<その1>
1855年11月11日、深まっていく晩秋のコペンハーゲンで、セーレン・キルケゴール(S. Kierkegaard 1813~1855)は、その短い42年の苦闘の生涯に終わりを告げ、静かに、永遠の安息に入るように、息を引き取った。かって「全デンマークの牧師の敵」と罵られ、揶揄された戦いの人は、今は、まるで与えられた全人生を完全に生き抜いた人のように、穏やかな微笑を浮かべて横たわっている。
彼の最後を看取った甥のルンは「力のことごとくが次第につきていく中で、死が姿を見せてきたのです」と語る。それは、彼にとって、まさに憩いの瞬間であったに違いない。
セーレン・キルケゴールは、父ミカエルが56歳の時に彼の二度目の妻アーネとの間に第7子として生まれた。
「キルケゴール」という名前は、本来、「教会の墓地」とか「教会の領地」とかを意味する名前であり、その名の通り、キルケゴール家は父祖の代まで、西ユランの教会の領地を耕す貧しい農民であり、彼の父ミカエルも12歳の時までは農夫の息子として牧童をしていた。やがて、ミカエルはコペンハーゲンに出て住み込み店員から身を起こし、毛織り物商として成功し、莫大な資産を築き上げた。そして41歳の時、事業から引退し、読書と宗教生活、特にもっぱら子どもたちの教育に感心をよせる日々を過ごしていた。そして、老年期にさしかかった時、第7子としてセーレンが与えられたのである。彼の子どもたちへの教育は、当然のことのようにセーレンに集中した。ミカエルはセーレンに自分の信仰観に基づく宗教教育を徹底して行ったのである。
<その2>
ミカエルがもっていた信仰観とは、当時のデンマークの国教であったルター派の一つの特徴でもある十字架のキリストの受難を強調する信仰観であったと思われる。特に、当時の教会では、人々が真理であるキリストを打ち殺し、すべての人はその共犯者であることがくり返し語られ、罪の自覚が徹底して促されたのである。
こうした罪意識を強調する宗教的信仰観は、当時のデンマークの社会状況の反映でもある。17世紀以後、近代的絶対君主制のもとで繁栄を続けてきたデンマークは、19世紀に入ると近隣の強国イギリスとの絶望的な戦争に追い込まれ、セーレン・キルケゴールが生まれた1813年には、敗戦によって領地を奪われ国家的な破局状態を迎えるという未曾有の危機に陥ったのである。国家や社会の破局を経験した時、あるいは個人的な不幸を経験した時、人々の心に最初に芽吹くのは、自らの過ちの自覚である。かって、バビロニア捕囚でイスラエル国家を失った旧約の民ユダヤ人たちが経験したように、自分たちが誤っていたので、この不幸が訪れ、自分たちが間違っていたので、この破局が訪れた、と思うのは人間の心情の成り行きである。教会は、この過ちの自覚を罪の自覚として促進させた。
しかし、ミカエルがこうした罪の自覚を促す信仰観をもったのは、当時の教会の影響以上に、彼の個人的な体験に依るところが大きい。
それは、第一に、ミカエルがまだ西ユランで牧童をしていた頃の少年時代に起こった出来事である。ある日、彼は道に迷い、日も暮れ、飢えと寒さと渇きの中で、このまま死ぬのではないかという死の恐怖に直面した。そして、子どもである自分をそこまで苦しめる神を呪ったのである。
彼はこの出来事を生涯忘れることができず、ついには、神を呪ったが故に神から呪われるという思いにとりつかれていったのである。
第二に、ミカエルは1794年に最初の結婚をしたが、わずか2年足らずで、最初の妻は子どもを残さず死去してしまった。そして、彼の妻の死去後1年もたたないうちに、先妻の女中であったアーネと再婚した。ア−ネの中にはすでに第一子が宿っていた。そのため、ア−ネとの結婚式は密かに自宅で行われた。真面目で、誠実であることを善とする18世紀の宗教的倫理観と自らが犯した不貞との間で、彼の罪の意識はますます深められていったのである。
