メモとりあえずメモ書き
JR西日本の事故から1年。この事件にも1つの決着が付こうとしている。 一部新聞報道によると、JR西日本と他社とで運転士に対する教育の有様や過密ダイヤなどの実態に違いがなく、会社側の管理責任を追及するのは困難であるらしい。詰まる所、事故を起こした運転士個人の資質によるものであってそれ以外の原因は考えられないと言うことに帰着したいらしい。 事故当時のマスコミの多くのJR西に対する責任追及の加熱ぶりには嫌気が差すものがあったものの、あながち的外れな追求をしているとは思わなかったし、JR西に対して何のおとがめも無く、何ら責任を負わせることができないとも考えていなかった。ところがどうやら一年と言う年月の後ろで、組織には責任がなく個人のみの責任が問われようとしている。事故を起こした党の組織もそれを監督していた国交省もまったく責任無しとなりそうだ。それでいいのか?
これってどこかで見た図式ではないだろうか? 勝手の信楽高原鉄道事故でも、勝手に信号機を自社の都合に合わせて改造したJR西日本の責任は問われなかった。事故当事者の責任のみが問われた。 耐震偽装問題も国や監督官庁の責任は追及されることなく、関係者が別件で逮捕されて幕引きと言うことになりそうだ。ある時期から「自己責任」と言う言葉が独り歩きをしたように、どうも組織や国家、自治体などの責任をどこかにうっちゃってしまって、当事者個人のみの責任にしようと言う動きが目立っているのでは無いだろうか?むやみに組織や公的機関の責任を叫ぶのもいかがなものかとは思うが、全てを個人に帰結させてしまおうと言うのはかなりの愚行のような気がする。 さて当の事故の責任だが、運転士個人の過失は疑いのない事実であったとしても、そう言う人物を運転士として採用した組織にまったく責任がないと言うのはおかしな話だと思う。 JR西日本の社員の構成を見ると、いわゆる中間層がごっそりといなかったりする。多くの会社で見られる技術の継承の断絶が起こっていたのは想像に難くない。たぶん数値では計れないJRマンとしての誇りみたいなものも継承されなかっただろう。そんなところに今回の事件につながるほころびと言うようなものが潜んでいたような気がする。 穿った見方をすれば、今回の事故を運転士個人のみの責任としなければ、JRと言う組織のあり方も問題にしなければならないし、同様の教育やダイヤを組んでいる各社に対しても見直しをしなければならないし、それらを監督している国交省の指導方針も見直さなければならなくなる。ひいてはJRの民営化自体がはたして今回の件に影響がなかったかなんて話にもなってくれば大事だ。そうさせないためにも、運転士1人の過失にしてしまった方が都合がいいと考えるむきがあるのは間違いないだろうな。 子供の事故もすぐに「親の責任」「本人の過失」と言うところに帰結してしまって、本当のところは何が原因だったかが薮の中と言うケースが多い。多くの事故についても動揺のことが生じているそうだ。このJRの事故も単に「運転士の過失」で終わらせてしまっては、本当の原因と言うのは薮の中に消えてしまうのでは無いだろうか?そもそも人間はミスをする生き物だ。それをミスしないように仕向けることがきちんとできていない結果が今回の事故ではないのかと思う。 となると同様の態勢で運営している多くの鉄道会社で、同様の事故が起こる可能性があると言えるんじゃないだろうか。ひとりのおかしな運転士のせいで起きた事故と片づけてしまってはあまりにも非科学的と言う気がするのだが、どんなものだろうか。 |
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Total entries in this category: Published On: 4 26, 2006 12:29 午前 |
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