第二章 倫理における超越としての神
第一節 宗教と倫理(2)
一方、宗教の側において、今日においてもまだ宗教的世界観を堅持しようとする人々は、宗教的道徳性に敵対する人々への反論として、かって20世紀初頭にトレルチが指摘したように、「敵対者たちの主張そのものが何らかの形而上学的前提を含んでいるので、すでにそこで必然的に宗教との関連を持たざるを得ないし、道徳は宗教的保証を必要とする」(1)ということを主張しようとして安っぽい宗教的道徳性の有効性を拡大しようとする。
しかし、倫理的行為の必然的前提としての形而上学の内実と既成宗教の現実との分離が進行するにしたがって、それらの人々は、「宗教」に執着することによって、「宗教」という枠内に近代ヒューマニズムに基づくあらゆる人間性の行為を取り込まねばならなくなり、その結果かえって、倫理的価値判断の根拠として、ただ神の名をむやみに持ち出すだけで、その実はヒューマニスティックな人間性を宗教の名で語るにすぎなくなっている。
つまり、現象学と心理学を宗教というひび割れた鍋の中でぐつぐつと煮込んでいるにすぎないのである。
そこでは、人は、人間の内的善と道徳的行為が救済の条件となる律法主義の支配の下に置かれ、「罪」の認識が深められるのではなく、単なる人間の限界状況が指摘されるだけで、自分の頭髪を自分でつかんで自分を引き上げようとする行為を繰り返すにすぎなくなっているのである。
これらの人々は、道徳的行為の保証としての宗教を保持しようとすればするほど宗教を形骸化しているにすぎないことに気づいていない。
宗教的教説に固執しようとする護教家たちが、どのような護教的理論を主張したとしても、もはや今日、人は、もし自己の知的誠実さを犠牲にすることなく徹底的な内省をもって倫理の諸問題を追求しようとするなら、そこでの究極的な問題が、もはや意味を失ってしまった超越概念を宗教的ア・プリオリ、もしくは人間精神にア・プリオリとして存在する根源として位置づけて、その前提を問うことなしに、世俗化の中でその有効領域をせばめつつも展開されている宗教的教説と、現存在をまったくの現存在の側からのみ認識し、その時々の人間的な諸目的のそれぞれの自己目的の価値に基づいて提示される価値判断とが分離していることにあることを認識せざるをえないはずである。
HP『思想の世界』の主幹者である小副川幸孝先生の新しい著書『説教集−日々の糧を与えたまえ』が、リトン社より発行されております(定価 2,500円)。
ぜひお近くの書店にてご注文ください。お問い合わせは K's Community まで。
