kierkegaard

その42

 『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の本論としての第二部にはいると、いよいよここで「主体性」の問題が真正面から取り上げられる。問題の中心は、「主体性とは何か」、「主体的であるとはどういうことか」であるが、この問題に対してヨハネス・クリマクスは、第一部の予備的考察を受けて、その展開として、思想家としてのレッシングの態度から取り上げる。
 レッシングは、あらゆる分野にわたって近代合理主義を徹底させた思想家の一人であるが、ヨハネス・クリマクスは、彼が、立派な学者であり、劇作家であり、美学者であり、賢者である、と評する。なぜなら、レッシングは、宗教的問題において、世界歴史や体系の中によりどころを求めていくという誘惑に屈せず、宗教的真理は、ただ一人の個人に関わるものであり、一人の人間がただ一人で対決しなければならない真理であることを理解しているからである、と言う。
 つまり、レッシングは、歴史や社会などの客観的問題には客観的に関わり、キリスト教信仰などの主体的な問題には主体的に関わり、これを曖昧に混同することなく、明瞭に区別した、と言うのである。それ故、レッシングは、自らの自由と独立を確立し、それと同時に、彼と関わる人にも自由独立の立場に立つことを徴求することができた。レッシングは自分の足で立っている。そこに思想家としての主体性がある、とヨハネス・クリマクスは見るのである。
 それ故、この自分の足で立つ思想家としてのレッシングの態度から、ヨハネス・クリマクスは、主体的であることを次の4つのテーゼにまとめる。

(1)主体的実存に生きる思考家の着眼点は、伝達の弁証法にある。
 ものごとを客観的に考察しようとする客観的考察家は、客観的に措定された対象にだけ関心を寄せるが、それを認識し考える思考の主体とその生き方、つまり考える本人自身のあり方に対しては無関心である。しかし、主体的思考家は、実存に生きる者として、それを認識し考える自己自身に本質的に関与する。
 つまり、主体的思考家は、その思考のただ中に自分の身を置いて生きる。それ故、彼の思考は別種の内省(レフトグシオーン)を生む。それが内面性の内省であり、この内面性の内省は、対象との関わりとそれを認識する自分自身との内省であるから「二重」である。主体的思考は常に内省の中で生起し、内省の運動を続ける。それ故、そこで問題となるのは、その運動の過程であり、運動の結果ではない。簡単に言えば、主体的思考家は、彼が何をしたかではなく、どう生きたかを問題にするのである。
 客観的思考がいっさいを「成果」にかけるのに対して、主体的思考はいっさいを「生成」にかける。
 さらに、主体的思考と客観的思考の差異は、伝達の形式の差異としても現れ、客観的思考の表現形式は、常に直接的であるが、主体的思考は、直接的な伝達の方法を採ることができない。なぜなら、主体的な思考が生み出す「二重の内省」を直接的な形で吐露してみたところで、何の意味もないからである。主体的思考が何かを伝えようとする時の、最大の目標は、その伝達の相手に自由独立を獲得させるところにこそあり、伝達の相手の自由独立の尊重は、すべての判断を相手に委ねることによってしか起こり得ないし、伝達される内容そのものよりも、相手の自由を目的とするような伝達は、決して直接的な表現を採ることができないのである。つまり、主体的思考の内容そのものが、その弁証法的な内面性の故に直接的伝達を許さないのである。 人は、語られている内容と同時に、それを語る彼自身の姿を見ることなしに、真の理解には到達しない。
 しかし、考えてみれば、主体的思考が、直接的に伝達される内容とは別の伝達目標を持つ故に、直接的な伝達を不可能としているということは、主体的思考家は、その理解を得るためには長い忍耐の時間が必要であり、ついには理解されないという悲しみを背負うことになる。彼は、推理作家が描く推理の伏線を張るだけで、推理の過程を示すことができないのだから、読者が自分の推理力を用いて、謎解きをしてくるのをじっと待つだけである。彼は、人間にとっての最も根元的な「理解し−理解されるという関係」を常に期待しつつも、理解されない悲しみを孤独の内に抱かなければならない。
 それ故、ヨハネス・クリマクス=キルケゴールは、主体的であろうとする主体的思考家が、このような悲しみと苦悩の人であることをよく知っている。
 
