すずきあつしの歩み
詳細編
1959年 千葉県生まれ
父、彫刻家、母,日本画家の一人息子としてうまれる。
もの心ついたころは、まだそれほど道が舗装されていなくて、家の周りがなんだか埃っぽい空気であった事を覚えている。まだ、敗戦国のごみごみした暗い感じだったのだろうと思う。そのころは三輪の自動車がかなり走っていた。
1964年 幼稚園入園
なんだか、あんまり楽しくなかった。年長になってお泊まり会の時に一人だけ寝付かれず、先生に「ドリトル先生航海記」を読んでもらったのをよく覚えている。
春、幼稚園の入り口脇の水たまりにガマガエルが産卵に来てかわず合戦をするのだが、とても感動した。要するに集団交尾であったのだ。その後卵からかえり、水たまりも園のプールもオタマジャクシで真っ黒で盛り上がっているように見えた。
この頃、テレビが我が家にやって来た。アトムより鉄人28号が好きだった。
1966年 小学校入学
小学校は割合楽しかった。
まだ、下水が整備されておらず、ちょっと雨が降ると道にまで溢れ、大きなアメリカザリガニが道の真ん中ではさみを振り上げて、自動車を威嚇していた。
雨が上がってもつぶれたザリガニが、このころすでに増えていた舗装道路のアスファルトの上にいつまでもこびりついていた。
1972年 中学校入学
スポーツの盛んな学校で、自分もはじめにバスケット部に入ったがすぐ挫折し、帰宅部になってしまった。
このころ、よくコンテでデッサンをした。自分の気持ちをストレートに絵で表現できたのは、このころだけだったと思う。高校生になっても、叙情的な油彩を沢山描いたが、今見ると、中学の頃よりも、面白くない。大学に入って本格的に勉強を始めたらばすぐに、自分のイメージや情緒といったものを表現する事から遠ざかるをえなくなった。
1975年 千葉県立東葛飾高校入学
なかなか楽しかったが今思い出すと、恥ずかしい。
1978年(19歳) 東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻入学
一年留年して五年間学生さんをやらしてもらった。
仕送りしてもらって、優雅な身分だったのだが、なんだかいつも差し迫った気持ちでいたのは、人並みに青春という事だったのだろうと思う。気障であるが、なんだか、苦しみの底のようなものをいつも身近に感じていた気がする。
このころの空気の匂いを四五歳になった今でも、はっきり覚えていて、何
かの拍子に鼻に感じると、そのころの事が良く思い出される。
一年の頃から、あまり授業に真剣に取り組まず、自分勝手な思いこみの作風で彫っていた。
すでに、45歳の今でもかわらない、エスキースを作らず行き当たりばったりで制作を進め、何十回も作り直して一つの作品に膨大な時間をかけるというやり方をし始めていた。
ただ、大学生の頃は、作品が出来上がったという感覚が分からず、結論が出ないまま、仕方なくまとめるという終わり方しかできなかった。
メキシコのオルメカ文明、北魏の石仏、ギリシアアルカイックなど、古代の中でも文明の初期に属する物が好きだった記憶がある。
(左)かお 桜材 ほぼ等身大(右)ブロックヘッド1 御影石 高さ91cm(下)ブロックヘッド2 御影石 高さ80cm
1983年(23歳) 東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業
卒業後すぐに秋川市の書道塾だった板の間の部屋をかりて作家活動をはじめた。
アパートを別にかりて、寝起きはそちらでした。拝島の平和荘という古い木造モルタルのアパートだったが、名前とはうらはらに、横田基地からの離発着のジェット機の爆音がもの凄かった。
しかし、慣れとは恐ろしいもので、夜その音で起きる事はなくなった。
たまに聞こえる犬の吠える声で目が覚める事があっても、、、、、
