久しぶりに巡りあった懐かしい友は、けれども、どこか以前の彼とは違っていて、その微妙な違和感が僕を戸惑わせる。喋り方も仕草も昔ながらの彼そのものなのだが、確実に何かが変わってしまった。
それとも、変わったのは僕の方なのだろうか。
歳月が、二人の上を違う速さで通り過ぎて、全ての答えを曖昧にする。
そんなわけで、第32話の作画監督は、新ゼロ('79年版)キャラクターデザインの芦田豊雄氏であった。
あんまり関係ないけど、その昔「ルパン三世」(2度目のTVシリーズ)で、最初のTVシリーズと劇場版二作目「カリオストロの城」を手がけた宮崎駿氏が担当した回があって(「死の翼アルバトロス」と最終話「さらば愛しきルパン」)、この二回だけキャラデザインも宮崎キャラになっていた。
だから、ってこともないけど、芦田氏登板で(どういう経緯での登板となったのかは知る由もないが)紺野キャラを踏襲しない回というのもアリかな、と思うんだけど、所々絵が壊れてるし、何となあくキャラデザインもどっちつかずな気がする。(新ゼロの記憶が曖昧で断言もしきれないのだが)
どうせやるなら、「これが新ゼロの絵だ! どうだっっ」みたいな、新ゼロベストと言えるぐらいの絵を見せて欲しかったなあと思うのは贅沢であろうか?(それとも、あれが“ベスト”だったのだろうか)
ここで個人的妄想を書かせてもらうと、いっそのこと、高橋良輔監督以下新ゼロスタッフに4話ぐらい任せて、宇宙樹編をリメイクしてもらうってのはどうでしょうかね。(宇宙樹編は、原作のエッダ編をベースに、サイボーグ戦士が北欧神話の(自称)神々や巨人と戦う新ゼロ前半のシリーズ。構想がまとめきれず、中途半端な終わり方をした。新ゼロ後半のネオ・ブラックゴースト編終了後に(多分)宇宙樹編のテーマに再挑戦するべく、ミュートス・サイボーグ編(新ゼロバージョン)が企画されていたが、残念ながら制作には至らなかった)
内容的にミュートス編(平ゼロバージョン)とかぶりそうだし、シリーズとしての統一感が損なわれちゃいそうだが、個人的には損なわれて困るほどの統一感が平ゼロにあるとも思えず……。
そんなわけで、ギルモア博士と009、003の三人はドイツを訪れる。理由は不明である。
004に会いに行く以外の理由づけをしなかったのは、潔いのか、説明する努力を放棄したのか。(多分、ドイツに行くのに理由なんかいらないのだ。そこにドイツがあるから、だけで十分なのだろう)
それよりも気掛かりなのは、三人が移動手段に普通の旅客機を使っていたことである。搭乗口のゲート(正式名称はなんて言うんでしょうか?)の金属探知器を無事通り抜けられるのだろーか、などというケチくさいツッコミは置いとくにしても(だったら書くな、と言われそうだが、この一文によって“私ことazinori
は飛行機に乗ったことがある”という事実を示唆しているのである。別に自慢したいわけではないが)、こういう場合、取りあえずドルフィン号を使っとかないと、神より恐ろしいスポ○サー方面の方々のご機嫌を損ねたりしないのだろうか。他人事ながら心配である。
もっとも、三人のドイツ訪問は私用らしいので、ドルフィン号を使わなかったのは、公私混同(この場合“公”は、正義の味方としての使命である)を避けるためだったに違いない。正義の味方として立派な心がけであり、将来の日本を背負うよい子の皆さんには是非見習ってもらいたい。(『サイボーグ009』は教育的側面も持った番組です)
さて、予告によると(予告だけはテレ東サイトで見ました)、004は自分のドッペルゲンガーに出会う。
ドッペルゲンガー(二重身)は、ドイツの民間伝承で、その名の通り、自分そっくり(と言うか自分そのもの)の姿をしていて、見ると死んだり、死ぬ前に見たりするらしい。
「見た」という人の中には、ゲーテとか芥川龍之介とかクーパー捜査官などがいる。(クーパー捜査官の場合、死にはしなかったものの、“あっちの世界”に取り込まれてしまった。ていうか、このネタわかる人ってどのくらいいますか?)
ちなみに、日本でも江戸時代に似たような話が伝わっていて、こちらは“影のわずらい”などと言い、心理学方面では“自己像幻視”と呼ばれる。
予告で“ドッペルゲンガー”を振ってるんだから、本編での偽004もドッペルゲンガーっぽく描いた方がよかったと思うのだが(ドッペルゲンガーは、首をグルグル回したりシャカシャカと走ったりはしない)、予告と本編の脚本は、担当が違うんでしょうか?(←よく知らない)
現実だか幻影だかよくわからない(偽?)ギルモア博士が004に語りかける場面も悪くないとは思うのだが、偽ギルモアなんか出さなくていいので、同様の台詞を偽004に言わせた方が、004の自分自身(の影)との対話的な雰囲気が出て面白かったのではなかろうか。(要するに、“刺客”が偽004である必然性が薄いような気がするのである)
歴史に“もしも”は禁物であるが(だからこそ、“もしも”を夢想するのは愉しい。例えば、もしもクレオパトラが鼻水を垂らしていたら、とか、もしも源義経が北海道でジンギスカンになって食われていたら、とか、もしも○○なタクシー運転手がいたら、など)、もしも、平成版004が、「所詮俺は兵器なのさ」的キャラクターとして描かれていたら、兵器としての性能は同等かそれ以上、持久力は明らかに上の偽004と出会った時に、004は、(兵器として)冷静に戦力分析を行い、自分に勝ち目がないことを悟るであろう。よくて引き分け(ていうか相打ち)の過酷な戦闘で、「俺は兵器」な004に結果的に勝利をもたらしたものが、自分の中に残っていた人間性であったとしたら、ある意味皮肉な現実を004は突きつけられることになる。(平成版人間味あふれる004の場合、この結果は、少なくとも“皮肉”ではない)
もしも、平成版004が、「所詮俺は兵器なのさ」的キャラクターとして描かれていたら、ラストの爆笑シーンも、視聴者にとっては“泣ける”場面になっていたかも知れない。
平ゼロを(時々)見ている(原作も新ゼロも知らない)私の友人は、004が魅力的なキャラだと言う。
だから、平成版スタッフの選択は正しいのかも知れない。(少なくとも、分かりやすいキャラになった、とは言える)
でもなあ。
002や008には納得できても、004の描き方だけはどうもしっくり来ないんだよなあ。
最終回までに、平成004はこういうキャラでなければならなかったのだ、と納得させてもらえるだろうか?
(2002/6/18)