競輪探偵の休日

第一回『目の前に現存しないのに必ずそこに動いている巨大なもの。それは権力である』

   

多気澤正光が失踪した。インディーのしけたプロレスラーだ。最近は筋肉も落ちて、引退間近と言われていた。消え失せても、噂にもならなかった。世間とはそんなものだ。しかし私はそういうわけにはいかなかった。

彼は私の依頼人だからだ。

タキザワ  

彼が事務所にやってきたのは、失踪の4日前だった。

その時、私はいつものようにドアを開け放ち、扇風機を回しながら、汗だらけになって、事務所の掃除をしていた(探偵の事務所は常に清潔で整頓されていなければならない。小汚い事務所でまともな推理ができるわけがない)。

「ごめんください。三宅探偵の事務所でしょうか?」

やけに丁寧なあいさつが聞こえたので振り向くと、多気澤正光がチェックのジャケットを窮屈そうに着て立っていた。私がソファを勧めると、「では失礼して」と断ってから、浅く座り、身を乗り出して用件を語り始めた。

依頼は簡単だった。ある男の背後関係を調べて欲しいと多気澤は言った。

「やくざ関係ですか?」
「いや、組関係者であることはもう分かってます」
「とすると?」
「わかりません。得体の知れない連中と付き合ってるようです」

「あなたとの関係は?」
「友人としか言えません。申し訳ありません」

多気澤は流れる汗をハンカチで拭いながら頭を下げた。

「謝る必要はない。あなたは依頼人だ」
「ありがとうございます」

彼は懐から厚い封筒を取り出し、机の上に置いた。「これは着手金といいますか、何といいますか」

ちらりと見ると、20万ほど入っている。

「基本的に着手金は頂きません。経費ということなら3万ほどもらっておきます。後は成功報酬ということで」
「すみません」

彼はほっとしたように息を吐き出し、立ち上がった。私はさっきから気になっていたことを口に出した。

「あの、プロレスラーの方ですよね」
「あ、はい」
「3年前のグランドチャンピオンシリーズ決勝、見てました」

多気澤は照れたように笑い、背を向けた。大きな背中が妙に寂しそうだった。

   
 
調査は簡単だった。簡単すぎた。増成のところに電話して、留守電に用件を吹き込んだら(安っぽいシンセの音や「こちらは二十一世紀の感性を創造するフリースタジオ創造空間tomioです」などというメッセージを延々と聞かされるという苦痛はあったが)、翌日に答えが返ってきた。

「伸か」
「ああ。調べてくれたか」
「調べるほどのことはない。大垣のちんぴらだ」
「しのぎは」
「地下プロレスだ」

多気澤の律儀そうな顔が頭に浮かんだ。

「その男、最近、何かに首を突っ込んでないか」
「もう突っ込んだ後さ」
「どういうことだ」
「昨日、宇野港に死体が上がった」

迂闊だった。私はあわてて新聞を手に取った。山陀裕仁(31歳)は死んでいた。そして、多気澤ともそれっきり連絡がとれなくなった。

長いやっかいな夏の始まりだった。

    

「いいか、伸、相手はキックボクサーだ。倒せ! 寝かせちまえばお前の勝ちだ。体重が全然違う。タックルだ! パンチをかわしてタックル!」

増成に言われるまでもない。寝技に持ち込めばこっちの勝ちだ。グラウンドなら私の筋力と、サンボで学んだ関節技が威力を発揮する。怖いのは、パンチではない。膝蹴りだ。まともにカウンターでもくらえば、脳震盪は免れない。距離を読んで、奴のタイミングをはずして突っ込む必要がある。ただし、時間をかければ、パンチで着実にダメージを受ける。これはある意味で時間との闘いだ。

地下プロレスといっても、普通のプロレスと変わらない。単に金が賭けられてるだけだ。しかしこの違いは実に恐ろしい。入場料や放送権料が一切なく、賭け金だけでリングが成立している以上、勝負にはあらゆる方向から凄まじい圧力がかかる。その果ては八百長か殺し合いだ。仮に八百長をするにしろ、相応の実力がないと、寝首をかかれることになる。そう。実力がなければ、八百長もできないのが地下プロレスの世界なのだ。

多気澤は多分かなりのランクまで上がったのだろう。そこである組織に接触された。奴らの最初の手先は、死んだ山陀裕仁だ。潔癖な多気澤は二の足を踏み、組織の実態を探ろうとした(そこで我が三宅探偵事務所が登場したわけだ)。しかし、三宅探偵が大活躍する前に多気澤に組織の手が回り、彼は姿を隠した。

よく分かる筋書きだが、これでは調査が前に進まない。既に依頼は済んでいる。このまま引っ込んだら事務所の信用問題だ。

  

困った時は相手の内懐に真っ直ぐ乗り込むしかない。私は増成のつてで地下プロレスに接触し、覆面レスラーとしてリングに上がることにした。リングネームは……言いたくない。

ミスター桃太郎

「おい、ミスター桃太郎。聞いてるか?」
「ああ」
「勝てよ」

勿論だ。勝ち続けなければ、奴らは接触してこない。弱いレスラーを脅してもすかしても一銭にもならないのだ。連中に迫るには勝つしかない。

  

競輪探偵の休日第二回

●胴体 ●目 ●耳 ●口 ●手 ●太腿 ●骨