第一回『目の前に現存しないのに必ずそこに動いている巨大なもの。それは権力である』
多気澤正光が失踪した。インディーのしけたプロレスラーだ。最近は筋肉も落ちて、引退間近と言われていた。消え失せても、噂にもならなかった。世間とはそんなものだ。しかし私はそういうわけにはいかなかった。 彼は私の依頼人だからだ。
彼が事務所にやってきたのは、失踪の4日前だった。 その時、私はいつものようにドアを開け放ち、扇風機を回しながら、汗だらけになって、事務所の掃除をしていた(探偵の事務所は常に清潔で整頓されていなければならない。小汚い事務所でまともな推理ができるわけがない)。 「ごめんください。三宅探偵の事務所でしょうか?」 やけに丁寧なあいさつが聞こえたので振り向くと、多気澤正光がチェックのジャケットを窮屈そうに着て立っていた。私がソファを勧めると、「では失礼して」と断ってから、浅く座り、身を乗り出して用件を語り始めた。 依頼は簡単だった。ある男の背後関係を調べて欲しいと多気澤は言った。 「やくざ関係ですか?」 「あなたとの関係は?」 多気澤は流れる汗をハンカチで拭いながら頭を下げた。 「謝る必要はない。あなたは依頼人だ」 彼は懐から厚い封筒を取り出し、机の上に置いた。「これは着手金といいますか、何といいますか」 ちらりと見ると、20万ほど入っている。 「基本的に着手金は頂きません。経費ということなら3万ほどもらっておきます。後は成功報酬ということで」 彼はほっとしたように息を吐き出し、立ち上がった。私はさっきから気になっていたことを口に出した。 「あの、プロレスラーの方ですよね」 多気澤は照れたように笑い、背を向けた。大きな背中が妙に寂しそうだった。 「伸か」 多気澤の律儀そうな顔が頭に浮かんだ。 「その男、最近、何かに首を突っ込んでないか」 迂闊だった。私はあわてて新聞を手に取った。山陀裕仁(31歳)は死んでいた。そして、多気澤ともそれっきり連絡がとれなくなった。 長いやっかいな夏の始まりだった。
「いいか、伸、相手はキックボクサーだ。倒せ! 寝かせちまえばお前の勝ちだ。体重が全然違う。タックルだ! パンチをかわしてタックル!」 増成に言われるまでもない。寝技に持ち込めばこっちの勝ちだ。グラウンドなら私の筋力と、サンボで学んだ関節技が威力を発揮する。怖いのは、パンチではない。膝蹴りだ。まともにカウンターでもくらえば、脳震盪は免れない。距離を読んで、奴のタイミングをはずして突っ込む必要がある。ただし、時間をかければ、パンチで着実にダメージを受ける。これはある意味で時間との闘いだ。 地下プロレスといっても、普通のプロレスと変わらない。単に金が賭けられてるだけだ。しかしこの違いは実に恐ろしい。入場料や放送権料が一切なく、賭け金だけでリングが成立している以上、勝負にはあらゆる方向から凄まじい圧力がかかる。その果ては八百長か殺し合いだ。仮に八百長をするにしろ、相応の実力がないと、寝首をかかれることになる。そう。実力がなければ、八百長もできないのが地下プロレスの世界なのだ。 多気澤は多分かなりのランクまで上がったのだろう。そこである組織に接触された。奴らの最初の手先は、死んだ山陀裕仁だ。潔癖な多気澤は二の足を踏み、組織の実態を探ろうとした(そこで我が三宅探偵事務所が登場したわけだ)。しかし、三宅探偵が大活躍する前に多気澤に組織の手が回り、彼は姿を隠した。 よく分かる筋書きだが、これでは調査が前に進まない。既に依頼は済んでいる。このまま引っ込んだら事務所の信用問題だ。
困った時は相手の内懐に真っ直ぐ乗り込むしかない。私は増成のつてで地下プロレスに接触し、覆面レスラーとしてリングに上がることにした。リングネームは……言いたくない。
「おい、ミスター桃太郎。聞いてるか?」 勿論だ。勝ち続けなければ、奴らは接触してこない。弱いレスラーを脅してもすかしても一銭にもならないのだ。連中に迫るには勝つしかない。
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