アンリ・ベルナールは整備員ではなく警備兵なのだが、ここ最近は、巨大な格納庫の隅で埃をかぶっていた赤い複葉機の整備に没頭していた。最新鋭の兵器が並び、時には展示場ともなるこの格納庫に、なぜこんな場違いな複葉機があるのか見当もつかないが、彼の上官は複葉機には何の価値も見いだせないといった風情で、勤務時間外の彼の行動に口出しする気はないようである。
この年代物の複葉機を飛ばしてみたい、とアンリが思い立ったのは、一目見た瞬間にその古びた機体に魅せられたから、としか言えない。
だから飛ぶ、というのはあまり理屈になってないよなあ、などとエンジンを覗き込んでいたアンリの背後から、しわがれた声がした。
「君は整備兵に格下げになったのかね? 坊や」
「僕は坊やじゃない……」振り返ると、軍服の老人がニヤニヤとアンリを見ていた。「少佐!」
少佐と呼ばれた老人、フランス空軍士官ルイ・ランベールは組織の人間ではないはずなのだが、組織の施設に自由に出入りすることを許されていた。彼が組織とどういう関わり方をしているのか知る由もなかったが、立場こそ違え、組織の理念に共鳴している人物として、アンリは老人を尊敬していた。
以前、アフリカにおける秘密作戦で、アンリは同行したランベールに一度ならず命を助けられた。生死に関わる過酷な状況下で、ランベールはよく若い頃の血湧き肉躍る冒険譚を語ってくれたものだ。もっとも、その話の九割以上はでっち上げだろう。この点に関してだけは、アンリは老人を信用していない。
「ニューポール複葉機、懐かしい機体じゃな」老人は真っ赤に塗装し直された機体をまぶしそうに見つめた。
「何十年も前からここに放置されていたようです。古い記録を調べてみましたが、何もわかりませんでした」
「昔はここにも粋な奴がおったんじゃろう」
老人の口調はどこか懐かしげで、ひょっとしてこの機体のことを知っているのでは、とアンリは思った。
「飛びそうかね?」機体の周りに散乱している工具に目を移してランベールが訊いた。
「飛びます、……多分。今日あたり飛ばそうと思ってたところです。少佐も操縦桿を握りますか? 確か少佐は、若い頃、複葉機で凱旋門の下をくぐり抜けたとか……」
「年寄りの話なんぞ、真に受けるもんじゃない、坊や」
「はぁ?」
ランベールは、ニヤリと笑って踵を返すと、すたすたと歩き去ってしまった。
アンリにとって、老人の言動はいつも謎めいている。
ランベールは、フランス空軍諜報部に所属するスパイであり、同時に、「組織」がフランス軍内部に浸透させた情報源でもある。彼を通して二つの勢力は情報を取引する。取引される情報は、古すぎて意味を成さなかったり、単なるフェイクのこともある。というより、彼の扱っている情報に役に立つようなものなど無いのかもしれない。
自分の扱っている情報が誰かにとって価値のあるものなのか、自分が本当はどちらの側に忠誠を尽くしているのか、ランベール自身、よくわからない。もっとも、彼がどちらに忠誠を尽くそうと、誰も気にはしないだろう。どちらの勢力にとっても、ランベールはゲームの駒に過ぎない。
だが、ゲームの駒に徹してまで追い続けた情報は、結局得られることが無かった。先日ようやく入手した
code-00 と呼ばれる計画の被験者リストにも、求める情報、フランソワーズ・アルヌールの名前はなかった。
名前があったところでどうなる? 何十年も前の話なのだ。どちらにしても彼女はもう生きてはいまい。
ルイ・ランベールは、ゲームを続けることに疲れていた。
