|
■2002/04/10 宗教教育■
先日、テレビのニュース番組を見ていたら、哲学者の梅○猛と筑紫○也が対談していた。テーマは、911テロ後の世界を救うための宗教教育とでもいうものだった。
彼等が言うには、911テロと中東問題は、いずれも宗教戦争なのだそうだ。そして、当事者の人々が信仰しているのがキリスト教、イスラム教そしてユダヤ教といった一神教であることが原因だと言う。なぜなら、一神教では自分たちの神が絶対で他の神を認めないからだと言う。こうした状況を打開するには、多くの神を信仰する多神教こそがふさわしい。よって日本でも宗教教育として仏教教育を行うべきだ。現に、梅○猛が小学校で仏教教育を行った様子が本になっている。
内容は、ざっと以上のようなものだった。
一神教と多神教を日本人が比較したときにワンパターンのように持ち出されるのが、「一神教→自分たちの神しか認めない→排他的」、「多神教→やおよろずの神々を信じる→友好的」という図式だ。
しかし、それぞれの宗教の教義をみてみれば、一神教のキリスト教でも他人を殺すことなど認めてはいない。それどころか、たとえ見ず知らずでも隣人を愛せと言う。右のほおを打たれたら左のほおを差し出せとも言う。仏教以上に平和を愛する宗教ではないだろうか。イスラム教の聖戦にしても、自分が攻撃されたときに致し方なく行うものだ。決して戦争を奨励などしていない。キリスト教は、地域や民族の枠を超えて広まったが、それは、指導者達が、民族の様々な風習を認めたからに他ならない。一神教だからといって一概に排他的とは言えないのである。
それに、多神教といっても、信じられている神々はあくまでもその宗教内の神々である。仏教にキリスト教の神やイスラム教の神が登場したりはしない。だから仏教が多神教だから他の価値観に寛容だと単純には言えないのだ。
また、彼等の対談で、一神教は気候の厳しい砂漠地帯で生まれ、多神教は豊かな森林地帯で生まれた。これらの条件がそれぞれの宗教の性格に影響していると言われていた。確かに生まれた場所はそうかもしれないが、キリスト教もイスラム教もアジアの森林地帯に広まっている。多神教であるギリシアやローマの神々は、森林地帯から生まれたわけではない。アジアのキリスト教徒やイスラム教徒が特に好戦的とは思えない。それに砂漠の民が掟に厳しく排他的、好戦的というこの議論は、砂漠の民への偏見、侮辱ではないだろうか。彼等は見ず知らずの旅人がやってきても丁寧にもてなすと言う。日本人などよりよほど親切かもしれない。
歴史をひも解けば、キリスト教とイスラム教は、宗教の名のもとに戦争をしてきたと言われるかもしれない。しかし、戦争をした原因は、他宗教の排除だけではない。民族間や国家間の領土争いだったり、経済的な覇権争いだったりするのだ。宗教は大義名分に使われたのだ。日本にも、かつては、仏教の名のもとに武装した仏教集団の例がある。
キリスト教徒は好戦的で仏教徒は友好的だと言われることもある。確かにヨーロッパの歴史を見ると戦争を繰り返している。しかし、我が日本の歴史も、仏教伝来以後も争いには事欠かない。しかもヨーロッパでは民族間の戦争が多いが、日本では、同じ民族どころか地縁血縁者同士の血で血を洗う争いを繰り返してきた。近年の歴史をみても、日本人は、仏教徒だから平和的だなどと言ったら、朝鮮半島始めアジアの人々に石を投げられるのではないだろうか。50年前の戦争の沖縄戦では、多数の沖縄の人々が戦死したが、連合軍じゃなくて味方のはずの日本軍に殺された人々が多くいると言う。これが平和を愛する仏教徒のすることだろうか。