(2)実存に生きる主体的思考家が自己の実存と真理との間に結ぶ関わりは、否定的であると同時に肯定的でもある。彼は本質的に悲しみ(パトス)の人であるが、他面ではおかしみ(コーミク)をも同時に備えており、絶えず生成の途上にある。つまり、追い求める人間である。
 ヘーゲル哲学では、歴史が弁証法的に進歩するという観点を取るので、その変化は、否定から肯定へと向かうものとなる。時間的な連続性の中で、人間も否定的人間から肯定的人間に変わる。しかし、このような思想の枠内では、認識する主体の実存状況は見落とされていく。つまり、具体的な歴史の中で苦闘する人間の現実が捨て去られて、人間の存在と行為は歴史の道具となる。ヘーゲルは、あたかも自分が神であるかのように歴史を俯瞰するが、その俯瞰された歴史の中で、人間や世界は、単なる「もの」でしかない。人が「客観性」を主張する時、生きている人間はいつでも「もの」でしかない。
 これに反して、実存に生きる主体の思考は、もちろん否定的なものから始まるが、その否定的性格は、主体が実存に生きるという限界をもつものでありながらも無限の精神であるという二律背反の総合としてあるから、否定的であると同時に肯定的であり、肯定的であると同時に否定的であるような姿をとる。それは決して直線的ではなく、常に、フィードバックするような形式を取る。ここでは思想そのものの性格も根本的に違ってくる。
 魂に無限を宿している者は、その無限から有限の世界を見るので、常に否定的な表現形式をとらざるを得ない。しかし、それと同時に、彼は絶え間なく内面化の道を歩み続けるのだから、彼の歩みそのものは肯定的である。彼が現実の中に身を置いて生きつつ、その実存をもって、今ここで生きていることを表現しようとするなら、彼は常に否定的であると同時に肯定的である。つまり、実存に生きる本当の主体的思考家は、常に否定的でありつつ同時に肯定的であり、逆に肯定的でありつつ同時に否定的であるというのが正しいことになる。そして、それは、彼が常に学ぶ者の立場にあって、内省しつつ、真理を追い求める者だということである。実存に生きる主体的思考家は、ある目的を達成すれば卒業してしまうという態度をとるのではなく、彼の追求も精進も無限であり、彼は絶えず生成の途上にある。
 彼は、本質的に「悲しみの人」であるが、それと同時に、「滑稽さ」や「ユーモア」を持ち合わせている。彼にとっては、全く同等の「悲しみ」と「滑稽さ」とが、車の両輪のごとく互いに支え合って存在しているのである。彼は生きることの悲しさを感じると同時に、そこにユーモア、滑稽さを見出す。生きることの滑稽さの中に悲しみを知る。ここでは、直接性の次元で存在した悲しみと滑稽さの差異は消滅し、彼は、悲しいが故におかしく、おかしいが故に悲しいところに立っている。
 まさに、人生は、だれもかれもが苦しみと悲しみの内に生きなければならないのだから滑稽そのものではないだろうか。信じることが疑うことによってしか、愛することが憎むことによってしか、希望を持つことが絶望によってしか証明されないとしたら、それらは、人生がもつユーモアそのものではないだろうか。
 また、その魂の中に無限を有するものは、瞬間的であると同時に永遠的であり、永遠的であると同時に瞬間に生きるであろう。彼の内面は、まさに宇宙そのものとなる。宇宙は常に、瞬間と永遠を同時に提示する。クリマクスの思想からすれば、主体的であることは、まさに、すべてを内包して瞬間を提示し続ける宇宙的であることである。