パリ郊外、巨大な格納庫が並ぶ広大な敷地の一角、表向きは事務所にしか見えない建物の地下に、「組織」のフランスにおける指令センターがある。もっとも、前任の司令官によれば、「フランスにあるのは、組織の単なる営業所」なのだそうだが。
「お待ちしていましたよ。少佐」と司令官が狡猾そうな笑みを浮かべて、ランベールを出迎えた。
その手術痕のような継ぎはぎだらけの顔は、ランベールに、以前見たことのある日本の漫画に登場にする外科医を思い起こさせる。噂によれば、かつては組織の総裁の側近を務めていたのだが、不興を買って文字通りズタズタに引き裂かれた上、死ぬことも許されず、再生手術を受けて、フランスに左遷されたのだという。
真偽のほどは不明だが、指令席に座る彼の身体中から伸びるチューブが生命維持装置とおぼしき巨大な機械につながれているさまは、確かに「死ぬことを許されない男」にふさわしく見える。
「さて」新司令官は、前任者と違って無駄話に時間を割く気はないようである。「先日少佐から御提供いただいた、フランス軍で開発が進められている究極兵器に関するファイルなのだが、肝心な部分にプロテクトがかかっていてね」
「ほう、そうかね」ランベールはしらばっくれた。
「パスワードが必要だ」
「取引は厳正かつ公正に行われた。パスワードは取引に含まれておらんと思うが」
「ふむ。確かに君の言う通りだ」司令官は目を細めた。「前回の取引では、code-00
第一期資料と NATO のファイルを交換した、パスワード無しのね。もっとも、code-00
は何十年も前の資料だ。公平な取引だったと解釈しよう」
過去の歴代の司令官を知るランベールは、目の前の男の寛大ともとれる余裕の態度に不安を感じた。
司令官は続けた。「そこで、だ。新たな取引といこうではないか。パスワードと引き換えに、こちらも提供したいものがある」
ランベールはわざとらしく溜め息をついた。「わしは年だ。もう引退する。そもそも、パスワードなぞ知らんしな」
司令官もわざとらしく溜め息をついた。「そうつれないことを言わないでくれたまえ、少佐。いや、本名で呼ばせてもらおう、ジャン・アルヌール君」
「う……」
「調べさせてもらった。何しろ君は、code-00 という比較的最近まで継続していた計画に対して、いわゆる第一世代、計画発足前後の資料だけに興味を抱いていた。不審に感じても当然ではないかね。
まあ、前任の司令官は鞭を振るって喜んでいるだけの能無しのオカマ野郎だったからね。奴はそこまで頭が回らなかったんだろうが、私は違う。
ジャン・アルヌール、妹の失踪を機に除隊していたフランス空軍諜報部に復帰、ルイ・ランベールと名乗って我々の組織に接触。貴重な情報屋として我々の組織に貢献……。
それもこれも全て失踪した妹の行方を探るためとは、美しい兄妹愛ではないか。泣かせる話だ」
「涙は流れていないようじゃが」ランベールことジャン・アルヌールが憮然として言った。
「おっと、これは失礼。生憎、私の人工の眼には、涙を流すという機能が備わっていないものでね。
そう、君の妹を誘拐したのは、間違いなく我々の組織だ。だが、なぜか? その理由は君にもわかっているはずだ。
君は小賢しくも我々の組織のことをコソ泥のように嗅ぎ回った。空軍に復帰する何年も前からな。だから我々は、君にちょっとした圧力をかけたってわけだ。
何のために組織にちょっかいを出した? 金か? 金なら使い切れないだけの額を提供すると申し出たはずだ。だが、君はそれをニベもなく断った。愛国心か? くだらんね。国家などという枠は幻影に過ぎない。功名心? 正義感?