仏教徒と言ってしまったが、現在の日本人の多くは、実際には、仏教徒というより無信教だろう。それも神の存在や宗教自体を否定する確信的な、積極的無信教ではなく、神頼みしたいときや葬式のときだけ神様や仏様のことを思い出す御都合主義な消極的無信教だ。しかも、神様も仏様も両方拝むと来ている。それも法事以外は、現世的ご利益を求めてのことだ。えせ宗教でもない限り、まともな宗教に現世的ご利益を約束するようなものはない。100円の賽銭を上げたら100円分のご利益があるというなら、神様はその時点で、人間の僕となってしまう。神様は、ご利益の自動販売機ではない。こうした様は、宗教的には、救いがたい不まじめさと言えるかもしれない。多くの日本人は、宗教のまじめな信徒の人々に宗教問題で意見できるような立場にないのだ。
話を梅○猛と筑紫○也の対談に戻すと、911テロを宗教戦争だと言ってしまうと、同時多発テロの首謀者の思うつぼになるのではないだろうか。あの事件はそんな表層的な図式で理解されるものではない。中東戦争にしても然り。ただのユダヤ教対イスラム教の争いなどではない。領土問題だし、民族間の問題だし、欧米から見れば、イスラム諸国の団結を阻む装置として働いていたりするのである。
両方の問題を宗教問題に帰すのは余りにも表面的な理解と言えよう。そして、彼等が言うように義務教育で宗教教育を行うとしたら危険ですらある。戦前戦中の「現人神」、「天皇万歳」、「一億玉砕」への反省はどこへ行ったのだろう。義務教育を行う国家は、宗教と結びついてはいかんのだ。この反省のもとに、日本では憲法で政教分離がうたわれているのだ。この大原則を愚かな早とちりでないがしろにしてはいけない。また、片一方で信教の自由があるのに義務教育で仏教だけ教えるわけにもいくまい。その仏教にしてからが、多数の宗派に別れているのだ。どの宗派の教義にそって宗教教育をしようと言うのだ。
日本ではかなりの識者でも宗教に関して無知だったり無神経だったりする。今回の哲学者とニュースキャスターの対談も、あまりにもお粗末だった。
■2002/04/14 待っている女■
この間から、頭の中で同じ曲がしじゅう、脈絡なく鳴り響いて困っている。それは、五木ひろしの「待っている女」だ。この曲が性懲りもなく繰り返し頭の中で鳴り響くのだ。
そもそもわしは、演歌というやつが嫌いだ。それは、故淡谷のり子先生と理由は同じ。貧乏臭いからだ。わしは貧乏だが、貧乏臭いのは嫌いなのだ。
それはともかく、「待っている女」が頭の中で鳴るようになったのは、この間、テレビで五木ひろしのものまねを見てからだ。これまで、演歌のことなどどうでもいいと思っていたので、「待っている女」など気にもとめたことがなかった。しかし、先日、ものまねを見て、改めてこの曲の凄さに気が付いたのだ。
演歌は、歌い手がこぶしを利かせて歌い上げ、自己陶酔し、観客もそれに合わせてカタルシスに浸るというのが基本的なパターンだ。だから、もともと演歌のことを客観的に見たりしてはいけないのだ。ところが、ものまねは、その禁をやぶってしまう。ものまねは、本人のパフォーマンスを客観的に、分析的にあばいてしまうのだ。だから、ものまねがたとえ本人以上にうまかったとしても、誰も陶酔しない。感心し、笑うだけだ。これが、本人とものまねの決定的な違いだ。この間わしが見た五木ひろしのものまねは、うまかった。なにせ、五木ひろしオンリーのものまねのプロなのだ。そして、それを見たわしは、改めて「待っている女」のパフォーマンスの構造を知ることになったのだ。
「待っている女」は、出だしから凄い。なにせ、いきなりの「へ、へい、へい」である。女性コーラスで何の前触れもなく「へ、へい、へい」と問い掛けられる。こっちは、どうしたらいいか困る。どういう意味の「へ、へい、へい」なのだろうか。とまどってしまう。しかし、この出だしは、実は、意味などないのだ。実に、シュールだ。
そして、聞き手が戸惑っている間に、五木ひろしは、「消え残る街あかり 女は待ってる〜」と歌い始める。そして、曲は徐々に盛り上がり、「ああ〜 恋は終わりかあ〜」ときて、「これっきりでぇ」とサビの部分に到達する。