(3)レッシングいわく、偶然の歴史的真理は決して永遠の理性的真理の証明とはなりえず。またいわく、歴史的記録を≪永遠の幸い≫の土台たらしめんとする移行は、一種の飛躍に他ならず、と。
 このレッシングの言葉は、すでに第一部で論じられたことであるが、偶然の歴史的真理が確かめられるか否かによって、永遠の真理が立つか倒れるかが決定されることは不合理である。たとえそれがどのように正確なものであれ、歴史的認識は真理の近似値、もしくは蓋然性でしかないし、客観的真理と主体的真理との間には無限の質的差異が存在する。それは、有限と無限の質的差異である。それ故、主体的実存に生きようとする者は、この質的差異を飛び越える「飛躍」をするものである。
 人間の実存にとって、「永遠の幸い」は、唯一、「信じること」によってしかもたらされない。そして「信じること」は「飛躍すること」に他ならない。何もかにもが信じることができないが故に、彼は、そこから「飛躍」して、「信じること」へ向かうのである。それが、実存的な主体の土台となる。だから、主体的であるということは、ある種の冒険的な飛躍をすることに他ならない。

(4)レッシングいわく、神もしその右手に一切の真理を保ち、しかしてその左手には真理を追い求めるたゆまざる精進を保ちたもうならば、左手なる後者を選びとらん、と。
 この言葉はレッシングの『再抗弁』(1778)の言葉である。レッシングは、この言葉を、自分が、真理そのものを知る者ではなく、真理を追い求める者であるという自己規定の言葉として語ったが、ヨハネス・クリマクスは、それを手がかりとして、客観的真理の究極のものである思弁哲学の体系とそれが主張する完全性を攻撃する。
 主体的思考家の「唯一のたゆまざる欲求」と「絶え間なき精進」の態度からみれば、体系と完結はそんなにたやすく獲得されるものではない。体系はあるかもしれないが、まだお目にかかったことはない、とクリマクスは言う。
 「論理の体系はありうる」しかし、「現存在の体系はありえぬ」のである。
 体系は論理だけの世界においては可能である。歴史の始まりも終わりも、論理的には客観的に措定することが可能であるだろう。思考の開始と完成を措定することもできる。しかし、今ここで生きている実存の体系はあり得ない。実存を体系で把握することはできないのである。もちろん、現存在も神の目から見れば、一つの体系をなしているかもしれない。俯瞰的な神の視座というものがあるとすれば、個は全体の中の個として捕らえることが可能かもしれない。主観即客観の自己同一性を担った「思弁」の立場からみた「汎神論的体系」なら存在しうるであろう。しかし、実存をかけて生きる精神にとって、個はそれが全体であり、それを体系化することは不可能なのである。
 たとえば、「人間」という種を表す抽象言語を考えてみよう。この「人間」という言語を体系化することは可能である。なぜならそれは生物学的な種を意味し、生物学は、他の客観的諸学問との配置によって体系化することができるからである。しかし、現実には「人間」というものは存在しない。具体的に存在しているのは「わたし」や「あなた」でしかない。「わたし」や「あなた」は、「人間」として体系の中に組み入れられていると同時に、その体系を越えており、体系そのものを外から観察することができる。それをさらに大きく体系化しても、「わたし」や「あなた」は、常に体系を越えている。「わたし」や「あなた」という実存は体系化され得ないのである。
 だから、生きていることそのもの、つまり、主体性こそが出発点であり、到達点であり、真理そのものなのである。
 これが、第二部第一編のヨハネス・クリマクスの主張である。