どちらにしても君は、自分の妹を君自身のエゴの犠牲にしたのだ」
「ち、違うっ!」ジャンの握りしめた拳が怒りに震えた。
「ふん。まあいい。今日はそんなことで君を呼んだのではないのだ」そう言って、司令官は背後に控えていた士官に合図をした。
士官は、戦略地図が表示されている巨大なモニタースクリーンの横のパネルを操作した。
「紹介しよう」司令官は、スクリーンが切り替わって像を結ぶのを待って言った。「プロジェクト
code-00 の被験体、サイボーグ・ナンバー003だ」
「フ、フランソワーズ!」
スクリーンに映し出されたのは、紛れもなくジャンの記憶の中にある妹、フランソワーズの姿だった。だが、繁華街を歩く彼女は、何かに怯えているように見えた。
「合成やトリックではないよ、ジャン。現実に今起きていること、そのままの映像だ」
「まさか……」
「code-00 第一次計画は失敗に終わった。当時の被験体は、つい最近まで凍結されていた、当時そのままの状態でね。そのことは君も資料を読んで知っているだろう」
「し、しかし、code-00 の被験体リストにフランソワーズの名前はなかった……」
「ああ!」司令官はわざとらしい驚きを浮かべた。「これは失礼した。どうやら君に渡した資料は訂正前のものだったようだ。
確かに本来003として候補に上がっていたのは、君の妹ではなかった。だが本来の候補者が不幸なことに手術中に死亡してしまってね。慌てたのは当時の担当者達さ。何しろ組織としても一大プロジェクトだ。不始末は許されない。で、ちょうど施設内に拘束されていた君の妹に代役として白羽の矢が立ったというわけだ。結果的に改造自体も簡易なものとなったようだがね。
君が素直に組織から手を引くことを約束してくれれば、妹さんはそのままお返しするはずだったのだが、この点については私も心から遺憾に思うよ。
もっとも、記録によれば当時の担当者も、『失踪しても騒がれない者を被験体とする』という条項に違反して処分されたらしいから、まあ、許してやってくれたまえ」
スクリーンの中のフランソワーズは、フラフラと公園の広場へと歩いていく。目の焦点が合っていないように見える。
「残念ながら彼女は今我々の管理下にはない。他の被験体と共謀して組織を裏切ったのだ。
それがどういうわけか、今朝方、我々の工作員がパリ市内で彼女の姿を捕捉してね。こうして追尾しているというわけだ。
裏切り者は、本来抹殺されなければならないのだが、色々と考慮すべきリスクもあってね。残念ながらフランス支部では、裏切り者どもに対抗できるだけの戦力を保持していないのだ。
多少の『イタズラ』程度のことなら可能だが」
司令官は、小指ほどの小さな装置をジャンに示した。
「この装置は、脳の記憶中枢を刺激して幻覚を見せる。
今彼女が見ているのは、愛する兄の姿かもしれない……」
画面を睨みつけていたフランソワーズが、突然銃を取り出して撃ち始めた。自分の心臓が撃ち抜かれたような気が、ジャンはした。
「この装置で彼女を殺すことはできない。が、出力を最大にすれば、精神を破壊する程度のことなら可能だ」
「……」
「私のここでの任務は裏切り者の抹殺ではない。だから、君へのクリスマス・プレゼントとして、このまま彼女を見逃してもいいし、装置の出力を最大にしてもいい。私は時には慈悲深くもなれるのだ。
君次第だよ、ジャン」
「わしにどうしろと言うのだ」
「パスワードを」
フランソワーズ――。ジャンは、恐怖におののく妹の姿を見つめた。どんな時でも守ってやると約束した妹。そして、守ることのできなかった妹。
「パスワードは……、justice」
「justice……、正義か。ふっふっふ、はっはっはっはっは……」司令官は、心から愉快そうに見えた。「妹を自らのエゴの生贄にし、今度はその妹のために故国を売る、そんな君にとって正義とは一体何だ?」
ジャンは司令官を睨みつけた。司令官は、どこか優しさを感じさせる表情で見つめ返した。
「いや、非難しているわけではないよ。私は君のような、卑劣で欺瞞に満ちた人間が大好きなのだ。
私を産み落とした三人の魔女が私に教えてくれた。醜いものこそが真に美しいものなのだとね」それから、振り返ると士官に命じた。「出力を最大に――」
「な、何だと」
「気が変わった。
なに、心配することはない。運良く我々の工作員が彼女を捕獲することができたら、その時は兄妹の再会の席を設けてあげるよ」
「貴様……!」ジャンは、思わず司令官に飛びかかっていった。が――。
バリバリバリッ!
