Adams Memories

いろいろなとこで、唱わせていただくようになって、あちこちで、まだアダムスの思い出話を聞きます。これからも、皆の心の中で、生きつづけますように。




中央の文章は、マスターが亡くなって、まもなく書いたもです。マスターが亡くなった日については、少し記憶違いをしているようですが、当時のパニックぶりがうかがえるので、そのままにしておきます。

(2008.5.4)


シャンソニエ アダムス 心の師早瀬かず椰氏の死
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アダムスとの出会い
 ミュージカル『回転木馬』大阪公演千秋楽まじかの頃、シャンソン歌手でミュージカル女優の荒井洸子さんに「あいちゃん、次の仕事決まってないんでしょ、私がいいアルバイト先紹介してあげるわ、マスターもいい人とできっと気があうと思うわ。もしかしたら唱わしてくれるかもよ。」(96年だったと思う。) アダムスって?知らない人のために簡単に解説。シャンソニエと言われているシャンソンを中心に歌われるライブハウス。『銀巴里』、『渋谷ジャンジャン』が閉店したあと、アダムスに実力派のシャンソン・カンツォーネ歌手が集まったのです。またその店を経営していた早瀬氏は抜群のプロデュース能力を持っていて、ピアニストと歌手、歌手同士のカップリングには定評がありました。またこの不景気に、出演者に関係なく、彼の人柄と一定したパフォーマンスのレベルにお客さん付いている、昨今稀なシャンソニエでした。そこで藍澤はたくさんの歌手の歌を聴き、たくさんのピアニストの演奏を聴いてたくさんのものを得ました。
これからもミュージカルであれ、ライブであれ、活動の根底にはそこでの経験がいかされています。また、いかしていかなきゃ天国のマ...



最後のアダムス


はじめて行った日、雨が降っていて泉レイ子さんがうたってらっしゃいました。カウンターにはいってた細澤さんが巨峰をだしてくれました。はっきり覚えています。働いてすぐ自分の唱える店ではないとわかりました。すごいメンバーばかりでした。
それから僕が香港に留学するので店をやめました。四年半がたって帰国して、しばらく日本になじめなくてひきこもりになりそうだった頃マスターが電話をくれました。手伝ってほしいとのことでした。うれしかったです。”藍澤はおとなになった。”が口癖でした。うるせーと思いながらマスターに認めてもらったみたいでうれしかったです。出会って8年目ではじめてマスターの前で唱いました。”ちょい合格”といわれてすんごく嬉しかったけどそれをさとられないようにしてました。またレコード盤を五枚出していたマスターにいろいろ歌の事も相談するようになってたのに、もっと聞きたいことがあるのに、今はマスターだったらどうするかって考えるとすぐ声がきこえてきます。香港から帰国した僕にマスターがうれしそうに『第四月曜日のクミコはテレビでいまメージャーになって人が並ぶからスタッフをその日は2倍だから藍澤手伝って!』クミコさんは僕も好きな歌手のおひとりでした。香港にもCDを持っていきました。その日は文化祭みたいで整理券を配ったり、有名になると言う事を目の当たりにして考えました。マスターは見抜いていたのかも。


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*焼き肉*
 早瀬かず椰氏の亡くなる前日、牛角でならんで焼き肉をたべました。始めてでした、いつも夕食にいくとこはだいたいきまっているのに。仕事まえにビールで乾杯して”さあがんばりましょう!”が習慣でした。その日にかぎってレモンサワーをそのあと注文しました。最後にわかれて十一時間後に亡くなりました。それからお葬式、店のかたずけ、きりきりまいで悲しむひまもなかったです。今になって時々涙がでてきます。
*安藤さんの背中*
店(地下)のかたずけにいってたら、スタッフだった松田が後から来て、”今上で安藤さんがのぞいて暫くして行ってしまったよ、話しかけられなかった”安藤さんは60歳くらいの男のお客さまで,いつもマスターと話してニコニコ僕も大好きなお客さまのひとりでした。忍ぶ会や行事にはいらっしゃらなかったけど本当にマスターを忍んでるんだなと思いました。安藤さんの背中を思って松田も僕も涙をこらえるのに必死でした。歌手の大地緑さんがかたずけの最中さしいれをもってきてくれました。その時最後に牛角にいった話をすると、供養だと言って松田と僕を牛角に連れていってくれました。うれしかったです。