第三章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学
第三節 「神と共に」あること
非汎神論的「神と共に」
汎神論は、超越なる神を万物の内在的原因として理解する。
この汎神論は、ことに神を歴史の内在性の中に解消させたヘーゲル以降、客観性の名の下に倫理的考察をおこなう現代思想のいたるところで、その奥底に横たわっている。
たとえばある人々は、倫理的決断における何らかの形而上学的前提としての「神」という言葉の代わりに、「普遍的真理」という言葉を用いたり、「誰もが納得できる客観的合理性」と言ったり、「論理的に必然的な帰結」と言ったりする。
あるいはK.ヤスパースのように、あらゆる現象の背後に隠れている「何か」と表現してみたり(11)、マルクス主義哲学者であるE.ブロッホ(E.Broch)のように、「希望」や「ユートピア的全体性」という言葉で、「いまだ到来していないが、それによって人間が自らを克服していくような聖なる何か」と言ってみたりする。(12)
心理学は「超自我(Super-Ego)」や「超自然(Super-Nature)」について語るし、文学は、「何者か」によって実存の責任が問われ続けて不安と分裂の中にある人間の姿を描いて止まない。
この「何か」や「何者か」は、明らかに、目に見える現実の背後や奥底、もしくは歴史のかなたや超越の次元にある形而上学的なものであり、いわば「存在の深み」としての超越がいたるところに内在している汎神論の変化した姿にすぎない。
汎神論は、それ自身、たとえば生涯にわたって自分の魂を、生計のために磨いたレンズと同じように磨き続けた17世紀の偉人スピノザ(B. de Spinoza)のような誠実で謙遜な人間を形成するが、その倫理的決断の根拠を曖昧にし、全体性と歴史性を欠落させる危険性が常に存在する。
それ故、ヘーゲル以降の西欧思想史上の焦眉の問題として、その欠落するものを補うために「歴史性」という概念が取り入れられ、哲学と神学の主題が「実存と歴史」となっていったのである。
人々は歴史の中に内在する神をツラトゥストラのように堤灯をかざして捜し始めたが、神はどこにもいないし、また同時にいたるところに存在した。
従ってそこから導かれた内在論的倫理学のみならず科学的合理主義の合理性を支える根本には、たとえそれらが意識的に「神」という言葉を語ることを避けたとしても、汎神論的傾向をもつことは避けられないのである。
現代哲学の多くは汎神論の煙りを立ち上らせ、それが倫理学そのものを不確定な曖昧なものにしてしまったのである。
なぜなら、「神」という概念に集約されてきた「究極善」がいたるところに存在するのなら、倫理的決断そのものもまた、ただ相対的で曖昧なものとならざるを得ないからである。
「存在の深み」から存在への勇気を与え、決断の根拠を提示する「神と共に」の概念は、そのような倫理的決断の曖昧さや不確定さを拒否し、われわれを確かな実存の前へと連れ戻す。このことを最も明瞭に示すのが、「神の前」という概念である。
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