第二章 倫理における超越としての神
第二節 現代の神学的神理解(3)
ティリッヒは、彼の神学体系を徹底的に実存的な言語分析によって形成したが、先行的存在としての神が、このように「存在の深み」として理解されるとき、そして、神の現実と歴史的この世の現実が「相関」において理解されるとき、この世の有限性の中で発される問題や問いに対する科学的、哲学的理解は、啓示の宗教的答えに至る「道備え」として位置づけられることになる。
つまり、究極を前にした究極以前の「道備え」となるのである。
しかし、神の内在を「存在の深み」として理解するとき、われわれはヘーゲルの誤りを避けるために、つまり神を内在の中に解消してしまわないために、ここで聖書の神が、世界と人間に対して、あくまでも「絶対他者」として自らを啓示したという聖書の証言に立ち帰らなければならない。
古代ギリシャやオリエント世界のほとんどにおいて、世界は、正義や法(nomos ノモス)といったなんらかの神的素材を素にして創造されたと考えられていた。
つまり、神は世界に初めから内在していると考えられたのである。しかし、旧約聖書の祭司文書の著者たちが創造物語を書いた時、バビロンの自然宗教を批判し、神は世界と人間に対する「絶対他者なる創造者」であり、世界も人間も被造物としてその神によって無から(ex nihilo)創造されたことを説いた。
神は、世界とは「非類似(dissimilis)の神」(アウグスティヌス)であり、ただ「畏怖と信仰によってのみ関わるべき存在」(ルター)にほかならない。
そして、質的に異なる絶対他者である神が、イエス・キリストにおいて、愛と恵みの語りかけをおこなうのである。
聖書の「生きて働きたもう神」の思想は、あくまでそのような神を証言する。それは、神が世界と人間の中に解消してしまうことができない存在であることを意味している。
従って、ティリッヒの「存在の深み」という神理解と「相関」には、もう一つこの聖書的なイエス・キリストの十字架と復活において示された愛と恵みの語りかけをおこなう絶対他者なる神という神理解が必要不可欠なのである。
そうでなければ、存在の深みにおいて歴史的実存としての現存在を開放するのが、「救いの神、主」であるとの保証がどこにもなくなってしまうからである。
そして、このように「存在の根源、深み」としての神とその神が絶対他者であるという神理解に立つところにおいて、初めて、倫理学の基本構造の問題としての超越論的倫理学と内在論的倫理学の「綜合」の可能性があるように思われるのである。
なぜなら、神とこの世、究極と究極以前のことを厳密に区別しつつ、究極以前のことがらを究極の前で、究極への「道備え」として位置づけることが可能となり、キリスト教倫理学をこの世のただ中における神の前での倫理学として形成することが可能であると同時に、超越と内在を「綜合」することができるのは、キリスト教倫理学以外にありえないことが、明白となるからである。
HP『思想の世界』の主幹者である小副川幸孝先生の新しい著書『説教集−日々の糧を与えたまえ』が、リトン社より発行されております(定価 2,500円)。
ぜひお近くの書店にてご注文ください。お問い合わせは K's Community まで。
