その45
第二部の「第三章」は、具体的に自分の実存をかけて生きる主体的思考家の姿が取り上げられる。
客観性の道を行く抽象的思想家(具体的にはヘーゲルとヘーゲル主義者)は、すべての事柄を客観的に観察可能な対象とし、それによって、主体と客体を分離し、自己の主体性を客観性の中に埋没させてしまう。すべてが客観的対象という名目で抽象化される。現実のあれこれのことは捨て去られ、ここでは、実存も、真の現実性も破棄されてしまう。純粋思惟は、それがもしあるとすれば、現実性を可能性の中に解消してしまうことによって、思惟そのものを対象とするのだから、実存することや現実性に対して無関心である。実存をかけて現実の中で生きている者が出会うような困難は、消滅してしまっている。抽象化された理想だけが問題となるのであり、抽象的思想家は、生成することや実存することそのものを困難とは認めない。
しかし、実存する者にとっては、実存することが彼の最高の関心であり、実際に、具体的に、今ここで生きるということに関心を持つことがその現実性なのである。そこでは、彼にとって「生成」するということそのものが課題となり、「創造の業」の困難性につきまとわれる。しかし、抽象的思想家が、実際には何も生み出さないのに比して、彼は、自分の実人生で何事かを生み出そうとする。
簡単にいえば、座って自分のお尻を暖めている人間からは何も生まれてこない。彼にとって生きることは、自分のお尻の温もりでしかない。実際に、立ち上がり、体を動かし、歩き出すものは、道を歩く時に多くの困難にぶち当たるが、少なくとも、彼が歩いたという人生は作り出される。実存者とは、実際に歩く者をいう。
抽象的思惟の立場と実存的思考の立場は、思考(理想・可能性)と存在(現実性)をとの関わりをどう理解するかによっても区別される。
「可能性(〜でありうる)」と「現実性(〜である)」という概念そのものは、アリストテレスによって明確に区別された概念である。たとえば、ビーナスの像であり得る大理石の塊と実際に彫刻されたビーナスの像。前者は可能性であり、後者は現実性である。見ることができるが見ようとしない目と実際に見ている目。通常に考えば、大理石の塊は、ビーナスの像にもなりうるし、他の像にもなりうる。見える可能性をもつ目は、実際に開かれれば、他の者を見ることができる。だから、可能性は現実性よりも高い。
可能性から現実性への移行は、存在可能なものから存在への移行を意味する。それ故、抽象的な客観性を重んじる思想家は、存在を抽象化し可能性へと高めようとする。いともたやすく現実性を理想にまで高め、そこに向けての統合を思索する。しかし、主体的に実存しようとする者は、常に、可能性や理想性を保持しつつも、それだからこそ、理想性と現実との亀裂に引き裂かれて生きているのである。それ故、主体的思想家は、この亀裂で苦しみつつ生きる者である。
「生きる者」が背負わなければならない「苦悩」は、この亀裂から訪れる、と言えるであろう。「老い」や「病」は、この亀裂によってもたらされる「苦悩」の象徴である。たとえば人が病んだ時、肉体的に耐えがたい痛みがある。しかし、あるのはその痛みだけではない。痛みとともに、あるいは痛みとは別に、健康で元気である自分の理想的な姿と情けない哀れむべき姿で病院のベッドに横たわっていなければならない自分の現実との無限の差異、彼の苦悩はそこから訪れる。若々しく自由に闊歩する自分の姿と手足も動かせない老いた自分の現実、彼の精神的な苦悩はそこから来る。失恋した自分を許せないもう一人の自分の姿に悩む乙女。「生きる者」は、この可能性と現実性との亀裂から訪れる精神的苦悩を負いながら生きるのである。なぜなら、それが、現実を生きるということだからである。主体的思想家は、この現実の苦悩を背負う者に他ならない。
これは、別の表現をすれば、客観的思想家は現実性から可能性への止揚(弁証法的な上昇)を志向するが、主体的思想家は、常に同時性を志向するということでもある。
そこで、ヨハネス・クリマクスは、この問題を次に論じて、さらに両者の違いを明確にしようとする。
その46
