さらば競輪探偵

第1回

『信じれば天国に行けるの? いや、信じるな。岩のように何も信じるな』

  

湯に肩まで浸かり、手足を伸ばす。泉質は弱酸性であり、少しピリピリする。川を挟んで向かい側には、切り立った黒い斜面に雪が舞っている。

この調子なら、明日には真っ白な雪景色が見られそうだ。時々高く鋭い鳴き声がするがカモシカなのだろうか。この季節餌が豊富にあるとは思えない。寒いひもじい思いをしているのではないか。

私も寒いひもじい思いをしている。しかし本当に寒い。寒すぎる。露天風呂は熱すぎるぐらいでないと困る。最初浸かった時ぬるく感じ、蛇口に近づいたが、出てくるお湯もぬるい。少し肩を出しても震えが来る。今出たら確実に風邪を引く。かといって、このままぬるいお湯に浸かっていると、着実に体温を奪われてゆく。吹き込んでくる雪もじわじわと湯温を下げているようで気になる。おまけに旅館までが遠い。どうしてこんな離れたところに露天風呂を作ったのか。景色がさほどいいわけではない。この距離ではパイプを通す間にも湯が冷えるではないか。

今はもう、蛇口から直接肩に湯が当たるようにしているが、それでもぬ るい。ぬるすぎる。私は意を決して立ち上がった。露天風呂を出てダッシュで旅館に向かう。一刻も早く本館の風呂に浸かるのだ。

階段を上りきったところに猪がいた。大人だ。大きい。目が合う。

「大丈夫大丈夫」と手を振るが、反応がない。じっとこちらを見て、すっと身を沈める。どう見ても戦闘態勢だ。こちらも手ぬ ぐいを握りしめ(他には武器にできるものはない)精一杯のファイティングポーズをとる。

「やめろ。ゴロー」

後ろから声がかかった。藪を分けて男が出てくる。かんじきを履き、毛皮のちゃんちゃんこを羽織っている。持っているのは時代がかった猟銃だ。

「驚かせて悪かったなあ。ここはもとはゴローの餌場やけ」
「いや。こっちは大丈夫」
「湯冷めするばい。これでも飲めや」

腰に付けた竹筒を差し出した。礼を言って口にする。実にうまいどぶろくだ。

「おいしいです。ありがとう。私は私立探偵の三宅といいます」
「おれは平尾台の吉岡ですたい」

  

 

またぎ

 

   

その時、旅館の方から大きな声がした。「三宅さん聞こえますか! 殺人です、殺人事件が起きました!」

石丸だ。のんびりするための旅行が、やつを連れてくると、結局こんなことになる。私はがたがた震えながら、階段を駆け上がった。

   
   

露天風呂への裏口からロビーまで、長い板張りの通路が続いている。途中に古いゲーム機ばかりのゲームコーナーがある。そこに男が倒れていた。胸には深々とナイフが突き立てられている。

まだ驚愕の表情を浮かべている顔面には、コンティニュー中のゲーム画面がチラチラ反映している。マッピーか。懐かしいゲームだ。

「被害者は山陀裕仁、31歳。さっき到着したばかりの客らしい」

  

ヤマダユージ


「第一発見者は?」
「こちらの仲居さん。三宅さんに緊急の電話があったらしい」

私が詳しい話を聞こうとした時、玄関の方から大きな声がした。

「こらお前ら、何しとる!」
二人の制服警官を連れた男が凄い剣幕で入ってきた。

「一般人は近づいちゃいかん。さあさあ下がった!」
現場周辺にいる奴を、まずチェックするのが基本だろうが。ここの警察は相当程度が低い。

「あんたこそ誰だ」
「警察に逆らうのか」
「あんたが警察だという証拠は?」
「お前、逮捕するぞ」

横から石丸が口をはさんだ。
「御苦労さん。現場保存には極力努めた。不自然な点が幾つかあるんで、急いで鑑識を呼んでくれ」
「何だ、その偉そうな……」
石丸が素早く警察手帳を見せた。

「死んでるのは本省の審議官だ。ぐずぐずしてるとあんたの首だけでは済まなくなる」

刑事の顔色が変わった。

「一応名前を聞いておこう」
「は、笠岡署の増成といいます。よろしくお願いします」
「急げ」
増成はあたふたと引き返して行った。

「えらく出世したもんだな」
「くだらん世界ですよ。それより緊急の電話というのは……」

妙な風切り音がした。爆発音。

玄関前辺りだ。窓から外を見る。川向こうの尾根に誰かいる。担いでいるのはロケットランチャーだ。こうなると間違いない。ひげのおじさんだ。

私はフロントにダッシュし、電話をとった。

「晴美か。すぐ反撃しろ。このままでは狙い打ちだ」
「既に巡航ミサイルを発射しました。5秒後に到達します」

もう一度川向こうに目をやると、おじさんがランチャーを構えなおしている。着弾補正も完了したところだろう。私は、無駄とはわかっているが──机の陰に身を隠した。

爆発音。

トマホークが命中したらしい。激しい雪崩の音がする。何度も旅館が揺さぶられる。電話は切れた。

雪煙が落ち着いたころ、石丸がゆっくりと近づいてきた。

「孤立しましたね。あの道は1週間は通れない」
「ヘリは?」
「この天候では無理でしょう」
「犯人探しにはもってこいだな」

石丸はニヤリと笑った。玄関から増成刑事が駆け込んできた。
「すみません。本署との連絡が途絶えました」
「役者が揃いましたね。三宅さん」


ああ、やってみよう。本格的謎解きを。

  

さらば競輪探偵 第2回

 

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