終幕 宇宙の産声
そんなわけで、諸般の事情によりテレビ未放映となった「終幕」を含む完結編序章完全版がついにDVDで登場。“テレビ未放映”も喉元過ぎれば立派に宣伝文句である。まあ、狙ったわけじゃないだろうけど。
ちなみにテレビ放映版の「第二幕」は、完全版の「第二幕」のダイジェストに「終幕」後半(のダイジェスト)をくっつけてて、つまり、「終幕」の前半部分がすっぽり抜けてます。で、この前半が結構エグイ。ある意味、完結編序章の最大の見せ場といっていいかも。やってること自体は後半と変わんない気はするけどネ。(気持ちの問題です)
気になってる人は、見ても損はないのではないかと。(税込み定価 6,090円の価値があるか、とかは聞かないように)
もう見ましたか? そうですか。
さて、第二幕で007が「昔見たイタリア映画云々」と言っているのだが、このイタリア映画は、よくわからない。
わからないなりに思い浮かぶのが、ファチマの奇跡。
結構そのテのテレビ番組などで紹介されてるのでご存知の方も多いと思うが、1917年5月13日に、イタリアではなく、ポルトガルのファチマという村に住む三人の子供の前に聖母マリア様がお姿をおあらわしになられられられられて、最後の出現日となった10月13日には、“奇跡”を一目見ようと詰めかけた数万人の群衆の見守る中、太陽が七色に輝きながら飛び回った、という事件である。
ラリってたりとか、もしくはある種の催眠状態にあれば、太陽の一つや二つ飛び回る“幻覚”が見えるのもあり得ないことではないような気はするが、一人や二人ならともかく数万人が一度に同じ“幻覚”を見た、というのも、太陽が実際に飛び回る(ように見えた)のと同じぐらい信じがたい話ではある。(信じがたいから奇跡というのだが)
余談だが、この騒動の間に子供たちに下されたのがファチマの三つの予言である。第一の予言が第一次世界大戦の終結、第二の予言が第二次世界大戦の勃発、第三の予言が二十世紀後半に何かスゴイことが起こることを予言していたのだが、第三の予言はあまりにも衝撃的な内容のために封印された、というアレである。
封印されたり未放映だったり音声がピーだったりするとあらぬ妄想が掻き立てられるのが人情というもので、この予言は、ノストラダムスの予言と絡めてハルマゲドン(最終戦争)だの人類滅亡だのといろいろ憶測されてきたが、結局のところ、'81年に起きたローマ法王暗殺未遂事件を予言したものだったらしい。(2000年になって、ローマ法王庁が公式に発表した。『白装束の司教が十字架に向かう歩みの途中で銃弾に倒れ、死んだように見えた』とあるそうだ)
敬虔なキリスト教徒でない私には(ていうか、キリスト教徒ですらないが)、なあんだ、とか思っちゃったりもするが、よく考えると当たってるんだから、それらしきモノが何も降ってこなかったノストラダムスよりは偉いかも。
閑話休題。
そんなわけで、007の「昔見たイタリア映画」だが、これはよくわからない。
それはさておき、テレビ放映時には見落としていたのだが、さすがは完結編(序章)だけあって、“敵”は精神攻撃(?)にとどまらない恐るべき能力を有しているようである。この事実に気付いた時、私は戦慄を禁じえなかった。
“敵”の恐るべき攻撃能力――すなわち、一瞬にして005の眉毛を生やす攻撃である。
もちろんこの点については、完結編序章ではキャラクターデザインが一新されたのであるとか、ただ単に第二幕が(6千円もふんだくっときながら)ほぼ放映時のまま手直しされていないだけ等の異論反論もあることとは思うが、水鏡のように心を澄まして、虚心坦懐に目の前の現実をあるがままに素直に受け止めるならば、005の眉毛は第二幕と終幕の間の(物語上)わずかな時間の間に生えたのであり、他に合理的な理由が考えられない以上、“敵”の攻撃によるものと判断するしかないのである。
眉毛が攻撃だという点は納得するとして(納得して下さい)、そんなのわけがわからんだけで、ちっとも“恐るべき”攻撃ではないではないか、と思われるかもしれないが、そんなことはない。
そもそも人間は、古来より、わけがわからんモノ、すなわち自分には理解できないものを恐れ畏れてきたのである。
例えばオバケが怖いのは、いるんだかいないんだかわからん上に何が目的なのかもよくわからないから怖いのであって、科学的に厳密に存在が証明され、ついでにオバケとのコミュニケーションの手段が確立してしまえば、ちっとも怖いことはないのである。多分。(ウソだと思うなら証明してみて下さい)
また、(特に怖くはないが)ツチノコやネッシーにロマン(のようなもの)を感じるのは、ツチノコやネッシーが実在するかどうかわからない幻の生物だからであって、一度捕獲され解剖され学名が付けられてしまえば、ツチノコはただの珍しい蛇にすぎず、ネッシーはごく普通の単なる生き延びた恐竜であって、ロマンのカケラも無くなってしまうであろう。(ウソだと思うなら捕獲してみて下さい)
さらに、カルトな宗教団体の信者が(ワイドショーで見てる分にはいいが)近所に住んで欲しくないのは、奴等の寄って立つ行動原理が理解できないからであり、理解できてしまえば、その言動も特に奇異なものとは感じないであろう。(ウソだと思うなら入信してみて下さい。責任は取んないけど)
ちなみに、まんじゅうが怖いのは、そこにまんじゅうがあるからであって、目の前からまんじゅうが無くなれば全然怖くないのである。(ウソだと思うなら、私にまんじゅうを与えてみて下さい。あ、でも、まんじゅうよりお金の方が怖いです)
えーと、つまり何が言いたいのかというと、恐怖の本質は、理解できないということにある、ということが言いたいのであった。
人は理解できないゆえに恐怖し、恐怖ゆえに、時に理解できないものを迫害し(例えば魔女狩り)、迫害できない場合は、崇め奉ってご機嫌を取ろうとするのである(原始的な自然崇拝やいわゆる“奇跡”など。)。
で、眉毛である。005に眉毛を生えたからといって、敵味方双方に害もなければ益もない。したがって、“敵”の意図は全くもって不明であり、逆立ちしても理解できない。
理解できない以上、眉毛は怖いのである。
あ〜怖い怖い。
ということで、ヨミ篇との区切りの付け方がお世辞にもスマートとは思えないけども(そもそも人類の命運を賭けた戦いが始まろうとしてるって時に、石ノ森先生の仕事場で油売ってていいのか、博士)、神との戦いというテーマ自体が今となっては古いという指摘もその通りかもしれないけれども、この三話を見る限り、私自身は結構完結編は期待してもいい内容なのではなかろうか、と思っていたりする。描き方にもよるだろうが、それほど時代錯誤な話でもなさそうだ。(まあ、私自身が時代錯誤だったりするかもしれないが)
石ノ森が残した構想では、前半ではメンバーそれぞれのエピソードが描かれ、九人全員が揃うのは後半になってから、らしい。完結編(アニメ版)がテレビシリーズになるのか、OVAになるのかわからないが、どちらにしても、一人一話みたいな形式だと商売としてはやや辛いだろう。結局、完結編(アニメ版)の成否のカギを握るのは、前半の(多分)バラバラなエピソードをどう配置するか、という構成力にかかってきそうである。
……ヒジョーに不安だ。
(2003/9/25)