物事の普遍的な体系を求めて客観性を追求する客観的思考家は、常に、現実的な個々の現象の低いものから普遍的な高いものへという上昇の方向を取ろうとする。そこでは抽象的に思考されたものが最高のものとなる。
たとえば、わたしやあなたという個々に生きている人間の具体的なことから始めて、「人間一般」あるいは「人類」という概念に到達しようとし、人間を「概念」として理解しようとする。概念化は普遍化であり、普遍化は抽象化であり、客観的思考家は、それを現実性から可能性への弁証法的上昇によって獲得しようとするのである。
しかし、たとえどのように精密なデーターが集められ、それが矛盾なく構築されて、「人間」の概念や「人類」の概念理解が得られたとしても、そこには、個々に生きているわたしやあなたは止揚されてしまっている。個人は、たしかに個体実例としてその「種」に関わっているが、この個体を、簡単に、何の造作もなしに「種」としての人間精神の発展過程に解消してしまうならば、全ては思考の抽象性となり、実存の現実性の前にでれば消え去る幻影になってしまう。
歴史もまた、ヘーゲル主義者のような客観的思考家は、個々の出来事を「弁証法的進歩」の概念で止揚し、「世界歴史」という抽象化された概念で統括しようとするが、そこでは、個々の出来事は、生々しく生起してくるものではなく、すでに予定され、決定されたものとして位置づけられる。人がまだ体験することがない未来の出来事まで、「世界歴史」の予測可能な範疇の出来事となる。占星術と占いの世界は、その代表と言えるかもしれない。この観点に立てば、もはや新たに体験すべき何ものもなく、経験すべき何ものもなく、全ては過去のものとして完了してしまっている。しかし、現実はその範疇を越えている。
一般に、現実性よりも、その現実性を止揚した可能性の方が大きいと考えられている。それ故、人は客観性を求めてきた。しかし、その抽象化された「概念」は、個々の現実の前では一つの幻影であり、それもまた一つのイデーの影に過ぎない。今、ここで生きている実存者にとって現実の個々の出来事、個々の実存と同時的になること、可能性と現実性を同時的にすることこそが課題となる。「今を生きること」の中にすべてが含まれるのである。彼は生きるのであって、生きることを抽象化するのではない。
それ故にまた、純粋思惟の規定に従うならば、主体的思考家は思想家の枠内には入らない。彼は、彼の思想や思考を生きることによって体現しようとするだけで、それを体系化しないからである。彼の「課題」は、自己自身を実存において理解することに他ならない。
抽象的思考は、具体的なことを抽象的に理解するという課題をもっているが、主体的思考家は抽象的なことを具体的にするという課題をもっている。抽象的思考は、具体的な人間から出発して「純粋の人間」に注目するが、主体的思考家は、人間であるという抽象的なことを、この個々の実存する人間という具体的なことへの方向で理解するのである。
従って、その思考の表現の伝達の形式も、具体的、弁証法的とならざるを得ず、彼自身が、詩人、倫理家、思想家そのままでないのと同様、その形式もまたそれらの人たちのどれとも同じではない。しかも彼の形式は、終始一貫して実存に関わっていなければならず、詩的領域、倫理的領域、弁証法的領域、宗教的領域を併せ支配しなければならない。こうした表現は、決して、直接的伝達表現ではあり得ない。それ故、彼の表現は多くの誤解を生むかもしれないが、その誤解そのものを、彼は自ら担わなければならないのである。彼は、自らの思想を表現しようとするときに、初めから、自らにそのような重荷を課すのである。なぜなら、それが、主体的思考そのものを実存において表すからである。
