第三章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学
第二節 神なしの現実
聖書における「神なし」のススメ(1)
聖書は人間の自立を神の名において促す。
旧約聖書において、たとえば「十戒」の第三戒は、主の名をみだりに唱えることを禁止する。神は、人間の極限的な限界状況において人間を救い出す神ではあるが、その神の救いの御手は、神自身の自由な愛の必然性に基づいて差し伸べられるのであり、人間が自己自身の必要性に応じて「神の名」を用いることを禁じられる。
それは、人間自身が神に依存した生を送るのではなく、自らの自由と責任において自立していくことを望まれるということを意味している。
「自立」とは、自らの為し得ることは、少なくとも自らの手で引き受けていこうとする責任を負う行為の基本的な精神の有り様をいう。
その意味で、「十戒」に代表されるような神に対する本当に深い信頼と愛は、必然的に、たとえそれが不条理として感じられようとも、与えられた世界と自己の生を自ら責任をもって引き受けようとする「自立の精神」を促すはずである。
自立の精神は深い信頼に基づいて初めて生まれるものにほかならない。だから、「主の名をみだりに唱えてはならない」のであり、「主よ、主よ、と言う者が救われるわけではない」のである。
信頼は自立を生み、疑いは依存と隷属を生む。信頼することと依存することは、まったく別の精神の形態であり、依存は隷属しか生まないが、全き信頼は自立と自由を生み出す。
信仰の父アブラハムは、最愛の息子イサクを殺さなければならないという不条理を最後まで自らの責任において担おうとした(『創世記』22:1−19 )。
彼はその不条理を自己の試練として受け止めたのであり、神の名を持ち出してその不条理から逃れようとしたのではなかった。イサクに向かって最後の剣をあげたのは、神ではなく、あくまでも彼自身であったし、神への絶対的な深い信頼の中で自分の行為の結果を自ら引き受けていこうとする決断だけが、その時の彼を支えたのである。
彼はそれを試練として受け止めた。ある不条理の苦悩が「試練」として受け止められたということは、その不条理を自らのものとして担おうと決断したということを意味している。
この決断が為されないところでは、苦悩は「試練」としてではなく、苦悩として止まり続ける。それ故、この決断は、神に最も大きな信頼を寄せるが故に、そこで神に依存して不条理から逃れようとすることを自ら拒否するのである。
また、預言者は、その託された預言の言葉を、自己の生涯のすべてをかけて担わなければならなかった。そのことに最も苦悩したのはヨナとエレミヤに代表されるが、ヨナはニネベの町の「とうごまの木」の下で、神の真実と計り知れない恵みの大きさに思いを寄せていくし、エレミヤは廃虚となったエルサレムで、「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」(『エレミヤ書』31:33−34)と語る。
「主を知れと教えない」ということは、人々が深く神の愛と信頼を心に刻んでいるので、もはやあえて「神」について語る必要がないということである。
それは、人間が、その深みにおいては神への信頼に基づいて、現象においては、その深みから導かれてすべてのことを自己の自由と責任において決断し行為することを意味している。
ここでは、宗教が伝統的に持ってきた「超越的なもの」に対する悪しき依存的体質が全く否定されている。
そして、神は「隠れた神」となり、内在の神となることが宣告されているのである。
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