相変わらず、仕送りをしてもらい、あまりアルバイトもしなかったので、1週間も誰とも口をきかないという事もあった。
一人なので、古今の名作を随分よんだ。
秋川のアトリエで作った1983年作の自刻像があるが、この作品で自分にとって作品が出来上がるとはどういう感じであるかがつかめたのだと思う。一言で言うと、すごく苦しんだ制作過程が、あるポイントをつかむといきなり形になる感覚なのだが、、、、、
腹の底から、今の自分にはこれ以上でけん、と言うのがなぜか確信を持ってわかる感じでもある。
あるいは、ある広さのスペース全体に広がっていたいろいろの要素を半分ぐらいのスペースに押し込んで、あとの半分をあけてしまう感覚と思ったときもあった。また、自分の今まで非常に大切にしたものを差し出す代わりに、また違う大切なものをもらう、取引のような、、、いくら書いてもうまく伝わりそうにないが、言うと、恥ずかしいが、やはり神秘的な感覚なのだ。
1984年頃から、絵を描き始めた。彫刻は一年もかかるが、一週間、二週間で出来てしまうのがうれしかった。しかし、だんだん描き続けるうちに、一作ごとに時間が、倍かかるようになってきて、五~六作重ねると、何ヶ月もかかるようになってしまった。
(左)自画像 油彩、ベニヤ板 2,4×1,2m(右)きみこ 油彩、キャンバス 1,62×1,302m
1985年(26歳) 個展 真木画廊(東京、神田にあったが今はない)
秋川のアトリエでつくった彫刻と絵画で開催した。
1985年
個展終了後、茨城の実家に引っ越した。有名彫刻家である父の売るための小品の下彫りを始めた。
実家に戻った事については、悪口、軽蔑の言葉がいろいろ耳に入り苦しかった。
夕方、石膏原型から楠材への星取仕事を終えると、毎晩油彩の大作に取り組んだ。
仕事が終わると、一人で相当呑んだ。
しかし、今思うと、半年に1点ぐらいづつなんとか大作が出来ていたのだから、自分にしては実り多い時期だったと思う。
1986年(27歳) 「EXE86」 代々木ゼミナールギャラリー
はじめての、グループ展で楽しかった。メンバーに吉村栄夫氏、内平俊吾氏、牛腸達夫氏がいた。
(左)海辺の犬 油彩、キャンバス 2,59×1,94m(右)バカ息子 油彩、ベニヤ板
みどりの人 木、彩色 等身大
1986年 「絵を描く彫刻家と彫刻する画家」(日下正彦氏と2人展) orb
日下氏は絵画専攻で造形大学を卒業した人だが、すごいと思った。紙や紙粘土木の枝などの軽い素
材を使ってカラフルな、大きな人間やら、牛やら、巨大な人面やらを作る。
自分は、油絵をキャンバスに描いたり、石や木のような人類が太古から使い続けた素材を彫るという、古くさい方法をとっている事と関係があると思うのだが、自分の作品を膨大な時間をかけてなん十回、なん百回とやり直してはじめて、自分に嘘をつかない正直な形がやっと見えて来るという制作ぶりだが、彼はいとも軽々と。生き生きとした独特のリアリティーのあるイメージをどんどんと紡ぎ出す。
何ともかなわないな、とつくづく思った。
1987年(28歳) 「歩み会、彫刻展」 千葉県立美術館
後にも先にも招待出品などこのときだけだ。
1987年 「EXE87」 代々木ゼミナールギャラリー
絵だけの展示になった。
きんじの魂 油彩、キャンバス 2,59×1,94m
1989年(30歳) 個展 ギャラリーQ+1
1985年に実家に戻って制作した、グループ展のための作品など油彩5点、紙で作った父の大きな肖像「鈴木家」を出した。画廊を2部屋かりた。
鈴木家 紙、木工用接着剤 高さ2、5m 亞欧堂田善 油彩、変形キャンバス 大体150号くらい
1990年(31歳) 「原風景V」 東京都美術館
「8 1/2」という題名の巨大な絵を出品した。
81/2 アクリル、紙、木工用接着剤 2,2m×5,6m
1992年(33歳) 個展 ギャラリーQ