『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の初めから、ここにいたるまでのヨハネス・クリマクスの論理の展開は、主体的思考の性格、あり方、課題などを体系的思考や思弁哲学などの対比で明らかにするために、いわば渦巻き状になされている。「主体性」とその主体性をもって生きることの問題は、ちょうど螺旋階段を上っていくように進んでいっている。それは、ヨハネス・クリマクス=キルケゴール自身が、その主体的思考のあり方に忠実であろうとするためである。彼は、今、ここで生きる実存に立ち、それを検証し、そこから、自らの救いの問題を射程に入れて、その道を主体的に歩もうとする。今まで問題にされてきたのは、その「歩み」そのものである。いわば、道の歩き方である。そして、その歩き方に真理があることを指摘し、そこから救いとしての真理そのものの姿を見ようとしたのである。それが、これまでの論理の展開を難解なものにしてきたが、ヨハネス・クリマクスの姿勢そのものは、このように一貫したものであったのである。
その47
これまでにおいて、主体性と主体的実存の姿を考察してきたヨハネス・クリマクスは、第4章において、その主体的アプローチによって、『哲学的断片』で提起された問題、つまり、「いかにして歴史的知識が『永遠の救い』の土台となりうるか」が、どのように論じられるかを述べる。
それは、「自己の永遠の救い」こそが、人間の実存にとって最大の課題となるからである。自分の救いをどこに求めるか。これが、主体の向かうべき方向と主体そのものを決定する。ある人は、それをちょうど誘惑者のように、この世的・美的享楽的なものに求めるであろう。多くの場合がそうである。人は何故か地下室に住みたがる。ある人は世間的に、道徳的に立派であり、この世の幸せの中に安定した生活をすることに求めるであろう。しかしそれらはすべて、変わりやすい「まやかし」に過ぎない。
では、自分の救いをどこに求めるか。ヨハネス・クリマクス=キルケゴールは、それをキリスト教の真理に求めたのである。ただし、ここで言うキリスト教とは、実存の根拠を信仰によって提示するキリスト教であり、思弁哲学が言うキリスト教でも、教会組織が宗教的意匠をもって提示するキリスト教でもない。
そのために、キリスト教についての歴史的知識が救いの土台になりうるか、という問題を、主体的・内面的な問題設定からとらえ返し、真理をわがものにすることが改めて提起されなければならなくなったのである。彼は、一方の真理への道を歩んだソクラテスから始めて、ヘーゲル哲学を批判し、キリスト教を一つの学説としてみるのではなく、実存をかけて生きる者が、キリスト教とは何かを実存の方向において問うことへと進む。これはキリスト教の真理を客観的に問うのとは根本的に違っている。
キリスト教の真理を客観的に問うような思弁的理解は、キリスト教を哲学上の学説に変えてしまった。しかし、キリスト教は学説ではなく、古い実存に対する矛盾を現すものであると同時に、新しい実存の伝達なのである。それゆえ、「キリスト者となること」、つまり「人間の生成の問題」が絶えず問われ続けるのである。
従って、『哲学的断片』の問題は、次のように書き改められる。
「個人の<永遠の幸い>は、時間内では、ある歴史的事象との関わりによって決定される。さらにその歴史的事象は、その本質からして歴史的とはなり得ないもの、歴史的となるのには不条理によらなければならないものが、その構成要素となっているという仕方で歴史的なのである。」
つまり、「永遠の幸いの土台」となるような歴史的事象は、本質的には歴史的・時間的なものではないが、それが歴史的になるという逆説において歴史的であるような事象である、というのである。これが、彼の言う「永遠の救いをもたらす」キリスト教の真理、キリストの出来事なのである。
そこで、この非歴史的でありつつ歴史的である真理へ向けての実存する主体にとっての問題は、情熱的(パトス的)・弁証法的なものとして現れる。情熱的というのは、個人が<永遠の幸い>に関わっているからであり、人は情熱なしには<永遠の幸い>に関わることができないからである。また、弁証法的というのは、それが本質的には非歴史的である歴史的事象と関わっているからである。それはしかも、実存をかけて生きる現実において成立する。実存の問題は、常に、パトス的・弁証法的であり、パトス的なものを把握するためには実存の内面性が必要であり、弁証法的な難しさを把握するためには思想の情熱が必要だということである。