その43

 思想家としてのレッシングの姿からの「主体的であるとはどういうことか」の考察を終わり、ヨハネス・クリマクスは、いよいよ、中心的な主題である「実存的主体性」の問題へと進む。
 初めに「いかにして主体的となるか」の問題を巡って、「主体的となる」ことの重要性が語られる。
 人は、一般に、主体的となるのに何の芸もいらないと考えている。なぜなら、主体的であることは人間の自然的状態であり、人間の精神の本質的なことだという前提に立っているからである。人間がものごとを考えるとき、それはその人が自然的賜物としての主体によって考えている、と暗黙の了解をしている。しかし、学問の立場、客観性への道に踏み込んでいながら、ついでに主体的になることはできない。客観性の追求は、人間の精神にとって「広き門」であるが、この「広き問」は、人間に絶望と自己破滅しかもたらさない。
 自然科学に代表されるような客観性を追求する学問は、何処までも客観的であることを要求するし、狂いのないコンピューターのような計算可能な客観的正確さを必要とし、そこに、悲しみとユーモア、苦しみと喜びといったような二律背反するものが絶えず弁証法的に存在している主体性が入り込む余地はない。このような場合、たいていは、客観性の追求と主体性とは別の次元のこととして考えられる。それはあたかも、核兵器を作るものとそれを使用することは別のことだという自己正当化的な「ある種の割り切り」や、「仕事と人生は別」といった割り切りのように、一人の人間の中の分裂現象として現れる。そして、人間は、この分裂した状態に、結局は、耐えることができないのである。
 主体性のある主体らしい主体であることは、「狭き門」である。それは、高い、優れた精神の境地を意味する。それ故、「主体的となる」ことは、自らの人生と環境を自ら開発していかなければならない宿命を背負わされた人間の最高の課題に他ならないし、何をなすべきかを問う倫理の根本的課題に他ならない。
 人間が実存している歴史に対して、何処までも客観的であろうとして「世界歴史」という概念で歴史全体を説明しようとするヘーゲル主義の「世界歴史」は、第一に、歴史的出来事の量的弁証法しか考察することができず、個として、今ここで生きている人間の実存形態の質的弁証法を考察することができない。
 第二に、世界歴史の考察は認識行為としてはどこまでも真理の近似値への接近でしかなく、抽象的なことに過ぎない。
 第三に、もしも歴史を世代ないし人類の発展としてのみ設定する、あるいは少なくともそれを歴史の最高の意味として設定すれば、世界歴史の発展を進めていくために一世代また一世代と無数の個人の群を動員する神の手による浪費はどう説明しうるか。個人は歴史の神の道具として捨てられていくものにすぎず、世界歴史は実存をかけて生きる個人の現実を見失う。
 そして、第四に、単純な人間は真理の本質を直感しているが、賢者は自分が直感しているという自覚に一歩一歩達する、あるいは自分がそれを知っていないことの自覚に一歩一歩達する。そうだとすれば、世界歴史の領域に首を突っ込んでうつつを抜かす暇などどこにもない。肝心な問題は、「いかにして主体的となるか」であり、賢者の歩みとは、この問題への歩みに他ならない。
 ヨハネス・クリマクスは、このように、「いかにして主体的となるか」が重要な問題であることを示して、「主体的となることを目指す思考の実例」として、「死の問題」「永世の問題」「自分に与えられる賜物故に神に感謝するとはどういうことか」「結婚とは何か」を論じる。そして、主体的真理、あるいは、「主体性こそ真理である」とはどういうことかへと論を進める。