楠材の小さな木塊を寄せて3m80cmもある立像を作ったが、でかいだけで内容のない恥ずかしい出来であった。
1993年(34歳) 個展 ギャラリーQ
前年の個展の失敗作を作り直した作品を出品した。
月を視る男 楠剤、寄せ木 高さ2m47cm
この「月を視る男」と、1989年の「鈴木家」、1990年の「8 1/2」次の個展に出品した「まきこちゃんの像」の4点が、木彫彩色小品をのぞけば、30代で出来上がった作品のほとんどすべてだ。超大作であるが、実りの乏しい時代だった。
1994年(35歳) 個展 ギャラリーK
こりもせず、巨大な駄作を出品してしまった。
この作品をその後2年近くいじったが結局出来上がらずに、今も残骸のまま残っている。ただ、この作品から、「新しい仏像」という作品が生まれた。
新しい仏像 木 高さ40cm
この個展の準備中から、少し体力が衰え始めた気がした。これまでは、1日実働で軽く10時間は超えて働き、しかも三合以上毎日呑み続けても全く平気だったが、この個展以後、なんだか疲れるようになり、皮膚がどうもかゆくて仕方がなくなった。蚊に食われたように皮膚が盛り上がるのだが、蚊がいると思いこんで、蚊取り線香を毎晩たいた。
父の下彫りが嫌でたまらず、さぼり気味で、父もあきれて、好きにさせるようになってしまった。
他のお弟子に申し訳ない態度だった。
1996年(37歳) 結婚した。
今までの人生でうまく行った事などほとんど思いつかないが、結婚相手だけは、大成功であったと思う。
ここで結婚せず、実家にとどまっていたら、酷い事になっていたと思う。
ある地方都市の、線路に囲まれた飛び地の小さな二階屋を家賃7万で借りた。
この年から、ひょんな事から知り合ったある友人からの御紹介で、ソニー学園湘北短大幼児教育科に非常勤講師の職を得た。
週2回の学校の他は、借家の台所で、売るための東洋の偉人の木彫彩色小品を作っていた。1992年からぽつぽつ父の下彫りと平行して始めていたが、1996年作の片履達磨ではじめて自分なりの時代物木彫彩色小品が出来た気がした。今思うと、1989年の「鈴木家」の時にやったことを応用したのだと思える。ある画商に委託したのだが、すぐ売れてしまった。
1997年の終わり頃からだと思うのだが、チーク材でまた大作を再開した。もちろん台所でだ。
片履達磨 木彫彩色 1996年
1998年(39歳) 母が死んだ。肝機能障害で入院した。長女が生まれた。
いわゆる「家庭の事情」で、鬱病になってしまったのは1977年頃からだったが、以来ほとんどの時期に抗鬱剤を手放せなくなり、時々は入院した。1996年頃から、また、たびたび入院し、病棟の生活がよほど苦痛だったらしく惚けのような症状が出始めた。
自分もあまりの症状のひどさに、嫌がる母に入院を勧めたのだが、息子の裏切りと思ったに違いない。
最後は、台所の隅で、一人で倒れてこときれていた。心臓発作だったのだが、ちょっと前に抗鬱剤の副作用でなる悪性症候群というので緊急入院していたから、やはり薬の長年にわたる服用と関係があったのではないだろうか。
その後、いくら酒を呑んでも酔っぱらわなくなって、いくらでも呑んだのが応えて、動けなくなってしまいとうとう入院する羽目になった。いくら検査してもウィルスがでず、アルコール性ということになった。
10年以上にわたって深酒をし続け、以前からかゆみも出ていたから、そうなのだろうと思う。
退院後、すぐに長女が生まれた。
久しぶりの大作「まきこちゃんの像」が出来た。
96年頃から見いだし始めた自分なりの木彫彩色小品のやり口を大作に応用してできあがった。
まきこちゃんの像(部分) チーク材 高さ1,95m 1998年
1999年(40歳) ラジカセのアイワデ、ザインセンター顧問になった。
ひょんな事から知りあい、実にお世話になったY家のご紹介でこの職を得た。