どうやらこの曲は、来るアテのない男を待っている女のことを歌っているらしい。それにしても、サビの部分は、この女にしてみると、中々にきつい。来るアテのない男を待っている女は、さぞかし心細いだろう。それに対して、「恋は終わりか」とか「これっきりで」とか女の心にグサッとくる言葉を投げ付けるのだ。しかも公衆の面前で。これでは、女の立場がない。このような非道な振る舞いをしながら、五木ひろしは、満面の笑みで自己陶酔して見せるのだ。なにせ、人の不幸を満面の笑みで歌い上げるのだから凄い。しかも観客を彼の陶酔の世界にいざなうのだ。お約束とは言え、この倒錯の世界に、わしは思わずたじろいでしまった。なかなかに演歌も奥が深いのだ。
ちなみに、近頃では、演歌の人気が下降し、聴きたくなくても聞こえてくるという不愉快な思いをすることが少なくなって、助かったと思っていたら(最近、氷川き○しとかいう安っぽい演歌歌手のバカ面を強制的にCMで見せられて辟易しているが)、かわって、J-Popなる無個性で音の消費としか思えない中身の薄い音楽が聞こえてくるようになってうんざりしている。このJ-Popだが、演歌と異なり、ものまねされることがほとんどない。それだけ彼等のパフォーマンスが本人が思い込んでいるほど個性がないか、人々に訴えるものがないか、あるいは、人気がごく一部に片寄ってタコツボ化しているということなのではないだろうか。結局、歴史に残るのは演歌の方だったりして。
■2002/04/20 テレビ番組■
▼スペシャル
各テレビ局の番組を入れ替える編成期がようやく終わって、新番組がゾロゾロと登場しているようだ。年に何回かあるこの番組編成期になると、かみさんは、「見るものがない。」と言って嘆いている。こぞうも、普段のレギュラー番組の方がいいとぶつぶつ言っている。
この時期のゴールデンタイムの番組は、スペシャル番組の大盤振る舞いとなる。これが総じて面白くない、というかくだらないのだ。普段なら1時間で済むところを2時間に薄めて引き延ばしたようなだらけた番組、お笑い芸人やどこにtalentがあるのか分らない能無しタレントを適当に組み合わせた安直なばか騒ぎなど、この時期の番組は、悲惨だ。手抜きのやっつけ仕事である。あまりの中身のなさに寒くなってくる。一体制作者にやる気があるのだろうか。彼等の脳みそは留守なのではないだろうか。「もし、も〜し、留守ですか〜」
こうした番組にわしらが払ったゼニが回り回って、何百万だの何千万だの使われているかと思うと、金の使い道を間違ってるなあと思う。
▼お追従
話変わって、先日、朝○新聞の番組批評欄を見ていたら、新しいドラマが紹介されていた。魚の名前の芸人とキ○タクとかいう朝鮮人みたいな名称で呼ばれるタレントが主人公らしい。記事の中に、「豪華キャスト」とあったので、脇役の名前まで確認したが、どこにも「豪華」なキャストは、見当たらなかった。まさか主人公らしき二人のことではないだろう。彼等は、俳優の素人だ。
主人公の二人ともバラエティー番組やCMなどで嫌と言うほど日常的に自分を露出している。そんな芸人やタレントが仮にいくら演技が巧かったとしても、わしなどは彼等に感情移入することができない。昔、この魚の名前の芸人が出たドラマで大いにヒットしたものがあったが、わしには、彼が劇中の人物とはどうしても思えなかった。彼本人としか思えないのである。だから、彼が熱演するほどしらけていった。ドラマというより隠し芸大会である。俳優をまじめにやろうという人は、普段から自分のイメージには気をつけた方がいい。
