第二章 倫理における超越としての神
第一節 宗教と倫理(1)
現代のキリスト教倫理学の混迷は、先に述べたように、伝統的神理解としての形而上学的超越理解に基づく宗教的な教義学的教説と人間の現存在に対する認識方法との分裂に由来する。
それは、宗教にとって、社会現象的には、人間と社会に対する価値判断において宗教の有効領域がせばめられていくに従って宗教がその本来の意味を喪失して自らを儀式宗教に変質させるか、反社会的なカルト宗教的な傾向を強めるか、あるいはますます内面化を進行させていくかの、いずれかの道をたどることとなる。
それと同時に、倫理学そのものにおいても、世俗化社会における統一性を欠いたその時々の多種多様な「根無し草」的な分裂した価値判断のために、たとえば現代の生命医学倫理の諸問題に対して、価値の多元性や個人的実存の自己決定に委ねる以外に倫理学が何一つ具体的な基準を提示することができないでいるといった倫理的混乱状況が表出することになる。
宗教の領域においても、倫理学そのものにおいても、いずれにしても現存在の諸目的にたいして確定不可能性を呈するだけの混乱した状況が生じて、その本来の意味が失われていくだけとなるのである。
近代以降、倫理学は、倫理的行為の根源としての形而上学的超越を排除し、宗教的教説と無縁のところで現象学的考察を展開し、倫理的価値判断の相対性を主張して、人間の現存在を現存在として理論的厳密性をもって規定しようとした。
神なしに生きる現代人は、それぞれの現象を統合する超越を意識的に避けようとすることによって、それぞれの立場と状況によって示される分裂した世俗的価値に従わざるを得なくなり、多かれ少なかれ、不安と分裂病と虚無感に囲まれている状況に置かれ、倫理学はそれに適切な解答を出すことができなくなってしまったのである。
人はただ、自然科学が提示する合理性と経済学的功利主義、または人間自身の不確定な快苦の感情を基準にした功利的価値倫理の判断に身を委ねて、その場その場をしのいでいくだけに過ぎなくなっている。
そうした中で、結局はいつも、ただ問いだけがあって答えがない、という根源的不安の精神状況が生み出されていったのである。
そして、現実に苦しむサマリヤ人(ルカ 10:30)を、今自分が手を差し伸べて助けることが本当に良いことかどうかの判断をつけることができずに、その側を人間の合理的理性を振りかざして通りすぎるのである。
人がソクラテスのように「より良き生」を考察する場合、もはや究極の普遍的善なるものを考えることができない以上、そして「善なるもの」がただ民族や国家、社会といったそれぞれの特定の環境や状況に限定された相対的なものにすぎないことを認識せざるを得ない以上、その生そのものも相対的な、その時々の状況のなかに限定されたものであることを認識せざるを得ないのである。
言い換えれば、認識不可能な超越概念を全面的に否定しようとする傾向を持った近代の倫理的な価値判断のシステムは、状況倫理や価値倫理、功利主義に見られるように、ただものごとの諸関係における功利性を基準にした寄せ集めの集合体でしかありえなかったが故に、その限界を超えるような、人工妊娠中絶における胎児のどの時点から人間とみなすか、とか臓器を移植された人間を前と同じ人間とみなすとすれば、どの臓器までか、とか遺伝子操作や脳死や尊厳死の問題、限られた富の本質的不平等分配の問題などに根本的に答えることができないでいるのである。
現代の倫理学者は、恐らく、個人的な実存的決断や価値の多元性や快苦の功利性の合理的計算基準を挙げ、倫理的な判断の根拠の確定不可能性を指摘するだけではないだろうか。
HP『思想の世界』の主幹者である小副川幸孝先生の新しい著書『説教集−日々の糧を与えたまえ』が、リトン社より発行されております(定価 2,500円)。
ぜひお近くの書店にてご注文ください。お問い合わせは K's Community まで。
