第8話での“ステルス迷彩”について、少々見当違いな方向に話を持って行ってしまったような気がするので、今更だが、補足してしまうのである。
“ステルス迷彩”を私が気に入らない理由は、ゲーム用語のイタダキだからではなく、“脳波端末”(7話)とか“電子頭脳”(これは9話だけど)とかの用語が飛び交う世界に“ステルス迷彩”は、モダンすぎるんじゃないのかなあ、という部分なのであった(ような気がするのだが当時は違うことを考えていたのかも知れない)。
この辺の言葉遣いに関しては、個人的な趣味嗜好の問題かとも思うが、なんとなく、“ステルス迷彩”よりは“光学迷彩”の方が“脳波端末”だとか“電子頭脳”にはマッチするのではないかと考えたのであった(ような気がするのだが当時は違うことを考えていたのかも知れない)。
余談だが、“光学迷彩”は士郎正宗(『攻殻機動隊』)の造語だと思うが(先行する作品とかあるかも知れないがよく知らない)、いわゆる透明人間というどうしようもなく時代遅れなはずの素材を“光学迷彩”という言葉ひとつで“新しいもの”として甦らせたセンスはスゴイと思う。(“ステルス迷彩”は、“光学迷彩”からヒントを得たような気がするがよく知らない) 透明人間といえば『インビジブル』という映画があったが、これは徹底的にグロテスクな映像で“新しいもの”として甦らせた、と言えるだろう。
(見てないけど)
さて、DVD第2章1巻付属の設定資料の言い訳コメント(のように私には読めてしまう)によれば、平ゼロでは「時代を特定させるような小道具、美術設定を用いないというルールが出来上がっている」のだそうである。これ自体は、原作の空気を壊さないことにこだわってのことなのだろうが(実際に壊したか壊さなかったかについてはさておく)、結果論で言えば、ブラックゴーストが暗躍しサイボーグ戦士が活躍する世界に確固としたビジョンがなく、曖昧うやむやなまま誤魔化すことにしちゃった、と受け取れなくもない。少なくとも、「時代を特定させない」のであれば、“第一世代設定”で00ナンバー(とギルモア博士とブラックゴースト)に四十年だか半世紀だかの“歴史”を作ってしまったのは致命的なミスではないか。(第一世代というアイディアそのものはそれほど悪くなかった、とは思うのだが、単なる思い付きだったようで、矛盾出まくりの上、掘り下げてさらに傷口を広げているようでもある。名医でない限り腫れ物には触るべきではなかろう)
『サイボーグ009』アニメ化に際しては、徹底して現代的にリファインするという方向もありえただろうし(年寄りにはチト辛いが、原作を知らない世代が例えば「アニメは面白かったけど、原作は古くさくてちょっとね」みたいな感想を抱くんなら、それはそれでひとつの有り方ではある)、逆に“電子頭脳”とか“脳波端末”的な世界観に徹し続ければ、それもある意味“新しいもの”となり得たはずで、そうならなかったのは(ならなかったと思う)、要するに、作り手側の世界観の欠如なのだろう。(キャラの性格すらガタガタだったのに、世界観についてうんぬんするのもなんだが)
ついでなので書いておくが(しつこいヤツだ)、8話でのドルフィン号にもステルス処理が施されている(のでレーダーには映らない)という描写も、全体としてリアリティを重視した作品を目指しているならともかく、そうでもなさそうな平ゼロでは不要(というより蛇足)であり、潔くない。理屈抜きの“空想科学冒険マンガ”をやるんならやるで、それに徹するべきであろう。
私自身の好みで言えば、背景設定とか世界観の構築はきちんとやって欲しかったとは思う。(“空想科学冒険マンガ”に背景設定が不要だとも思わないし、二十一世紀に空想科学冒険マンガを成立させるためには、より緻密な世界観の構築が必要だと思う)
念のために断っておくが、設定というのは、「003には電子工学の才媛ていう意味不明な裏設定もあるんだよ、えへへ」と視聴者にアピールするためにあるわけではない。画面に決して現れることのない部分にどれだけの背景を与えることができるかが、結局はストーリーに説得力を持たせることになる、と私は考えている。
たとえとして適切かどうかよくわからないが、表面に現れるストーリーと背景設定の関係は、氷山のようなものである。
氷山は、海面に姿を現わしているのは全体の一割かそこらであり、残りの九割は海面下に沈んでいる。
表面に露出しない九割こそが、残る一割を浮かび上がらせ支えているのであり、だからこそ、ストーリーは説得力を持ち、だからこそ、タイタニックも沈むのである。