第一章 キリスト教倫理の構造
第二節 キリスト教倫理の形成と超越(3)
また、この宗教改革的「愛の倫理」は、その倫理的要請の前提としてもっていた神の創造の秩序への確信が社会変動と世俗化の中での近代市民社会における個人の権利と自由意識の高揚によって崩壊していく中で、次第に信仰者の個人的領域にのみ有効性をもつか、形而上学から解放されてそれぞれ独自に超越的な神との関連なしに考察されるようになった自然と世界についての科学的認識とは全く別の、単なる宗教的次元の倫理として位置づけられるようになり、西欧倫理思想史の中で、宗教改革者たちの意図とは別の方向へ進んでいったのである。
そして、近代諸科学の合理的認識による理性と認識における形而上学的超越からの解放というコペルニクス的転回は、 国家、経済、社会構造を含めた人間のすべての行為をそれ自体に内在する合目的性から理解するようになり、宗教的な事柄もまた、人間の経験的認識によって取り扱われる諸現象の一つとして部分化したのである。
それはカントの「わたしは信仰に席をあたえるために、知識を廃棄しなければならなかった」(11)という言葉によく表明されているように思われる。
こうして、倫理学は西欧近代社会において、それまでその基礎づけ、もくしは究極的目的として前提されていた形而上学的超越、あるいは神といった枠組みから離れて、独自に近代哲学的倫理学へと向かったのである。
一般的な傾向として、人々は理性によって到達可能な現に存在するものの経験的現象世界に思惟を傾け、数理学的思考が中心となり、人間と世界は数値による比較が可能な経済原理に基づいて理解されるようになった。
たとえば英国ではロック(J.Locke)の経験主義的流れの中で、神学的、教義学的前提なしに、社会と文化生活の行為と目的を人間の理性に基づくそれ自身の道徳性から追求し、自然法に基づく自然状態としての自由と平等が主張され、フランス革命やアメリカ独立戦争を導く要因が生み出されていったのである。
このようにして、倫理学は「人間性の追求の学」としての歩みを進め、神に代わって人間の道徳感情や宗教感情、もしくは先験的(ア・プリオリ)な理性的了解事項がその前提として置かれるようになったのである。
それは、かって古代ギリシャにおいて、超越的神々を人間に無関係な世界外存在として弾き出し、内在の原理のみに従って生きることを主張したエピクロスの亡霊の近代的出現であるとも言えるかもしれない。
西欧思想史全体にわたる背骨のような根本的問題としての「超越と内在」の問題は、近代科学によってもたらされた客観的認識の方法によって明瞭に分離され、超越性は現存在の内在的目的表象へと変形されていき、倫理学は、たとえそれが宗教倫理学であったとしても、内在論的倫理学となった。
そして、この倫理学は、人間と社会の哲学的、心理学的分析成果を前提にして、あらゆる存在現象の個々の事柄を取り扱うがゆえに、ある特定の歴史と状況下における個別の倫理学となり、その個別の領域から全体性が志向されることがあっても、それはただ部分的になされるだけに過ぎなくなったのである。
現代の倫理学的分裂状況はそこに由来する。そして、キリスト教倫理学は、ますます特殊宗教倫理学のひとつとなり、その有効領域をせばめ、信仰と経済的、社会的な実生活の分離が進展していったのである。
キリスト教神学において、こうした近代のエピクロス的亡霊に対する抵抗は、初めはカントの道徳哲学の影響下で行われた。
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