こうしてミカエルは、自らが罪人であり、神に呪われた人間であることを自覚し、やがて、自分の子どもたちが次々に早死にしていくことを経験し、セーレンが生まれた頃は、その自覚を具体的な確信へと変えていた。
セーレン・キルケゴールは、この父ミカエルの罪意識と呪われた人生の暗い影を受け継いで成長するのである。
その3
18歳になったセーレン・キルケゴールは、1831年11月、コペンハーゲン大学神学部に籍を置き、神学の研究をはじめた。彼が神学部に籍を置いたのは、彼自身の主体的決断ではあるが、第一に、兄のペーターが優秀な成績でそこを卒業し、神学国家試験に合格し、最短コースで牧師の資格を得ていたこと、第二に、父ミカエルが強く希望したことが、強く影響していると言われている。
彼は大学に入ると神学と文学の学びを同時に始めた。当時の神学はもちろん、アンセルムスを読み、神学の巨匠であったシュライエルマッヘルの講議を直接聴講する機会ももっている。また、ソクラテス、ゲーテ、ヘーゲル、などの研究も始めている。
彼が神学の分野で学んだものは、いわゆる「調停神学」といわれるもので、近代的思惟の主流となった客観的合理主義とキリスト教の理念を調停しようという意図から生まれてきたものであった。
もともと、デンマークは外来思想を重要視する傾向の強い国家であり、近代以降は特に近隣のドイツの影響を強く受けてきた。19世紀にヘーゲルが登場すると、デンマークの知識人たちはヘーゲルの思想に飛びつき、ヘーゲルが提唱した「客観的普遍妥当性」を旗印にして、あらゆることがらの客観性を求めた。そしてそれによって、人間の主観性に依存してきたキリスト教信仰は、次第にその内実を失っていったのである。世俗化の波が押し寄せ、その波の中で、神学者たちはキリスト教信仰を合理化しようと苦闘し、信仰の合理化よってキリスト教信仰が生き残ることを求め、理性と宗教の調停を試みたのである。
しかし、神学の徒であったキルケゴールは、彼が学んだこのような調停神学に疑問を抱くと同時に、これまで父ミカエルやキリスト教会を通じて身につけてきた自分のキリスト教信仰にも疑問を抱くようになっていった。真の批判は常に諸刃の剣であり、相手を斬ると同時に自分をも斬りつける。ことに、信仰や思想などの精神的営為に向けられる刃は鋭く自分を斬る。22歳の時、キルケゴールは次のような手紙をしたためている。
「私がこれまで最も身近に捕らえてきたものは神学でした。しかし、ここにも大きな困難があります。だいたいキリスト教それ自体の中に大きな矛盾があるので、自由な目でものを見ることを妨げてしまいます。・・・私はいわばオーソドックス・キリスト教の中で育ちました。けれど、私が自分でものを考えはじめるころになった時、オーソドックス・キリスト教という恐るべき巨像はだんだんと揺るぎはじめてきました。」
神学の徒であったキルケゴールは、これまで自分を育んでくれた伝統的キリスト教が揺らいでいることを実感し、それと同時に、「真の自己」を発見しようともがき始めるのである。同じ年、つまり、1835年8月1日、ギーレライエで、彼は日記に、今では彼の「実存宣言」として有名になった、次のような言葉を書き残している。
「私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきか、ということについて、私自身、はっきりわかっていないということだ。・・・つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが需要なのだ。すなわち神は、私が何をなすべきことを本当に欲しておられるのか。これを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを心から願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。・・・
さあサイコロは投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!きっとこの道は私を闘争へと導くだろう。しかし私はそれを拒絶はしないだろう。」