つまり、自らの実存をもって主体的に真理(永遠の幸い)を求めて生きようとする者は、情熱をもって、今ここでの歴史的な生を真理へ向かって弁証法的に生きる者に他ならない、ということである。それでは、パトス(情熱)的とは何か、また弁証法的とは何か、ヨハネス・クリマクスは、それを、AとBに分けて論じる。
しかしここで忘れてならないのは、実存をかけて生きる者が、絶対的な情熱によって<永遠の幸い>に対する彼のパトス的関係をパトス的に表現しつつ、しかも弁証法的決断に関わらなければならないように構成されているということである。つまり、両者は相関的である。実存に生きる主体にとって、情熱と現実における弁証法的な決断は、常に相関的であり、またそうでなければ、それは、存在するだけで、実存するとは言えない。
その48
まず、Aの情熱的(パトス的)なものについて、ヨハネス・クリマクスは、(1)その初歩的表現、(2)その本質的表現、(3)その決定的表現、と三段階に分けて論じる。 実存的情熱の初歩的表現は、まず、「実存の変革において行為によって現された絶対的目的への絶対的方向性(崇敬)」となって現れる。
単純な「美的情熱」は、自己の欲求の満足、感覚的な快、に向かい、これに没頭しようとし、欲求に身を委ねることによって、その欲求に支配され、自己自身を喪失していく。従って、その表現は、必然的に、自己を喪失することによる自己放棄の過程を描く。たとえば、『あれか−これか』の『誘惑者の日記』は、そのさいたる例といえるかもしれない。また、感動的ではあるが破滅していく主人公が登場してくる文学作品は、それの端的な例であろう。美的情熱に於いては、自己破滅の過程が、また自己満足でもあり得るのである。
それに対して実存的情熱(パトス)は、個人の実存の生成、自己変革に関わることを通して出現する。その初歩的表現として、彼の実存は、<永遠の幸い>に関わることによる変革の表現そのものとなる。そこでの情熱とは、実存をかけて生きる者が、実存することにおいて、彼の実存における全てのものを絶対的目的との関わりにおいて変え得ようとする変革と生成の情熱のことである。従って、実存をかけて生きる者が彼の「永遠の幸い」に情熱的に関わるべきだとすれば、彼の実存がその関係を表現するということに重点がかかってくる。それが自己放棄を経て確立される絶対的目的への絶対的崇敬の態度なのである。
彼は、理想や理念、あるいは彼の絶対的な目的に畏敬と崇敬をもって関わろうとする。彼は熱烈にあこがれる。彼は、我を忘れて恋いの罠に捕らえられた乙女のように、あこがれ、身を委ねようとする。「あばたもえくぼ」で、乙女にとって、彼女が恋いこがれる相手は絶対的である。彼女は彼に何とか近づきたいと願う。そして、自己をふさわしい者に変革したいと願う。
実存的情熱の初歩的表現は、そのように、絶対的なものを絶対として、その対象への畏敬と崇敬として現れるのである。それが実存者の初歩的な基本的態度なのである。それは憧憬であり、ある意味で、宗教的崇敬ですらある。宗教的情熱の初歩的段階は、良きにつけ悪しきにつけ、こうした憧憬的畏敬を伴う。
しかし、このような態度は、外的な形態で表現することができない。どんなに優れた詩人であったとしても、畏敬と崇敬をもって、恋いこがれ、自らを捨てて委ねようとする心を、直接的に表現することはできないのである。どんなに意を尽くしたラブレターやプレゼントであったとしても、自らのすべてを語ることはできない。どんなに献身の態度を表そうとしても、その情熱を外的に直接表現することはできないのである。
これを直接的に外形化しようとするところには、欺瞞が生じる。
恋愛に於いても同じであるが、たとえば、中世の「修道院運動」も、この欺瞞の危険に陥ったし、宗教の諸制度は、この欺瞞の産物でもある。中世の修道院入りの運動は、本来は絶対的目的にふさわしい情熱的決着の所産であった。しかし、修道院運動が、絶対的目的への絶対的崇敬という内面的現実を外面的な生活の形で表現できると考えたところに、欺瞞の忍び込む余地があったのである。その欺瞞は、修道院内の無意味に厳しい規則とその厳守という、真に律法主義的生活形態として現れた。そして、神秘主義が、あたかも真理の体験であるかのように装って出現した。
