第二章 倫理における超越としての神
第一節 宗教と倫理(4)
しかし、すでに概観した西欧キリスト教倫理思想史に顕著なように、かって、宗教と倫理は、宗教が提示する形而上学的超越とそこから自動的に演繹される道徳的実践行為との関係のように、不可分の関係にあった。
人々は、宗教的な事柄の実践としての倫理を具体化しようとしたし、倫理的な事柄の究極を宗教に求めた。
思想的な相違は、ただ、宗教から倫理へと向かうか、倫理から宗教へ向かうかのいずれかの中だけに見られるのである。
誤解を恐れずに言い切ることが許されるなら、前者の代表として、アウグスティヌスやルターによって提示された神学的倫理学を挙げることができるかもしれないし、後者の代表としてカントのような哲学的倫理学を挙げることができるかもしれない。
だが、もはや、宗教と倫理の関係をそのように語ることはできない。
否、むしろ、ことにキリスト教において、その本質が厳密に認識されればされるほど、その本質から宗教と倫理をそのような関係で理解することが本質的には誤りであり、両者は明瞭に区別されるべきものであり、その厳密な区別の上での両者の関係が再び位置づけられることの必要性が認識されなければならないのである。
言い換えれば、人間の倫理的行為の根源には何らかの形而上学的超越があることが明瞭に認識されたうえで、キリスト教倫理学の構造的根本問題として、その超越理解そのものを、かってのギリシャ哲学的超越理解としてではなく、厳密に聖書的な神概念として再解釈しうるかどうか、そして、現存在を現存在としてどこまで深く認識しうるかどうかなのである。
つまり、そもそもキリスト教とはいったい何なのか、その使信は人間にとって結局は何なのかという根本的な問いが、現代的実存状況の中で、常に繰り返し問われているということなのである。
つまりは「キリストとは誰か」、「あなたは誰というか」という永遠の問いに直面させられているのである。
しかし、この問いは、こうした小論では取り扱うことができないほどの究めて厄介な、そして恐らく解決不可能に近い問いであることが十分に認識されなければならないだろう。
なぜなら、それは、2000年におよぶキリスト教神学のすべてを堀返すことを意味しているだけではなく、この種の問いそのものが、じつは問い続けることの中に実存的問いを永劫回帰的に生み出していくような存在の問いそのもの、いわば「問い」として存在している現存在そのもの問いにほかならないからである。
しかし、真の超越の問いはそのような問い以外にはありえないし、現代の宗教と倫理をめぐる状況が、徹底した形で宗教の本質と倫理の本質の両方を問う状況でもある以上、何らかの道筋が見い出せないならば、キリスト教倫理学の再構築などありえないはずである。
問題はやはり、繰り返し繰り返し「神」なのである。バルトが言うように、倫理的な問いは、究極には「神」の問題に直面するのである。(5)
従って、ここでは敢えて、キリスト教倫理学との関連で神理解の問題に触れなければならないだろう。
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