余談だが、しばらく前に、このキ○タクとかいう青年が主人公をつとめる時代劇を、見たくもないのに偶然見てしまったことがある。その時印象的だったのが、彼の絵的な違和感だった。周囲が作っている時代劇の雰囲気の中で、肝心の主人公である彼が浮いているのだ。これは、ひとつは、普段から彼をCMなどで頻繁に見させられているため、劇中の人物とは思えないことが原因だった。それと、彼がヅラが似合わないということがもう一つの原因だった。それは、観察するに、顔が貧相だからだ。ヅラのきまる役者といって思い浮かぶのが、古くは市川歌右衛門、そして高橋英樹、役所広司など、いずれも顔だちの立派な役者達だ。人には、似合うことと似合わんことがあるのだ。人気があるからといって何にでも使いまわせばいいというものではない。本人もすっかり自分はかっこいいと思いこんでいるようだ。いらん誤解を与えるのは罪作りだ。
(人の見方はそれぞれだが、かみさんに言わせれば、「短足で、がに股で・・・(これ以上は、書けない)、何より自分がかっこいいと思っているのが見え見えで、チャンチャラおかしい。へそが茶を沸かすわ。」とボロクソなのだ。かみさんは、自分がバカであることを自覚しないバカが最も嫌いなのであった。)
などとひとりぶつぶつ言っていると、前述のとは別の日の朝○新聞の番組批評欄に別の新しいドラマが紹介されていた。記事の冒頭によれば、このドラマは、「美人だったら違う人生を送れたかもしれないのに・・・と・・・全身整形を施し、美しく生まれ変わった(主人公の)切ない女心をデフォルメして描いた究極のラブストーリー」なのだそうだ。いきなり「究極の」ラブストーリーと言われても、何が究極なのか分らない。記事の終わりまで見渡しても、このドラマのどこがどう「究極」なのか説明がなく、結局全然分らなかった。また、記事には、「人は美人に生まれてくるんじゃないの、美人になるの!」、「恋愛はしたもん勝ちなのよ!」というパンチのある主人公の語録も「痛快」と書いてあったが、こうした言葉を吐く女のどこに「切ない女心」があるのか理解に苦しんだ。これらの言葉は、わしには居直りとしか思えない。また、己の欲望のために全身整形をするという主人公の行動には、嫌悪感を抱く。ちなみに、一応女の部類であるうちのかみさんも、おぞましいと言っていた。
このドラマは、どうにも、整形をおもちゃにした番組がうけた(かどうかは分らんが)のに便乗した安直な企画としか思えない。美しく生まれ変わった主人公役がドンガラの米○涼子というのも疲れる。美しいかどうか別としても、こんな素人の演技に何も期待できないではないか。また、記事には、「加藤○彦ら」が「脇を固める布陣も見せる」と書いてあったが、この未熟児みたいな青年によってどう脇が固められたのだろう。
テレビ局がどんな番組を作ったにせよ、新聞の番組欄の記事中で最大の面積を使って批評をするのなら、もうちょっとましなことを書いて欲しい。これでは、この前のドラマに関する記事といい、テレビ局の宣伝コピーの丸写しではないかと疑いたくなる。それと、まるでテレビ局へのお追従だ。番組に対するいらんイメージのでっちあげとも受け取れるが、そうだとすると罪は軽くはない。
▼お笑い芸人
最近、お笑い芸人をメインにすえた番組が多く見られる。メインキャストたるお笑い芸人の起用がはまって、アタリだなと思う番組もあるが、彼らの存在がうっとうしくてハズレだと思う番組も多い。彼らお笑い芸人の特徴としてありがちなのが、「自分が、自分が」の意識である。自分がウケてなんぼになってしまうのだ。だから、ウケ狙い自体を楽しめばいい番組だったらアタリになるかもしれないが、芸人の出しゃばりと脈絡のないウケ狙いが番組の本来の目的を壊してしまい、ハズレになることも多いのだ。
たとえば、この間始まったサッカー番組で、「矢○っち」とかいうジジむさいお笑い芸人の名前を冠したものがある。番組名からしてサッカー番組だと思って見てみたら、画面で大写しになり、絵的に中心になっているが「矢○っち」なのだ。番組の中身としても、「矢○っち」が見て、しゃべくることが中心なのだ。ここでは、サッカーは、ただの話のネタであり、添え物に過ぎないのだった。鹿島アントラーズの柳沢に「矢○っち」がインタビューしている場面があったが、この場面ですら、中心は柳沢ではなく「矢○っち」だった。柳沢は、「矢○っち」の茶飲み話に付き合わされたのだ。短い時間中に、アシスタント役のアナウンサーに「矢○っち」がしょうもないツッコミをデレデレと入れる場面を放送したりしていた。この番組は、「矢○っち」の「矢○っち」による「矢○っち」ファンのための番組なのであった。