その44

 初めに、ヨハネス・クリマクスは、真理というものをどのように規定するにせよ、それを認識するのは、あくまでも主体であるし、その主体は、絶えざる弁証法的生成の過程にあるのだから、真理を完結した固定的なものと考えることはできない、と述べる。
 認識という行為そのものが、本質的に一個の実存者たる認識主体にかかわるものであるから、一切の本質的認識行為は、実存と、そして実存において生きる営みとに本質的に関わる。真理は、抽象的に「そこにある」というようなものではなく、主体的内省にとって、自己において体得されるべきものである。それでなければ、それは何の意味もない単なる抽象に過ぎない。それ故、真理は内面性と主体性に関わる問題であり、実存に生きつつ主体性に徹していくことの中に真理への道がある。実存に生きているという事実を特に重視する道こそ、正しく真理を問う者のたどるべき道である。そして、真理を体得した主体性は新たな主体性へと移行する。それ故、主体性こそ真理に他ならない。
 真理というものが客観的に問われる場合には、真理とは客観的な考察が向かう一つの対象となる。そこでは、関わりかたいかんに内省が向けられるのではなく、その対象が真理ないしは真実であることに関心が集中する。もし、自分が関わっている対象が真理ないし真実でありさえすれば、主観はその真理の中に吸収、包括されることになる。そこでは常に主体性の欺瞞的埋没が起こる。つまり、真理を客観的に措定しようとする者は、自分で自分を殺すことになるのである。
 真理が主体的に問われる場合には、主体的内省は個体の関わり方そのものに向かう。この関わり方そのものが真理に貫かれてさえいれば、そのこたいは真理に立っているのである。たとえその関わる対象が非真理であったとしても、主体の関わり方が真理に貫かれてさえいれば、個体は真理に立っていると言える。
 つまり、客観的なアプローチは、常にその対象を問題にし、主観的なアプローチは、そのアプローチの仕方そのものを問題にする。別な言い方をすれば、客観性は常に結果だけを問題にし、主体性はその過程を問題にする。
 これらは、ヨハネス・クリマクスが、これまでの論理の展開の中で繰り返し指摘してきたことである。たとえば、人生にとって、客観性のように結果だけを問題にするとすれば、人間の生は、ただただ悲惨で空しいものでしかない。なぜなら、人間の生の結果は死以外の何ものもないからである。死は、客観的には、すべての終わり、結末であり、「無」そのものに他ならない。それ故、客観性の道は、「無に至る道」にほかならない。
 人間の生の価値は、その人が何をしたがではなく、どうしたかにかかっているべきである。そして、どうしたか、ということは、常に主体性の問題である。それは、伝達表現においても同じことで、「客観的には、何が語られるかが強調されるのに対して、主体的にはいかなる仕方で語られるかが強調される。」
 客観性の道は、思惟上の諸規定を問い、思惟が用いる諸概念の明確な規定を要求する。それは固定化された不動の規定を要求する。今日の学問が、厳密な概念規定から始めようとするのはそのためである。しかし、「概念」というものは、いつでもそれが意味する事柄の抽象でしかなく、事柄そのものではない。たとえば、机上にあるコップを「水を入れる器」と規定しても、その規定は、実際に手で触り、そこから水を飲む器であるコップそのものではない。
 これに対して主体性の道は内面性を追求する。主体性の道は、この内面性を問い、「いかなる仕方で」を追求する。主体性も内面性も、客観性の道に比べると、一見、曖昧なものに見える。しかし、主体性の道は、抽象化された客観的不確かさの上を漂いつつ、しかもなお信じるという冒険に、絶えず身をさらす。そして、それによって「決断」という冒険的飛躍を行う。この決断は、主体性が自分の実存をかけた決断であり、その決断の結果がどうであれ、自分が決断したことは確実なことである。そして、主体性のこの過程を支えるものは、究極的には、無限につらぬかれた「情熱(パトス)」に他ならない。彼は「無限性の情熱」によって、客観的に不確かなものを選び取る冒険をするのである。こうして、彼の内面性は深められる。
 ヨハネス・クリマクスは、この内面性の深化を、美的真理、倫理的真理、そして宗教的真理の諸段階で明らかにしようとする。彼はそのために、『あれか−これか』から始まる一連の仮名著作者による著作の書評を、次の「付録」で試みる。
 ヨハネス・クリマクスが「付録」で行っているのは、それらの仮名著作を、主体的真理、内面性への弁証法の明確化のプロセスという観点から、書評の要領で位置づけることである。巻末では「最初にして最後の言明」で、これらの仮名著作が自分の手になることを認めている。
 なお、この「付録」で示された意図は、後に、『わが著作活動の視点』において再び取り上げられる。

目次
 生涯
「あれか−これか」
「おそれとおののき」
「反復」
「初期建徳的講話」と「哲学的断片」
「哲学的断片」(2)
「不安の概念」(1)
「不安の概念」(2)
「序文ばかり」
「人生行路の諸段階」
「哲学的断片への非学問的後書き」(1)
「哲学的断片への非学問的後書き」(2)
「哲学的断片への非学問的後書き」(3)
「哲学的断片への非学問的後書き」(4)
「哲学的断片への非学問的後書き」(5)
「現代の批評」
「死に至る病」(1)
「死に至る病」(2)
「死に至る病」(3)
「死に至る病」(4)
「死に至る病」(5)
「野の百合・空の鳥」
「わが著作活動の視点」

キルケゴールのソクラテス理解
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