現代キリスト教倫理
Home | 西洋思想の散歩道 | 現代倫理学概説 | 講座キルケゴール | SiteMap | Mail

第一章 キリスト教倫理の構造

第二節 キリスト教倫理の形成と超越(1)

 ヘレニズム世界で発生したキリスト教の信仰思想は、その影響領域の社会的拡大と共に古代ギリシャの哲学思想との融合を試みた。

 その原理的な姿は、すでに新約文書のパウロ書簡にちりばめられている「倫理的勧告」や『使徒言行録』の著者によって記述された「アレオパゴスの説教」(『使徒言行録』17章16-34節)などに見られるが、最も顕著で積極的な姿は初期キリスト教弁証家たちの神学思想に現れている。

 彼らは、聖書の神がギリシャ哲学の説く神とは別の神ではなく、むしろそれに優る最高の神であることを主張することをもってキリスト教の弁証を開始したのである。

 アテナゴラスやテオフィロスやユスティノスは、当時のストア哲学やプラトン哲学、特にネオプラトニズムが「デミウルゴ(Demiurgo)」という概念で説いた形而上学的超越概念をもって聖書の神概念を説明したし、アレキサンドリア学派の教父たちは、プラトン的な神概念をキリスト教信仰内容の概念的形成の尺度として採用している。(8)

 そして、この流れが西洋キリスト教神学の全体の方向を決定したアウグスティヌスを経て中世に至るのである。

 聖書の神がプラトン的な形而上学的超越概念と同定されることによって、倫理的な事柄は、その神理解から自動的に導き出される理性の実践的な行為となり、道徳的なことはその超越によって基礎づけられた自然の道徳法則の概念から必然的に出てくる要求や理想として理解され、倫理学に対する原理的な注意は、せいぜい、教会内における建徳的な魂の訓練か教会共同体の秩序の維持以外には、ほとんど払われなかったのである。

 しかし、この初代キリスト教神学が倫理学的原理に対して熟慮しなかったことは、直ちに、それが倫理的な事柄に対する無関心を意味しない。

 むしろ、本質的に道徳的エートスを持つキリスト教信仰思想から、彼らは積極的にこの世界における人間の理想的な姿を問い、個々の場合についても、例えば国家や兵役、奴隷制、教育、家庭、富の問題などに重要な見解を示している。(9)

 ただ、それらがユダヤ・ヘレニズム的道徳観と自然法的倫理観の無原則の混同の中で、原理的に形而上学的最高存在としての神を根拠にして、そこから形而下の一切の存在を秩序づけることができると考えられたのである。

 アウグスティヌス(Augustine)の神学体系である二王国論「神の国(De Civitate Dei)」は、その流れの頂点に位置するように思われるし、宗教改革者M.ルター(M.Luther)が「善きわざは信仰によってのみ生じる」(10)と論じた源流もそこにある。

 そして、神学的には、この方向は倫理学の教義学的基礎づけといった方向を取ることになるのである。

 しかし、西欧社会の中で、キリスト教会的な文化統制が一応の安定を見せた中世において、文化全体を支配する価値観や倫理的な諸要求と個人の魂の建徳的訓練のための諸命題を結合させる倫理学が、世界観や文化全体を明確に認識するために必要不可欠なものとなっていったが、そのために神学自体はかえってギリシャ哲学との結合を濃密にし、キリスト教の根本思想から展開されるようなキリスト教倫理学ではなく、道徳的自然法をアリストテレスの倫理学と同一視して、ただ自然法的な道徳法則から生じるすべての倫理的目的を教会の究極的目的に従属させようとしたのである。

 こうして、自然法を正しく解釈し、具体的事例をキリスト教的調停へと導くための司祭の指導が制度化され、神の恵みに伴う超自然的秩序に属するための一種の修道倫理が形成され、特に神の恩寵によって引き起こされた英雄的で禁欲的な行為を内容とする倫理学とこの世界の現存在の自然的目的から生じるような自然的、哲学的な、家庭生活や国家、経済、科学、芸術といった世俗的な諸々の関心を取り扱う倫理学が形成されていく中で、その倫理学的二元性が、一種の宗教的功利主義の枠組みの中で位置づけられたのである。

●新刊本のお知らせ
HP『思想の世界』の主幹者である小副川幸孝先生の新しい著書『説教集−日々の糧を与えたまえ』が、リトン社より発行されております(定価 2,500円)。
ぜひお近くの書店にてご注文ください。お問い合わせは K's Community まで。
 
all copyrights are preserved by K's Community 〜無断転載はできません〜