スポーツ番組の話になったのでついでだが、民放のスポーツ番組を見ていると、あまりのことに脱力してしまうことがある。それは、いらんタレントの起用だ。そのスポーツに関係があったり、なかったり、どっちでもいいが、お調子者のタレントを呼んで空騒ぎをさせるといういつもの演出だ。番組観覧上、邪魔だ。このようなくるくるぱーな企画で視聴者をナメルのもたいがいにしてもらいたい。見てる方は、堪え難く寒い。
(関係ないけど、素っ裸の女が出てきて茶を飲んでみせるというどっかの専売企業のハレンチなCM、なんとかならないだろうか。CMだけに、嫌でも強制的に見させられるではないか。しかも、時間かまわず、見境なく垂れ流している。大人向けビデオの検閲などにエネルギーを使わないでいいから、こういうものを排除してもらいたい。)
■2002/04/29 罪■
ツジモトキヨミという人が国会議員を辞めた。辞めた後も国会に参考人招致とやらで呼ばれていた。すっかりしょげ返っていたせいか、質問に立った議員の突っ込みも厳しくなかった。無理もない。この人が辞めた後に、国会議員の疑惑の投げ売りである。果たして、潔白な国会議員などいるのかという状態だ。しかし、この人の疑惑が浮上したときは、マスコミは、アホの坂田疑惑並みの大騒ぎだった。そして、マスコミは、こぞって正義の味方となっていた。寄ってたかって、「疑惑に応えるのが議員としての、いや、人間としてのつとめだ」などと、かさにかかって追及していた。
この人は、国から支払われた政策秘書の給与をネコババしたとマスコミに言われた。一見税金泥棒のようである。しかし、よく聞いてみると、この人のように、結果的に、政策秘書の給与としてもらったゼニを複数の秘書の給与に分けているのは、多くの国会議員にみられるというのだ。要するに、それを届け出ていなかったのが違法だということのようだ。届け出てさえいれば違法ではなかったというのだ。わしは、正直、拍子抜けした。
相前後して出た他の国会議員たちの疑惑をみると、アホの坂田とカトーは、直ちに違法だというまでには至っていないものの、二人の疑惑は、国政をゆがめた、あるいは不透明なカネの流れなどの疑惑だ。アホの坂田に至っては、外交をゆがめていた疑いまである。加えて、すべてを即座には思い出せないほど数多くの疑惑が浮上している。タナカは、やはり秘書給与のネコババ疑惑だ。しかし、ツジモトより規模が大きく、期間も長い。しかも、ネコババしたと言われる給与の大部分の行き先が不明ときている。タナカは、開き直って、同じ党のクリ頭の下半身スキャンダルを攻撃するなどという恥知らずな振る舞いにおよんでいる。しかし、両方とも事実なら、タナカは犯罪だが、クリ頭の問題は、プライベートな問題だ。あくまで、道徳的な問題だ。
国会議員の不正疑惑が次々と明らかになるに従って、世間では、ツジモトがマスコミとそれに便乗した人々の攻撃によって、なかば強制的に辞めさせられたのはいったい何だったのかという話が出ている。そういうときに出る反論が、「違法は違法、小悪といえどもペナルティーを受けるのは当たり前」という話だ。これを出されると、一同黙ってしまう。
この反論は、一見もっともらしく聞こえる。「違法は違法」と言うので、刑法の考え方を振り返ると、犯罪が成立するには、構成要件該当性、違法性そして有責性の3要件が必要とされている。構成要件該当性は、法令の条文に規定する行為類型(たとえば、人を殺す、とか)に当てはまることだが、これだけでは犯罪を構成しないのだ。これに加えて、違法性と有責性が必要だ。即ち、違法性の軽微な行為は、たとえ構成要件に合致しても犯罪に問われないことがあるのだ。具体的にツジモトのケースがこれに当てはまるかどうかは分らない。しかし、法律を1ミリでも犯せば直ちに犯罪だという大騒ぎは、短絡的だったのではないだろうか。