伝統的な教えや観念、思想にあぐらをかいて座り込み、他の人々がしているのと同じことをして納得したり、他の人の賛同を得て安心したりするのではなく、「私にとって真理であるような真理」を発見し、それに従って生きること。
青年キルケゴールは、そう決断し、人生を彷徨して行く。彼のそれまでの目標は、父ミカエルが望み、優秀な兄ペーターが歩いたように、神学国家試験に合格し、牧師になることであった。しかし、既存のキリスト教を批判的に研究するようになり、文学へとのめり込むようになった。ゲーテの『ファースト』を読み、『ドン・ジュアンニ』を研究し、『彷徨えるユダヤ人アハスヴェルス』について考えていく。そして、ついに、彼は神学国家試験の勉強を中断し、牧師への道を自ら閉ざしていくのである。
神学研究をやめ、「私にとっての真理」を見い出す決心をし、自己を探究し、文学と哲学の世界に足を踏み入れたキルケゴールの生活は、しかし何故か乱れていく。父親と別居し、放蕩生活をくり返し、精神的にも、肉体的にも荒廃していく。彼がどのような放蕩生活をしたのか、今となっては知る由もないが、彼は自らを「彷徨えるユダヤ人アハスヴェルス」と同化させていった。
『彷徨えるユダヤ人アハスヴェルス』の物語りというのは、ヨ−ロッパの各地に流布していた民間説話である。物語の内容は単純である。十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かうイエス・キリストが、その悲しみの道(ドロローサ)の途上で、ついに力つき倒れてしまう。そこはアハスヴェルスの家の前であった。アハスヴェルスはイエスの十字架の道行きの一部始終を見ていた。そして、自分の家の前で倒れたイエスを眺めおろした。力つきたイエスは彼に一杯の水を請うが、彼はそれを拒絶したのである。そこで、イエスは「あなたは私が帰ってくるまで、ここで待っていなければならない」と語る。それ以来、アハスヴェルスは死ぬこともできずに彷徨い続けなければならなくなった、というのである。
キルケゴールは、この彷徨い続けるユダヤ人と自分を同一視して考えるようになっていく。自分もまた、救いを得ることができずに彷徨える一人の人間ではないのか、と。
この自己認識は、キルケゴールが25歳の時に書いた処女作『今なお生ける者の手記』という表題にも良く現れているように思われる。「今なお生ける者」、それは「今なお彷徨い続ける者」を意味している。彼は自らを、「真理を求めて不幸な彷徨をする人間」と認識していたのではないだろうか。
この処女作の表題は、正確には、『今なお生ける者の手記よりー筆者の意にそむいてーS.キルケゴール刊行ー小説家としてのアンデルセンについてー彼の最近作「しがないヴァイオリン弾き」をたえず顧みつつ』という長いものである。この著者はS.キルケゴールではない、とキルケゴールは装う。それは、自分は自らを公にすることができない、という暗い自己認識の現れである。にもかかわらず、何ごとかを語ろうとする、そうした意志の現れが、この表題をつけさせたのである。
この書物の執筆にいたる動機には、大きく言って三つあるように思われる。その三つは、彼を放蕩の眠りから覚まさせ、やがて、彼の人生の最高の時、レギ−ネ・オルセンとの出会いの時へと向けさせるのである。
その4
22歳の夏、キルケゴールは「私にとっての真理の発見」という実存的な決断をし、自己を見つめ直す道を歩み始めたが、それはまた、何故か、放蕩への歩みでもあった。人生の具体的な目標であった神学研究を止め、哲学と文学にのめり込み、自己を追求しはじめたが、現実的には、心を閉ざして浮き草のような生活をくり返していた。3年近くの日々が無為に流れていってしまった。この無為の日々、キルケゴールが何を考えていたのか、いまとなっては知ることもできないが、キルケゴールの中の破滅的な要素が培われていったように思えてならない。