部長は皆自分より年上だし、プロダクトデザインの事などちっとも考えた事がなかったので何も分からず、会議はつらかった。
広大なコンピューターばかりのデザインセンターの片隅に3畳ほどの工作室があり、そこにこもってデザイナーがMacで描くレンダリングから発砲ウレタンでよくラフモックを作った。それを通じて多少かもしれないがデザイナーと心の交流が作れたのが、良い思い出だ。
2年間で解雇になった。
かなりの高給をもらい、その後何年もこのときの貯金で食べられた。
2000年(41歳) 個展 ギャラリーK
「まきこちゃんの像」「よしこちゃんの像」など、チーク材の女子高校生の像中心の展覧会になった。
よしこちゃんの像 チーク材 等身大
2002年(43歳) 父、実が自殺。次女が生まれる。
次女が生まれてしばらくしたらば、父がアトリエで首をつってしまった。
自分のコンプレックスや、いろいろな事で、あまり頻繁にあえる間柄ではなくなってしまっていたが、死なれてみるともの凄く応えた。
意外だったのは、話もしなくて、憎んでいるつもりが、すごく心細くなってしまったことだ。やはり、自分では気付かなくとも、何か精神的に頼っていたらしいのだ。
借金の整理、売れもしない作品にかかる相続税,作品の寄付などもの凄く大変だった。
せっかく生まれた次女をかまう余裕がなくて、すっかり母親ッ子になってしまった。
父の関係者に頻繁に会わざるをえず、また没後まもなく生前から予定されていた回顧展を見て、また身の回りの人も見たとなると、父がいかに偉かったか、少なくとも自分よりははるかに大したものだったという事を、これでもか、これでもか、と思い知らされる事になった。生きている時よりもはるかに父の存在を意識せざるをえない状況になってしまった。
没後、日をおかず制作を再開したが、父に負けない作品をと意識するあまり堅くなって、動きが取れなくなったが、10年も前から手をつけていた、背の高い裸婦像の顔に人がしがみついているところを彫ったところ、急に顔の表情が強くなり、全体がつながって見えだした。
これで、方向がはっきり見えて、1年後に「無垢の人」として完成した。
2004年(44歳) 湘北短大をくびになった。
8年間つとめた短大をくびになった。
相当真面目にやっていたので、ショックであった。女子大生にはあんまりもてなかったけれども、、
最後に学校に行った時に、2年生が涙とともに、花束、寄せ書き、歌のプレゼントをしてくれたのは、胸が壊れそうにうれしかった。
2004年(44歳) 個展 ガレリア青猫
出品した新作「無垢の人」は、いつも通りの出来上がり方をしたと思うのだが、極端な悪ふざけをしないとリラックス出来ないという状況だったと思う。今までで一番過剰な作品となった。
「無垢の人」 米松、寄せ木 高さ2m20cm
私にしては、おおむね好評であったが、何人かの人に親父に似てきたと言われてウンザリもした。言う方は、大した意味で言っているのではなく、むしろ、好意的に言っている人が多いとは思うのだが、、、、
しかし、あの作品は欠点はあるが、もうどうしようもないと思う。無責任な言い方かもしれないが、教育は一生懸命やらなくてはいけないが、それでも子供が親の思ったように育たないのと一緒で、勝手に育ったようなものなのだ。私に言わせれば人間ではないモノである彫刻が生きているように育つ感じに持ってくるのが難しいのだ。そして、面白いのだ。
父に似ているという批判があったとしても、あの時に、生き生きとした作品をつくるためには、そして作品を殺さないようにするには、他にどうしようもなかったと言える自信だけは、あるのである。
1990年の「8 1/2」、1995年作の「新しい仏像」なども出品した。
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