現代キリスト教倫理
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第三章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学

 先にわれわれは、現代の非宗教的状況下でのキリスト教倫理学の基本構造について、「神の前で、神と共に、神なしの倫理学」という提題を掲げたが、そのために最初に考察されるべきものは、倫理的決断における現存在の認識の方法におけるこの提題の意味である。なぜなら、すべての決断はその認識から出発するからである。

第1節 倫理的決断に至る現実認識における提題の意味(1)

 人間の理性的判断領域において一切の形而上学的超越を否定することによって分裂してしまった超越論的倫理学と内在論的倫理学を綜合しようとする試みにおいて、われわれは、その新しいキリスト教倫理学の基本構造として、D.ボンヘッファーの「成人した世界」の概念を用いて、「神の前で(vor Gott)、神と共にある(mit Gott)、神なし(ohne Gott)の倫理学」と呼ぶことにしたが、この三つの前置詞で規定された倫理学の前提は、もう少し厳密な神学的考察と概念規定が必要とされる。

 なぜなら、単純な「神の前」の強調は、現実を一切無視してしまう古典的神秘主義に傾く危険性をもつし、「神と共に」の主張は、あたかも神学的な装いを取りつつも、汎神論に向かわせるからである。

 そして「神なし」は、最も危険なニヒリズムへと導いてしまう。

 それらは、西欧思想史上に繰り返し現われてきた思想的落とし穴であるが、現代の非宗教的状況下では、それらの落とし穴に落ちてしまう危険性が最も大きく存在しているからである。

 それだけに、現実に生きている人間を真実に考察しようとするなら、それらの危険性を避けるためには、それを規定するこの三つの前置詞の相互の連環が十分に認識されておかなければならない。

 この三つの前提は、それぞれ個別の前提ではなく、相互に補完的で三位一体的に倫理学を構成するものとして考えられなければならない。

 それぞれ、単純には、倫理的決断の根源的前提としての絶対他者、存在の深みと共にある実存、歴史的現存在を意味するものに他ならないが、決してそれぞれが独立してではなく、倫理的決断の反復運動の中で相互浸透的にダイナミックな力動性をもって、存在を「そこにあるもの(da-sein)」として形成するものに他ならない。

 この三つの前提は、これまで、形而上学、神学、自然科学の厳密な領域規定の中で、それぞれの細分化された分析とその分析データから導き出される帰納的な論理性に基づいて考察されてきたが、倫理学が、あくまで現存在として生きている実存的人間を対象にする限り、存在の意味の了解に従って善悪を決定しようとするひとつの倫理的決断が、「当為(あるべき形態−sollen)」と「存在(sein)」と「世界(Welt)」の精神の内的相互作用による実存(Existenz)形成のための一つの結果であることが認識されておかなければならない。

 そして、この倫理的決断における精神の内的相互作用のダイナミズムは、認識論的方法論を規定し、基本的には実存認識の方法において最も明瞭に理解される。

 従って、先の倫理学上の三つの前置詞によって規定された提題、つまり「神の前で、神と共に、神なしにある」ということは、第一に、倫理的決断における現実認識の方法論的規定として理解されるべきものである。

 さらに、キリスト教倫理学の考察において、ここで注意しておかなければならないのは、倫理的決断において、常に「超越」が前提とされてきた西欧倫理思想が、「当為(もしくは超越論的認識)」を倫理的考察に先行させてきたために、倫理学を決疑論的(Kasuistik)な道徳的規範として位置づけて、倫理学そのものを窒息状態にしてしまったことである。

 キリスト教倫理学、あるいは神学そのものは、今日に至るまで、常にその教科書どおりに、神の概念規定から出発して教義を定式化してきたが、そのためにかえって、超越や神の概念なしに現存在を現存在として認識することで存在に至るという今日の人間の現実に応えることができないでいるといった状況を生み出してしまった。

 最も大きな神学的誤謬は、たとえば「罪」という概念を、神と人間の関係の破綻という定式化された言語で説明し、その「罪」という概念の背後に隠されている人間の実存と世界との深い関わりの現実的姿や、その関係の中で本質的に感じざるを得ない弱さや限界を充分に理解しようとしなかったことである。(1)

 それ故、そこでの「救い」の出来事は、ただ抽象的な概念の宣告にすぎなくなって、現実性を失ってしまったのである。

 聖書が告知する「救い」が、具体的に失われたものの回復」を意味するとしたら、「失われたもの」に対する深い洞察が必要とされるのは当然のことであるのに、教義の定式化によって、その具体性を失ってしまったのである。

 そこからまた、キリスト教倫理学について、「キリスト教倫理学は新しい戒めを提示するものである」という大きな誤解が存在することにもなってしまった。

 比較的良心的な誤解の一つは、キリスト教倫理学を「新しい愛の戒めの倫理学」として規定してしまう誤解である。

 だいたい3世紀ごろから今日に至るまで、キリスト教の教えの中心を、新しい戒めである愛の戒めの宣教であると称して、「愛の規範」を展開しようとする運動が繰り返し起こった。

 これらの運動を担った人々は、「愛の戒め」こそが新約聖書の独自性であると主張した。

 これらの人々は、特に近代では「良心的で信仰深い市民」と呼ばれるのかもしれないが、そのことによってキリスト教倫理学を生きた実存的決断から薄っぺらなヒューマニズムと心情的同情の実践へと堕落させてしまった。

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