ところが、1838年3月、キルケゴール25歳の時、唯一彼の才能を認め、彼を支持し、彼もまた尊敬して止まなかったコペンハーゲン大学のポ−ル・メラー教授が死去し、彼は唯一の師を失ってしまうのである。ポール・メラ−教授は、放蕩生活を続けるキルケゴールを心配し、何度か注意を与えると同時に、才能と蹶起にはやるキルケゴールに客観的思考の方法を教えた。キルケゴールは、学問上においても、人生においても、彼を師と仰ぎ、信頼を寄せていた。しかし、彼は、その師を失い、支持者を失ったのである。
良きにつけ悪しきにつけ、自分を認め、自分を支持してくれる、そのようなかけがえのない人を失うこと程、人にとって辛いことはない。人は、そのような時、徹底した「無」に捕らえられてしまう。キルケゴールもまた、この「無」の中に沈潜していった。そして、その「無」から、もう一度自分を見つめ直したのである。「無」は原点を見い出させる。彼は、その年の7月に、自分の原点である父ミカエルの元に帰り、父との和解を望んだのである。それはまるで、聖書の「放蕩息子」そのものであったに違いない。
しかし、その1ヶ月後の8月8日、キルケゴールが立ち返ろうとした父ミカエルは、ついに帰らぬ人となってしまった。彼は一切を失い、いくべき場所を全く失ってしまった。さらに徹底した「無」、キルケゴールはそれを味わい、もはや彼に残されたものが、父の意志を受け継いで、神学研究を続け、神学試験に合格することだけであった。そして、その1ヶ月後に、アンデルセンに向けて『いまなお生ける者の手記より』を執筆したのである。キルケゴールの目には、貧しい中から立ち上がって小説家として成功したアンデルセンが、その成功に甘んじて、単に人間の悲しみを「情」で捕らえ、無や絶望に脅かされる人間を忘れているように見えたのかも知れない。そのようなキルケゴールのアンデルセン理解よりも、ここでは、彼が自らの意志を表明したということが重要となる。彼は、今度は、自分の足で人生を歩み始めたのである。神学研究を再開し、神学国家試験に向けての勉強も順調に進められていくようになった。25歳にして、彼は自分の人生をやり直しは時めたのである。彼が運命の人レギ−ネ・オルセンに出会ったのは、この頃のことである。レギーネのもつ育ちの良い天性の明るさに弾かれて、彼の人生は、初めて輝き出した。彼は無常の喜びをもって生きることを始めたのである。
その5
キルケゴールの運命の人レギ−ネ・オルセンは、1822年にコペンハーゲンで生まれている。従って、キルケゴールとは9歳の歳の開きがある。父親はデンマークの国庫事務官であり、顧問官で、裕福な知的上流階級の一員であった。レギーネは16歳の時、つまり1838年に聖母教会で堅信礼(幼児の時洗礼を受けた者が成人に達して信仰を告白する儀式)を受けている。彼女は、裕福な家庭で育てられた開放的な明るさと優雅さを兼ね備えた女性で、あらゆる支えを失い、暗く絶望の淵にいたキルケゴールを捕らえるに十分な資質をもっていた。おそらく、この教会でこの時期に、キルケゴールが彼女をみそめたのではないかと思われる。しかし、キルケゴールにとって、彼女はまだ遠くから眺めるだけの存在でしかなかった。キルケゴールの日記に彼女の名前が初めて登場するのは、1839年2月2日であるが、キルケゴールはそれ以前から彼女に曵かれて、夢中になっていたようである。
レギーネを見い出したキルケゴールは、彼女を心の支えとし、神学研究に励み、1940年7月の神学最終試験を見事な成績でパスした。まことに、愛の為せる業は偉大であり、キルケゴールにとってレギーネは、まさになくてはならぬ人となり、彼の精神の奥深くに固着したのである。もはや、遠くから眺めるだけでは済まない。キルケゴールはレギーネに近づき、ついに、その年の9月8日に婚約を申し出た。キルケゴール27歳、レギ−ネ・オルセン18歳の時である。そして、翌月の10月10日、キルケゴールは愛するレギーネから婚約承諾の返事を受け取った。その1ヶ月後には、いよいよ牧師になるための王立牧師学校(神学校)に入学し、すべてのことが順風満帆に運んでいるように見えた。