わしは、先日テレビでやっていた警察をめぐる放談会を思い出した。番組では、出演者から、交通取り締まりに対する苦情が次々と出ていた。たとえば、ある出演者は、「高速道路で、見渡すかぎりほかに車が走っていない状況下で、追い越し車線を走行していたら、警察に捕まり、違反切符を切られた。何の危険性もないし、迷惑もかけていないのに、なぜいきなり違反切符を切られるのか。」と怒っていた。これに対して警察官あがりのコメンテーターは、「違法は違法だ。」としたり顔で言っていた。しかし、このケースで、反則金を支払わず、裁判になったとしたら、必ずしも反則金の支払いを命じられるとは限らない。違法性の程度が問題となるだろう。
いずれ、法令の条文に形式的に当てはまるから直ちに犯罪だとは言えないのだ。
仮に、犯罪に該当するような疑惑であったとしても、個々のケースによってその違法性には大きな違いがある。また、法的には大きな罪でなくても、たとえば、国政をゆがめるというのは、悪質性において責任が大きいと思う。それなのに、ミソクソ一緒にして、話題性でもって、片一方は大騒ぎ、片一方は小騒ぎというのは、まともなマスコミのやることではない。
ところで、正義の味方のマスコミは、人のあやまちに厳しい。しかし、彼らのうちのペーパードライバー以外のドライバーで、一度もスピード違反その他の交通法規違反をしたことの無い人がいるだろうか。彼らは、自転車に乗っていて一度たりとも道交法違反をしたことはないだろうか?ちなみに、「街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をした者」は、軽犯罪法違反なのだが、身に覚えはないだろうか。
話を戻して、ツジモトに関するニュース番組の報道を見ていて、ステレオタイプのように言われたのが、秘書給与のネコババテクニックを誰に指南されたかという点を本人が明らかにしないのに対して、「真実を語るべきだ」ということだ。「真実を語りますか、それとも人間やめますか」てな感じだった。
マスコミは、「真実」が大好きである。金科玉条のごとく振りかざす。しかし、ツジモトの件を自分のこととして考えた場合、仮に所属する組織から不正な方法を指南されていたとしても、それが真実だからといってしゃべるだろうか。わしだったら、話さない。何も殺人を指南されたわけじゃない。世話になった組織を裏切らないだろう。逆に、ここでぺらぺらとしゃべる人間を周囲の人々が認めるだろうか。「真実を報道するのがマスコミの使命」なのだそうだが、だからといって、誰もが、いつなんどきでも真実を語る義務を負っているわけではない。思い上がってはいけない。真実は、神のみぞ知るのだ。
神の話が出たところで、新約聖書に次のような話がある。
イエズスが人々に教えを説いていると、ユダヤ教の律法学者たちが姦通の現行犯で捕まった女を立たせて、イエズスに対して、「この女は、姦通をしているときに捕まった。モーゼは、律法の中で、このような女は石を投げて殺すようにと命じている。あなたはどう考えるか。」とたずねた。イエズスを試して、訴え出る口実を作ろうとしたのだ。すると、イエズスは、こう答えた。「あなた方のうち罪を犯したことの無い人が、まず、この女に石を投げなさい。」すると、人々は一人、また一人と去っていった。
考えさせられるエピソードだ。ユダヤ教の律法学者たちは、目障りなイエズスを排除しようとして難題をふっかけた。しかし、戒律至上主義の律法学者たちであっても、己の罪の前に黙るしかなかったのだ。この話に関して、ある日本の作家が、日本人だったら、イエズスに言われても、平気で石を投げつけたのではないか、と書いていた。残念ながらそんな気がする。 |