その49
実存的情熱の表現が、崇敬、苦悩、罪責意識という姿で登場することを明らかにした上で、ヨハネス・クリマクスは、その「絶対」や「永遠」、「無限」との関わりに含まれていたものを「宗教性A」と呼ぶ。
宗教性Aは、それが「絶対」に関わるが故に、ある意味では弁証法的ではあるが、逆説的・弁証法的とは言えない。それは内面化の弁証法であって、<永遠の幸い>との関わりをもつが、その関わりが具体的な歴史的事象によって制約されることはないからである。宗教性Aは異教にも存在しうるし、宗教なき状態にも存在する。
一方、後で展開する「実存の弁証法的なもの」に含まれる「絶対」への関わりを「宗教性B」と呼ぶ。
宗教性Bは、宗教性Aに反して逆説的宗教性であり、弁証法的なものを第二の位置にもっている。それは単なる内面化の弁証法の集まりではなく、ある特定の歴史的事象に制約されている。
ただし、ここで使われている「宗教」という言葉は、一般に使われる「宗教」と混同することはできない。キルケゴールが使う「宗教」は、その前提にキリスト教があるとは言え、純粋概念としての「宗教」である。それは「絶対依存の感情(シュライエルマッヘル)」でもなければ、「聖なるものへの畏敬(オットー)」でもないし、歴史的諸宗教を四捨五入した「宗教」でもない。それはむしろ。プラトンの「イデア(理想)」に近いかもしれない。
主体的実存の「弁証法的なもの」がもつ宗教性Bが、「逆説的宗教性」である、というのは、その主体的な実存の形態が、たとえば原因と結果の因果関係によって自然に生じてくるようなものではなく、自然的認識によってはとうてい信じがたいようなことを「信じる」ことによって、決断と飛躍をなすからである。しかし、それは闇雲に「信じること」では決してない。「鰯の頭も信心から」というのではない。むやみやたらと「信仰」を振り回したがる愚かな宗教家は、すべてを「ごまかし」と「詭弁」で包むだけである。宗教性Bは、具体的な歴史的事象によって、弁証法的な制約を受けているのである。
ともあれ、この二つの宗教性の関係は、ヨハネス・クリマクスによれば、次のように規定される。
弁証法的なものBに注目することが問題となる以前に、宗教性Aがまず個人の中に成立していなければならない。つまり、自己の救いに関わるという内面性が弁証法的に反省され、次に、その救いそのものの主体への関わりが弁証法的に考察されなければならないと言うことである。自己の魂のあり方を反省し、しかる後に救いを求める。「悔い改め」、そして「福音を信ぜよ」なのである。従って、宗教性BはAよりも高次のものである。高次というのは、Aから始まりBに至るという意味である。この位置関係は厳密に保たれなければならない。
物事には段階があり、人は一足飛びに救いに至ることはできないからである。
それでは、その弁証法的なものがもつ高次の宗教性Bとは何か。
ヨハネス・クリマクスは、それについての直接的言明をしない。なぜなら、彼にはその直接的言明は不可能だからである。彼は「救い(永遠の幸い)」に到達した人間ではない。限りなく「救い」に近いとは言え、それだけに「救い」とは無限の隔たりがあることを彼は知っている。それ故、宗教性Bについて語るとき、彼は、宗教性Bでないものを指し示すことによって、語ろうとする。それは、ちょうど、神を語ろうとするときに、神そのものを語ることができないから、神でないものを指し示すことによって語ろうとすることと同じである。
彼は、まず第一に、この世界の時間に突入している「永遠の幸い(救い)」は、まさに「瞬間」であり、時間の断絶であるにもかかわらず、宗教性Bでないものは、それを時間の中の他のものへの関わりによって、たとえば、100年後とか、1000年後とか、あるいは歴史的なある出来事とかへの期待によってすり変えようとする、と指摘する。
キリスト教のような既成宗教においても、歴史上、こうした主張は、度々行われてきたし、擬似宗教、あるいはうさんくさい新興宗教の安っぽい終末観がこの類の代表的な例と言えるかもしれない。
第二に、宗教性Bにおいては、ある歴史的事象への関わり(たとえば、イエス・キリストの出来事への関わり)が自己の「救い(永遠の幸い)」の土台となるということは、弁証法的矛盾の止揚に他ならないが、そうでないものは、この矛盾を受け入れることができないで、直接性に留まろうとする。これは、人間の実存が矛盾を内包するものであることを理解しない。