近代における敬虔主義運動も、あるいは現代の新興宗教の「修行」と称する狂気に満ちた行為も、こうした「絶対への崇敬」として現れる実存的情熱の外形化による欺瞞の産物である。
従って、実存的情熱の初歩的段階においては、このような欺瞞が入り込まないようにしなければならない。あるいはまた、そのほかの様々な欺瞞が忍び込まないようにするためには、「絶対的目的に絶対的に関わると同時に、相対的諸目的に相対的に関わること」が確立されなければならない。
ヨハネス・クリマクスは、主体的実存が、情熱的に、その主体性をもって生きる時の第一の態度として、絶対的なものは絶対的に、相対的のものは相対的に関わることを挙げるのである。それが、実存的情熱(パトス)の本質的表現を形成する。
そして、彼によれば、これが最も明瞭な形で現れるのは、「苦悩」においてである。
直接的な美的人生観の問題は「幸福と不幸」である。この段階に生きている人は、「不幸」を感じ取るとしても、これを「苦悩(苦しみ)」として受け止めることはしない。「苦悩」は、あれやこれやの個々の不幸を感じ取るだけではなく、その不幸の意味を本質的に受け止める宗教的人生観の問題なのである。「苦悩」を本質的問題として受け止めるのは、倫理的ないしは倫理的・宗教的個人の内面性である。
美的直接性に生きる人は、不幸が外面的な形で訪れて来るのでない限り、不幸の存在にすら気づかない。彼は、何らかの外的状況の変化によって「不幸」を感じるのであり、その状況が自分に好都合に回転していけば、彼は「不幸」を脱却したと思ってしまう。
これに反し、「苦悩」は内面的である。苦悩は、「絶対」や「永遠」、「真理」との情熱的な関わりの内面的産物である。彼は、「無限」の前で、自らの有限性と限界を近くしなければならない。「永遠」の前で、自らの時間性を意識しなければならない。彼は、自分ではどうすることもできない不条理に責任を負うことができない。それにもかかわらず、彼は実存しなければならない。それに伴う苦悩はまことに戦慄すべきものがある。
このような「苦悩」の原因は、直接性に生きる個人が、その直接性の故に、相対的諸目的に対して絶対的に関わってしまうところにある。彼は自分の直接性、自分の有限性、時間性、不条理と決別しようとする。そこに「苦悩」が絶対的目的と関わりをもていることの印として現れるのである。実存者は、「苦悩の人」、「悲しみの人」であるに他ならないのである。
そして、その決定的表現は罪意識として現れる。絶対の前での相対、無限の前での有限、それが責任を負えないことの罪責感として現れるのである。
罪責意識は、実存に生きる者が<永遠の幸い>との関わりをもつことの表現である。この罪責感は、その全体性において理解されなければならない。個々の場合の罪責の総計からは罪責感はでてこない。個々の罪責の総計は、あれこれの過誤の量的規定に過ぎないが、罪責感は、質の規定なのであり、内面の規定なのである。
ただ、こうした罪責意識は、それに対する低次の償いの形式を取りやすい。たとえば、個々の罪責を切り離して、あれはあれ、これはこれと考える態度、クリスチャンであれば、日曜日の礼拝と週日を切り離して考える態度、教会の門を一歩出ればたちまちにして世俗の観念に埋もれる生活、免罪符もまたその一つであった。また、思弁的に媒介する態度、自己弁護や復讐、自力的な改悛の修行などもある。宗教的なものを修行と同じことだと考える愚かさもある。人は、そうした低次の償いによって、絶対への関わりに人間的な安心感を持ち込もうとする。
しかし、実存的情熱の決定的な表現としての罪責意識は、それらの低次の償いによっては満たされることがないし、それらがまた新たな罪責意識となる。罪責意識は、それが嘘とわかっていながらも、嘘に嘘を重ねなければならないことににているのである。嘘が真実に触れることによって嘘となるように、罪責意識は絶対との関わり、<永遠の幸い>との関わりにおいて出現する実存的情熱の最高のものに他ならない。
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