ブレードランナー最終版


How long could she live?

 '82年に公開された映画『ブレードランナー』は、公開当初こそあまり評価されなかったが、当時のSF映画が描いてきた未来像――“科学技術の発達した塵ひとつない清潔な未来都市”か、“核戦争によって文明らしい文明が滅んで荒廃し乾燥した世界”の2パターン――を覆して斬新な未来像を提示し、その後に作られた数多の映画はもちろん、最盛期の中森明菜の歌の歌詞に至るまで、様々なジャンルや多くの人に影響を与え続けてきた作品である。
 かく言う私も、この映画にはエライ感激した揚げ句、「ブレードランナーって映画はスゲー面白いぜっっっ!」とことあるごとに布教活動を行っていた時期があるぐらいだが、世の中には物事の価値というものが理解できない人間がいるもので、悪友のAに至っては、「なんかさー、ナレーションが邪魔くさいしさー、ラストも取って付けたようなハッピーエンドだしさー、ちょっとねー」などと言い出す始末。そんな彼に対して私は、「あのナレーションがハードボイルドっぽくていいんじゃん。あのラストだって、今までの重苦しい雰囲気から開放されて希望を感じさせるのがいいんじゃん。ばっかじゃねえの」と優しく諭してあげたのだが、その後、初公開から十年を経て、“邪魔くさいナレーション”と“取って付けたようなハッピーエンド”を削除した『ディレクターズカット 最終版』なるものが公開されることになろうとは、当時の私には知る由もなかったのであった。(涙)
 余談ながら少しばかり釈明すると、Aとの議論(?)で最大の争点となったのは、ラストのナレーションに対する解釈であった。
 ビデオ(完全版)の日本語字幕ではこうなっている。

ガフは彼女を見逃してくれた
4年しか生きないと思って
だが彼女の寿命は限られていないのだ
お互い何年生きるか
だれが知ろう

 Aが“彼女の寿命は限られていない”というのを文字通りの意味で受け取ったのに対して、私自身は、“だれが知ろう”というフレーズの印象が非常に強くて、寿命云々もひっくるめて“だれが知ろう”だと、つまり、レイチェルの寿命は限られていないかもしれないしやっぱり4年かもしれないがそんな事はだれにもわからない(でも、多分4年で寿命が尽きるだろう)、という意味に受け取っていた。というか、思い込んでいたのであった。
 ちなみに、ハリソン・フォードが実際に言っているセリフは、

Guff is been there, and let her leave.
Four years he figured.
-- He was wrong.
Tyrell told me Racheal was Special.
No termination date.
I didn't know how long we had together.
Who does?

(訳)
ガフはあの場にいたが、彼女を見逃してくれた。
(彼女には)4年しかないと考えたんだろうが――、
彼は間違っていた。(←断言!)
タイレルは、レイチェルが“特別”だと言っていた。
“寿命”が設定されていないのだ。
いつまで彼女と一緒にいられるかなんてわからないが――、
そんな事は、だれにもわからないことだ。

と、実際にはかなり明快に“寿命は限られていない”ことが断言されていて、思い込みの余地はあまりない。比べてみると、字幕の方も間違っているわけではなく、文字数の制限などを考えれば正確な訳だと言ってよく、どう頑張っても単なる私の思い込みであった。
 レイチェルの寿命が本当に限られていないのなら、それは確かに“取って付けたようなハッピーエンド”だよねえ、うん。(涙)


Do producers dream of happy-ending?

 ここで、余計なお世話だと思いつつも、ブレードランナーの各バージョンを整理しておく。

(a)ワークプリント版
 要するに粗編集段階のバージョンで、スニークプレビュー(一般の観客を対象にした試写で、観客の反応を受けて修正や追加撮影を行い最終的な公開版を作る)で上映された。
 ハッピーエンディングはなく、ハリソン・フォードによるナレーションもバッティが死ぬ場面での一ヶ所のみだったほか、オープニングや細部の編集も公開版とは異なっている。また、音楽もヴァンゲリスの曲が完成していなかったため、最後の方では他の映画のサントラが使用されていたりする。
*プレビューで上映されたバージョンにはもう一つあるが、こちらは、ハッピーエンディングとナレーションが追加され、公開版とほぼ同じ編集になっている。