「うぎゃあぁぁ」凄まじいスパークがジャンに襲いかかった。
「言い忘れていたが、私の周囲には電磁バリアが張り巡らされている。私には指一本触れることはできないよ、ジャン」のたうち回るジャンを見ながら、司令官は涼しい顔で言った。
スパークは始まった時と同様唐突に止んだ。喘ぎながらジャンは、司令官を見上げた。
「そろそろお引き取り願おう。私も忙しい身なのでね」
屈強な兵士が二人、ジャンを担ぎ上げた。抵抗しようとしたが、体が痺れて力が入らない。
司令官は、ジャンが指令センターから引きずり出されていくのを見届けてから士官に命じた。「パスワードを入力しろ。justice、だ」
被験体、ナンバー003の恐怖に歪む顔が消え、奔流のようなデータがスクリーンを埋め始めた。
ジャン・アルヌール、あるいは、ルイ・ランベール少佐が格納庫に姿を現した時には、アンリは複葉機の最終チェックを終えていた。
「少佐、いつでも飛べますよ。操縦桿を握りますか?」
「……」ジャンは、答えずに複葉機を見つめた。心なしか顔色が悪い。
「少佐?」
「ゲームが、わしにとって、長い長いゲームが終わった」
「はぁ……」
「パンドラの箱の中には希望も入っとった。希望とは、つまり可能性じゃ」
「はぁ? あの……」
その時、基地中に警報が鳴り響き、スピーカーが唸った。
「ルイ・ランベール少佐を見つけ次第拘束せよ。場合によっては射殺しても構わんっ! 繰り返す、……」
アンリは唖然として少佐の顔を見つめた。
「状況報告!」司令官が声を荒げた。
司令室はパニックに陥っていた。
「第一、第三、第四ブロック、制御不能! ――第二ブロック、機能停止しました。予備システム起動」
「何が起こっているのだ!」
「ウイルスのようです。強力なウイルスがシステムを侵食して……。メイン・システム崩壊。予備システムもウイルスの攻撃を受けています。
お、おそらく justice は、ファイルに仕込まれたウイルスを活性化するコードだったのではないかと……」
何てことだ。また閣下に八つ裂きにされてしまう、と司令官は思った。そして、また死ねないのだ。
「司令官」
「何だ!」
「このまま予備システムまでダウンしたら……」士官が努めて冷静を装って言った。「自動的に基地の自爆装置が起動します」
「は、早くなんとかしろおぉ」
司令官は冷静を装う気にはなれなかった。
「わしはこれから、君の整備した複葉機を強奪して、この基地から脱出する」ジャンは、立ち竦むアンリを尻目に彼が用意していた飛行服を身に着け始めた。
「アンリ」ジャンが振り向いた。アンリは、ジャンが「坊や」と言わなかったことには気づかなかった。
「君は、銃を持っとるな。使わんのかね」
「……。
上官の命令であろうと何であろうと、銃を撃つということは同時にその結果を負うことなのだ、と少佐に教えてもらいました」
「ふむ?」
「少佐には命を助けられたこともあります」
「では、見逃してくれるのかね?」老人はにっこりと笑うと、複葉機の座席に飛び乗った。
「でも、組織は裏切りを許しません」
「わかっとるよ。
じゃがな、時に置き去りにされた女がいる一方で、苦渋の時間を歩んだ男の人生もあるのだ。それは決してなおざりにするべきことじゃない。そう思わんかね」
「はぁ?」
「さあ、離れたまえ」ジャンはエンジンをかけた。今にも爆発でもしそうな猛烈な爆音とともにプロペラが回り始めた。
「少佐!」アンリは声を張り上げた。「でもなぜ飛ぶんです? 僕には……」
「そりゃあ、もちろん」ジャンは少年のように無邪気な笑顔を浮かべた。「こいつに乗って我が愛する妹に手を振るためじゃよ」
ジャンはゴーグルを着けるとアンリに片手を振り、そして、パリの夜空へと飛び去っていった。
アンリ・ベルナールは、その後、少佐が最後に見せた笑顔を折りに触れて思い出すことになるが、それはまた別の話である。
(2002/1/13)