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湯に肩まで浸かり、手足を伸ばす。泉質は弱酸性であり、少しピリピリする。川を挟んで向かい側には、切り立った黒い斜面に雪が舞っている。
この調子なら、明日には真っ白な雪景色が見られそうだ。時々高く鋭い鳴き声がするがカモシカなのだろうか。この季節餌が豊富にあるとは思えない。寒いひもじい思いをしているのではないか。
私も寒いひもじい思いをしている。しかし本当に寒い。寒すぎる。露天風呂は熱すぎるぐらいでないと困る。最初浸かった時ぬるく感じ、蛇口に近づいたが、出てくるお湯もぬるい。少し肩を出しても震えが来る。今出たら確実に風邪を引く。かといって、このままぬるいお湯に浸かっていると、着実に体温を奪われてゆく。吹き込んでくる雪もじわじわと湯温を下げているようで気になる。おまけに旅館までが遠い。どうしてこんな離れたところに露天風呂を作ったのか。景色がさほどいいわけではない。この距離ではパイプを通す間にも湯が冷えるではないか。
今はもう、蛇口から直接肩に湯が当たるようにしているが、それでもぬ るい。ぬるすぎる。私は意を決して立ち上がった。露天風呂を出てダッシュで旅館に向かう。一刻も早く本館の風呂に浸かるのだ。
階段を上りきったところに猪がいた。大人だ。大きい。目が合う。
「大丈夫大丈夫」と手を振るが、反応がない。じっとこちらを見て、すっと身を沈める。どう見ても戦闘態勢だ。こちらも手ぬ ぐいを握りしめ(他には武器にできるものはない)精一杯のファイティングポーズをとる。 「やめろ。ゴロー」
後ろから声がかかった。藪を分けて男が出てくる。かんじきを履き、毛皮のちゃんちゃんこを羽織っている。持っているのは時代がかった猟銃だ。
「驚かせて悪かったなあ。ここはもとはゴローの餌場やけ」 「いや。こっちは大丈夫」 「湯冷めするばい。これでも飲めや」
腰に付けた竹筒を差し出した。礼を言って口にする。実にうまいどぶろくだ。
「おいしいです。ありがとう。私は私立探偵の三宅といいます」 「おれは平尾台の吉岡ですたい」
その時、旅館の方から大きな声がした。「三宅さん聞こえますか! 殺人です、殺人事件が起きました!」
石丸だ。のんびりするための旅行が、やつを連れてくると、結局こんなことになる。私はがたがた震えながら、階段を駆け上がった。
露天風呂への裏口からロビーまで、長い板張りの通路が続いている。途中に古いゲーム機ばかりのゲームコーナーがある。そこに男が倒れていた。胸には深々とナイフが突き立てられている。
まだ驚愕の表情を浮かべている顔面には、コンティニュー中のゲーム画面がチラチラ反映している。マッピーか。懐かしいゲームだ。
「被害者は山陀裕仁、31歳。さっき到着したばかりの客らしい」
「第一発見者は?」 「こちらの仲居さん。三宅さんに緊急の電話があったらしい」
私が詳しい話を聞こうとした時、玄関の方から大きな声がした。
「こらお前ら、何しとる!」
二人の制服警官を連れた男が凄い剣幕で入ってきた。
「一般人は近づいちゃいかん。さあさあ下がった!」
現場周辺にいる奴を、まずチェックするのが基本だろうが。ここの警察は相当程度が低い。
「あんたこそ誰だ」 「警察に逆らうのか」 「あんたが警察だという証拠は?」 「お前、逮捕するぞ」
横から石丸が口をはさんだ。
「御苦労さん。現場保存には極力努めた。不自然な点が幾つかあるんで、急いで鑑識を呼んでくれ」 「何だ、その偉そうな……」
石丸が素早く警察手帳を見せた。
「死んでるのは本省の審議官だ。ぐずぐずしてるとあんたの首だけでは済まなくなる」
刑事の顔色が変わった。
「一応名前を聞いておこう」 「は、笠岡署の増成といいます。よろしくお願いします」 「急げ」
増成はあたふたと引き返して行った。
「えらく出世したもんだな」 「くだらん世界ですよ。それより緊急の電話というのは……」
妙な風切り音がした。爆発音。
玄関前辺りだ。窓から外を見る。川向こうの尾根に誰かいる。担いでいるのはロケットランチャーだ。こうなると間違いない。ひげのおじさんだ。
私はフロントにダッシュし、電話をとった。
「晴美か。すぐ反撃しろ。このままでは狙い打ちだ」 「既に巡航ミサイルを発射しました。5秒後に到達します」
もう一度川向こうに目をやると、おじさんがランチャーを構えなおしている。着弾補正も完了したところだろう。私は、無駄とはわかっているが──机の陰に身を隠した。
爆発音。
トマホークが命中したらしい。激しい雪崩の音がする。何度も旅館が揺さぶられる。電話は切れた。
雪煙が落ち着いたころ、石丸がゆっくりと近づいてきた。
「孤立しましたね。あの道は1週間は通れない」 「ヘリは?」 「この天候では無理でしょう」 「犯人探しにはもってこいだな」
石丸はニヤリと笑った。玄関から増成刑事が駆け込んできた。
「すみません。本署との連絡が途絶えました」 「役者が揃いましたね。三宅さん」
ああ、やってみよう。本格的謎解きを。
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