たとえば、M.ルターの「罪人にして同時に義人」という人間理解は、宗教性Bにおいて、はじめて正当に理解されるものであるが、そうでない人は、「罪人」か、さもなくば「義人」かのどちらかしか考えることができない。
そして第三に、宗教性Bで言う「歴史的事象」とは、単なる歴史的な出来事というのではなく、本来は非歴史的な本質をもつものが歴史的であることによって事象となるものをいうのであり、合理的理性の限界を超えるものである。真理が現実となる出来事、「救い」が、今、ここで、到来する出来事、無限が内在する事象、本来目に見えないものが見えるようになる事象、などを言うのであり、宗教性Bをもたないものは、その弁証法的矛盾を理解することができない。
つまり、合理的客観的理性では理解することができない「逆説」や、人間が自分の力ではどうすることもできない「不条理」が、主体的実存と密接に関連していることを知覚すること、これが宗教性Bであることを指し示そうとするのである。
これらのことを別の言葉で言うことが可能であるなら、宗教性Bとは、内面的なものであった宗教性Aの具体化である。
その50
宗教性Bについての論述には、「パトス的なものを精鋭化されたパトスたらしめる弁証法的なものの逆作用と、このパトスの同時的要素」と題する「付論」が付け加えられている。
ここで、ヨハネス・クリマクスは、宗教性Aとの対比で、宗教性Bのより精鋭化された「情熱(パトス)」を、次の三つの形でさらに厳密に規定する。
その第一は、宗教性Bのパトスは、「罪意識」をもつ、というのである。先に、宗教性Aがもつ「罪責意識」について語られたが、それは、有限な人間が無限を求めるが故に、あるいは時間的な存在である人間が永遠を求めるが故に、自らの不可能性、欠如、できないことを自覚しなければならないために生じる意識であった。
宗教性Bの「罪意識」はこれとは厳密に区別される。それは、自ら永遠であり、無限であり、善であり、絶対的な存在である「神」の前に立つ時に生じる決定的な意識である。
彼は「神」の前に立つ。そこで、宗教性Aは、罪責を意識するが、そのような罪を犯さなかったことを感謝もする。しかし、宗教性Bは、ただ自分の胸を打ちたたいて、罪の許しを請うしかできない。宗教性Bの「罪意識」は、このように深いのである。
だが、言うまでもなく、神に「良し」とされて神殿を去ることができるのは宗教性Bである。
宗教性Bの精鋭化されたパトスは、第二に、すべての出来事に対して、そして自己自身に対して激情的に衝突する。否定的な形での弁証法的パトスが噴出するのである。ちょうど、エルサレム神殿で商売をしていた人たちを、「ここは神の祈りの家である」といって追い出したイエス・キリストのように、あるいは倫理道徳家の顔をしたファリサイ人を「あなたがたは、白く塗った墓のようだ。(表面はきれいに装ってあるが、その内面は腐っている)」と批判するイエスのように、宗教性Bは、否定的に衝突する。この激情的衝突は、あまりにも否定的弁証法であるが故に、躓きの可能性を内包している。それだけを見れば、人は躓く。
しかし、それと同時に、宗教性Bは、他者に向かって開かれた深い共感の故に「苦痛」を覚える。それは、十字架の愛の苦痛であり、「哀れみの故の断腸の思い」である。宗教性Aの「苦悩」と「悲しみ」は、「苦痛」へと変わる。
このように、宗教性Bは、一般的な宗教性Aが、さらに深まった姿を持つのである。そして、この宗教性Bこそが、真の<永遠の幸い>を告げる「宗教」であり、ヨハネス・クリマクスが求めるものに他ならない。
実存的主体性が、この宗教性Bに至るとき、有限であり、時間的であり、限界の中に置かれている人間の主体は、主体としての土台、真理としての主体性を獲得する。
それ故、ヨハネス・クリマクスは、次の第5章で、宗教性Bに至る道を獲得する具体的なことを述べて、『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』を終える。彼にとって宗教性Bを示すのはキリスト教(真の意味のキリスト教)であるから、それは「いかにしてキリスト者となるか」というテーマで勧められることになる。
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