(b)劇場公開版(1982年)
 プレビューが不評だったため、プロデューサーの手で、ストーリーを補足するためのハリソン・フォードによる独白ナレーションと、エレベーターのドアが閉じられた((a)と(d)でのラストシーン)後にデッカードとレイチェルの乗るスピナーが森の中を走り去る(そこに上述のナレーションが流れる)というハッピーエンディングが追加された。この時、残酷描写控えめ(多分規制の関係)の米国国内用と海外(欧州)配給用の二種類のバージョンが作られる。
 日本で公開されたのは、米国国内用バージョン。

(c)完全版
 海外配給用として編集されたバージョン。日本では、'80年代後半に『ブレードランナー 完全版』として、ビデオやLDでリリースされた。
 (b)との目立った違いは、プリスとの戦いでデッカードが鼻の穴に指を突っ込まれるシーン、バッティがタイレルの目を潰すシーン、バッティの手を釘が突き抜けるシーンが加えられていること。

(d)最終版(1992年)
 '90年頃、映画祭だか何かで『ブレードランナー』を上映するために、倉庫から発掘されたフィルムが貸し出されたのだが、このフィルムを実際に上映してみると(それまでだれも気が付いていなかったが)、(b)でも(c)でもなく(a)であった。見ていた人たちは「え? 何これ?」と目が点、普通なら「金返せ!」となるのだろうが、観客にとっては、単なる製作途上の粗編集版ではなく、ナレーションもハッピーエンディングもない“斬新な”バージョンだったのだ。
 その後何度か行われた(a)の限定公開が好評だったため、これをベースに改めて編集し直した“ディレクターズ・カット”の制作が決定。当初、この“ディレクターズ・カット”は、(c)の残酷描写を含み、また、デッカードがホールデンのお見舞いに行く場面(死んでなかったらしい)などが加えられる予定だったが、使える素材が見つからなかったり、制作上の行き違いがあったりして、結局は、(b)からナレーションとハッピーエンディングを削除して、((a)(b)(c)のどのバージョンにもない)ユニコーンの場面を加えただけにとどまってしまった。(編集自体はほとんどいじっていないため、ナレーションが削られた場面で不自然な間を感じてしまう部分がある、のはやっぱり私の思い込みだろうか?)
 とにもかくにもこれが公式の“ディレクターズ・カット”として世に出ることになる。日本での公開タイトルは、『―ディレクターズカット― ブレードランナー 最終版』だったが、このバージョンが本当の意味で最終版になってしまうのかどうか。
 ――だれが知ろう。

 さて、『最終版』公開時にはあちこちの雑誌などでも特集が組まれたりしていたが、ことごとく「ナレーションもハッピーエンドも余計だった」という論調で、長年ナレーション&ハッピーエンド版を熱烈に支持してきた私としては、複雑な気持ちであった。少なくともナレーション&ハッピーエンド版が評価・支持されなければ、『最終版』が作られることもなかったはずなわけだし。
 いや、言われてみれば確かに、このナレーションって「新聞に殺し屋の求人は出ていない」だの「別れた妻は俺のことを寿司と呼んでいた」(字幕では“冷たい人”)だの「レプリカントにウロコはない」だの結構間の抜けたことも言ってたりはするんだけどさ。
 でもなあ……。

I need old Blade Runner' magic.

 ということで、実はこの映画が嫌いなハリソン・フォードに10点、命を大切にしたロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)に20点、ピアノを弾くレイチェル(ショーン・ヤング)に5点、レイチェルの写真に5点、写真を解析したESPERが欲しかったので10点、実は自分がユニコーンの夢を見ていたリドリー・スコット監督(ディレクターズカット制作前に試写で(a)を見ていて「ユニコーンのシーンがあっただろ」と言い張った)に10点、「あれ見ろよ、だれか変なもの残してった」ので5点、お手持ちの烏口に5点、フクロウに10点、ナレーションとハッピーエンディングがないので10点、ナレーションとハッピーエンディングがないのは複雑な気分なので−8点。
 計82点。

(2004/12/18)


参考文献

ソニーマガジンズ刊
『メイキング・オブ・ブレードランナー』
ポール・M・サモン/品川四郎 監訳

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