」を認識している彼が絶望している場合、彼の絶望は単独の自分自身からだけではなく、第三者との関係におかれた自分自身、もしくは第三者との関係そのものから生じたものである。そして、人間の存在は、たとえたった一人で生きているように思えたとしても、本質的に、このような関係性の中に置かれているのだから、あらゆる絶望は、この「本来的絶望の第二の形」、つまり、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」に帰着していく。
 ただし、この絶望は単に自分自身から生じたものではないのだから、自分自身で絶望を取り除き、平安や平静に到達することはできない。絶望者が、どんなに全力を尽くしても、自分だけで絶望を取り除こうとするならば、なお絶望の内にあるのであり、自分ではいかに絶望に対して戦っているつもりでも、ますます深く絶望の淵に沈むばかりである。
 だから、絶望における分裂は、決して単なる分裂ではなく、「自己自身に関わりつつ、同時にある他者によって置かれている関係の中での分裂である。」(20〜21ページ)。

 ここから、「絶望が完全に取り除かれた場合」を考えることが可能である。それは、自己が自己自身に関係しつつ、同時に第三者と関係している中で、なお、自分自身であろうと欲する時の状態に他ならない。
 絶望してなお自分自身であろうと欲する者は、この関係性の中で、自分の存在の根拠を見出すのである。これがここから考えられうる「絶望が完全に取り除かれた状態」である。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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