しかし、キルケゴールは日記に次のように書いている。
「私は、その翌日にはもう後悔した。」
キルケゴールは、彼の精神の内面において、レギーネと婚約したことを後悔したのである。それは、レギーネを愛さなくなったのではなく、ますますその愛が深まれば深まるほど、その愛ゆえに結婚し、一緒になることを後悔したのである。
彼の精神の奥底に巣くった暗い憂鬱が顔を出す。神から呪われているという迷信、快活なレギーネに相応しくないという自己嫌悪、彼女の優雅さや明るさを奪い去るのではないか、彼女を不幸にするのではないか、という不安。キルケゴールの内面で、それらが渦巻き、自己葛藤をくり返したのである。愛は人を自己の深みへと連れて行く。そして、暗い葛藤を目覚めさせる。キルケゴールは、この不安と葛藤の中で悩み続けたのである。
そして、ついに、キルケゴールは不幸な決断を下した。愛するが故に、婚約を解消するという決断である。彼は、自分の方から婚約を破棄すればレギーネが傷ついてしまうので、彼女のほうから、彼を嫌いにさせて、婚約を解消するようにしむけた。わざと、世間の悪評をつくり出し、スキャンダラスな行動を取り、彼がいやな人間であることを思い知らせようとしたのである。キルケゴールの悪評は、あっという間に広まった。世間はおもしろいようにキルケゴールを悪人扱いした。しかし、レギーネは、キルケゴールの内面をよく知っていて、婚約の解消に応じることはなかった。キルケゴールとレギーネとの人格的なかかわりは深まるだけであった。
そこで、1841年8月、キルケゴールは自ら熱望したレギーネとの婚約に自ら終止符をうつべく、婚約指輪をレギーネに送り返し、10月11日、婚約が成立してまる一年の歳月の後、彼らの婚約は正式に解消された。
しかし、この1年間、彼の深い内面の葛藤は別にして、キルケゴールにとっては、まさに人生最良の日々であった。彼は、日記には婚約の翌日にはもう後悔したと書いているが、彼の中にはレギーネがしっかりと固定され、彼は、彼女の存在を唯一つのかけがえのない支えとして、日々を過ごすことができた。毎週水曜日がデートの日として定められ、レギ−ネの無邪気な天使のような笑顔を見た時は、キルケゴールもまた心底喜びに満ちあふれた。キルケゴールは王立神学校に入学し、1841年1月には、初めて教会で説教もしている。修士論文『イロニーの概念』が書かれ、10月には修士号が与えられている。
表面の順調と内面の葛藤、そして、レギ−ネを愛すればするほど感じざるを得ない孤独。キルケゴールは、この孤独を深く掘り下げて行くのである。
キルケゴールの修士論文『イロニーの概念』は、ソクラテスにおけるアイロニー(逆説、皮肉)の研究である。彼によれば、現実は逆説的(アイロニカル)であり、現実の現象は本質の反対のものを現わす。それ故、主体性をもつ者は、現実に対して常に逆説的(アイロニカル)であらねばならず、ソクラテスはそのような主体性を生きる人であった、というのである。そして、キルケゴールもまた、ソクラテスのように、本質を知るが故の逆説的生を生きようとしたのである。レギ−ネとの関係において、愛故の孤独か、別離による結合かの二者択一で、キルケゴールは別離による真の結合を選択した。キルケゴールはレギーネとの関係において、真実の愛に達するために別れたのである。
いくぶんこれは我田引水的なひいき目かもしれない。当時の人々はキルケゴールに「無責任男」のレッテルを貼った。しかし、それが彼の婚約破棄の事実である。彼は、「別れてもなお私は彼女の夫であり、私はそれに相応しく生きる」と日記に書き、また、牧師の道を断念した時に、生涯をただレギーネだけの、ただひとりの牧師たらんとして送るのである。キルケゴールの前期の著作は、レギーネのために、ただ彼女のためだけに書かれているのである。
All rights preserved by K`s Community |