現代キリスト教倫理
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第三章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学

第三節 「神と共に」あること

存在の深みとしてのインマヌエル ー2ー

 このカントの認識論の構造的欠陥を補い、認識を、現存在が実際におかれている歴史と空間の相互作用の中での機能として理解し、しかもその認識に基づく倫理的決断の是非を人間の恣意に依存させないためには、 神(超越)を「存在の深み」として理解する垂直の次元が必要となるのである。

 その際に、この「存在の深み」としての超越は、P.ティリッヒの用語を借りて言えば、現実認識における「メタ・ロゴス(meta-logos)」として機能する。

 それは、たとえば一本の樹木を認識しようとする場合、われわれは目に見える幹や枝や葉だけではなく、表面上は見えない木の根が樹木全体を支え、樹木全体に浸透膜を通して養分を送り出していることを理解するし、植物の分子構造のレベルから、その木の特性、生態系、歴史、樹木がわれわれ自身に及ぼす作用とわれわれが樹木に及ぼす作用とが有機的に認識され、そこからまた物質的客体としての「木」そのものだけではなく、「われわれが木を認識する」ということの全体が理解されて、初めて樹木の全体性と意義とが認識されていくように、その「存在の深み」は、われわれの認識の全範疇に相互浸透的に作用し、同時に、認識主体としてのわれわれ自身にも認識のメタ・ロゴスとして機能することによって、自己自身の認識能力によって規定された認識範疇を超え、現実の全体性とその意義を認識することを可能にするのである。

 そこで現象の認識は、このメタ・ロゴスの解釈となり、認識主体に現実認識における真の意味での謙遜さと誠実さを要求するのである。それが、歴史的現実の中での現存在の認識における「神と共に」ということの意味である。

 従って、倫理的決断における認識は、ただ「神なし」の世界における「神と共に」のインマヌエルの逆説によってのみ支えられるのである。

 われわれがこのようにキリストの受肉と十字架におけるインマヌエルの事実を認識することが許されるなら、そこで初めて、倫理的決断を為す際の現存在の認識における超越と内在の相互浸透的交流の構造が明確化するし、倫理的決断を人間の主観的恣意に依存させないで、決断の根拠となる「存在の深み」から「存在の深み」に立って為し得るようになるはずである。

 そして、そのような決断に基づいて、人は初めて、生の空しさを生み出すニヒリズムが支配する世界の只中で、存在への勇気を持つことができるし、存在を存在たらしめる意義を見い出すことができるのである。

 人間にとって、それ以上の意義は存在しないし、この意義の確認こそが存在論的「救い」の意味にほかならない。

 また、「神と共に」の概念は、それ自体ある固定された現象の静的分析概念ではなく、常に行為の作用因として主体に働きかける動的な概念である。

 従って、それはわれわれが分析できるものではなく、ある意味では霊的(Spiritual)とでも表現するしかないエネルギー源として、ただ存在行為の結果の中でのみ追認される概念にほかならない。ここに「信仰の秘義」としてのインマヌエルの受容が存在するのである。

 しかし、多くの場合、この「神と共に」がもつ「信仰の秘義」は、それが「秘義の保持の訓練(Arkendisziplin)を必要とするだけに、神秘主義的な、あるいは神の内在性を誤って理解した汎神論的な思想傾向を伴う危険性が存在する。

 神秘主義と汎神論は、古代ギリシャ以来の形而上学的超越論から生まれた双子の子であるが、真実の「存在の深み」としての「神と共に」は、非汎神論的でなければならない。

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