第11話 幻影の聖夜

 
 


 水中では地中同様電波は届かないし、超音波通信も到達距離はせいぜい10km程度であり、南極に向けてSOSを打電したところで意味はないのだが(亜空間通信等SF的通信手段であれば、もちろん可能)、舞台を南極に移すことを視聴者に提示するという点では、珍しく(失礼)、実に巧い見せ方だったと思い、突っ込みは控えた。
 にも関わらず、今回は何の前フリもなく、いきなりパリである。南極に舞台を移すために第9話一話分を費やしているのに比べて、あまりにおそ松くんである。(だから前回イヤミが登場したのか!)

 次回はフランスを離れて「なぞの無人島」(どうでもいいが芸のないサブタイトルだ)が舞台になるようだが、レベルの低い敵を相手にしているせいか、サイボーグ戦士の方も気が緩んでいるようである。
 003をセンチメンタル・ジャーニーに送り出す点は置いといても、003がブラックゴーストに「イタズラ」されたということはつまり、フランスにおいてブラックゴーストが活動しているという明らかな証拠である。放っておいていいのか? サイボーグ戦士達は、何のために放浪してるの? フランス支部が雑魚と見切った上での放置プレイ? 

 (フランス以外の)ヨーロッパにブラックゴーストの本拠があるらしいとか、大きな作戦を計画しているらしいのでそれを潰すとか、より明確かつ重要な目標を提示しておく程度の配慮が働かないものか。(次回以降で説明されるのかもしれないが、今回の冒頭で提示するべき)

 さて、003がブラックゴーストに脳波コントロール装置を付けられるが、ギルモア博士の説明によれば、「イタズラ」というか脅迫というか精神的に威圧感を与えることが目的だったようだ。
 捕らえて再改造するわけでもなく、追跡してドルフィン号を奇襲するでもなく、精神的な攻撃のみで終わらせるあたり、ブラックゴーストの不気味さを表現したかったのだとは思うが、前回前々回でブラックゴーストの間抜けさ加減を散々見せつけられては、不気味というより、やっぱり間抜けに感じてしまう。
 人材不足のブラックゴースト・フランス支部としては、正面切って攻撃を仕掛けても反撃されて基地を破壊される(または自爆する)のが関の山、せめて「イタズラ」というか「嫌がらせ」してみました、ってとこだろう。そんな弱腰な態度で、フランス支部長がスカール閣下に処刑されないのか、ちょっと心配である。

 それにしても「イタズラ」はないでしょう、ギルモア博士。
 サイボーグ工学の研究に半生を捧げていただけに表現力が貧困なのは理解できますが、重要な締めの場面ぐらいはもうちょっと言葉を選んでください。(泣)

 今回、メンバー同士(具体的には009と003)が名前で呼びあう場面がついに登場。九人が行動を共にしてそれなりの期間が経過しているわけだから、お互いの本名を知っていたとしても不自然ではないし、思わず本名を呼んでしまう、という話の流れも納得できるが、シリーズのこの時点というのは、疑問を感じる。
 名前で呼びあう(あるいは本名を名乗りあう)という部分は一つのエピソードとしてきっちりと見せて欲しかった。今後そういったエピソードが描かれるかもしれないが、009と003がフライングしてしまっているだけに少々無理のあるものになってしまいそうで残念である。

 上記と、今回のエピソードがもっと後、ブラックゴーストとの戦いに区切りがついてから(いわゆる望郷編)の方が自然である点を考えると、クリスマスに合わせて003のエピソードをやりたかったという理由だけで、本来あるべき構成を崩してしまっているように思えるのだが、どうなんでしょうか。
 

 個人的には、今回の幻想ファンタジー風の味付けは嫌いではない。嫌いではないのだが、なんか中途半端だ。幻想ファンタジーをやるならやるで、なんで幻想ファンタジーに徹しないのか。
 003が正気に戻った時点で、

009「君の首筋にこんなものが……。何かの発振器みたいだ。多分、これが君の脳波を撹乱して……」
003「ブラックゴースト?」
009「……」(わからない、という表情で)
003「どうしてここがわかったの?」
  (中略)
  バン、ババーンと花火が上がる。
009「メリー・クリスマス……」
  花火の中を飛ぶ複葉機を見つめる二人。

みたいに余韻を残したまま終わったほうがよっぽどよかった。
 ギルモア博士の解説など、蛇足薮蛇槌の子饅頭(蛇足だがギルモア博士は爬虫類ではない)、視聴者の心地よい眠り(夢)を覚ますのは野暮ってもんである(野暮だがギルモア博士は蒸気船でもない)。
 どうせワケのわからん話なのだ(失礼)。堂々と胸を張ってワケのわからん話にすればいい。そうすれば、『中途半端にワケのわからん話』ではなく、『ワケわからんけど心に残る話』になっただろうに。
 そもそも、幻想ファンタジーは合理的な説明を拒絶するから幻想ファンタジーなのである。
 必要不可欠な説明をはしょる一方で、視聴者の想像力に委ねるべき所で、妙な辻褄合わせをして想像力に枠をはめている。視聴者(子供)に伝えるべきことはきちんと伝えるべきだし、同時に視聴者(子供)の想像力や読解力、可能性を作り手側が信じることも必要なのではないか。
 まるで、日本の教育問題の縮図を見せられているようだ。今回ってそういうテーマだったのか?
 

 次回予告
 幻想ファンタジーに徹してさえくれれば、それほど気にならなかったと思うのだが、またも幽霊ネタである。
 幽霊は信じていないと言っているにも関わらず、出すというのは、私に対する挑発であろうか。釈然としないが、売られたケンカは買わないわけにはいかない。
 というわけで、次回の『サイボーグ009』観察日記は、「幻影の聖夜 side B 」です。
 お楽しみに。(←楽しみにする程のモノではありません)
 

(2001/12/26)




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