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最近、メールでのご相談の中で、「これから古流居合を始めたいと思うのですが、古流を稽古する時、やはり居合だけでなく柔術や剣術なども一緒に稽古した方が良いのでしょうか?」との内容を多く頂きました。
そういう時、私は大抵「私は自分の流派しか稽古を知りませんが、居合だけでも、柔術、剣術の要素は全てと言って良いほど含んでおりますから、居合しかしないから、それしか出来ないという事は無いと思いますよ」と答えております。
これにつきまして、或いは誤解を与えている可能性もあるかもしれませんので、もう少し、私なりの考えを述べてみたいと思います。
前言の通り、私は居合術は剣術と柔術の、剣術は居合と柔術の、柔術は居合と剣術の要素を含んでいると考えております。それぞれは別々の理合であり、動きも異なりますが、内包している術理、或いは「動きの質」という意味では、全て共通していると思うのです。勿論、剣術は刀法であり、居合術は抜刀の妙を得る法であり、柔術は無手の妙を得る法に他なりません。問題は、その各操作の根本は、同じではないかという事なのです。
良く「居合だけでは巻藁や竹は斬れるようにならないし、剣術の人間と立合になったら勝負にならない」と、他の武術の方のみならず、居合をおやりになっている方が仰っているのを耳に致します。苦言になりますが、私は単にその方が、そのような稽古しかおやりになっていない、或いはそのような居合しかご覧になっていないからではないかと思うのです。
確かに私の稽古致します流派では、剣術、柔術、居合術を平行して行っております。しかし、それは単に居合だけよりも剣術、柔術を一緒に稽古した方が、目指す指標が解りやすくなる為であって、それぞれが別の目的をもっている訳ではありません。勿論、技の目的は最初に申しましたように異なりますが、居合術の初動作は、柔術の崩しの理論と全く同じですし、腕の動きは、即柔術の打ちに、足捌きは蹴りに繋がります。剣術の腕の上げ下げは居合の二の太刀そのままですし、柔術で得られる体捌きは全てに共通する法則を内包しております。
逆に言えば、居合の初動作、つまり、正座、座構から動きに入る段階で、柔術のように「崩す」動きが体現出来なければ、それは既に「形の形骸化」以外の何ものでもないと思うのです。形の形骸化につきましては、前回でも記しましたが、これは何も、形の改変だけの話ではありません。見た目が同じように動いていても、如何にそれらしく綺麗に動けていようとも、「術」として成り立つ動きが発生しなければ、既に形骸化が始まっていると言って良いのではないでしょうか。
例えば、受けに押さえつけられた状態から、初動作すら出来なくなってしまうようでは、これは術とは呼べません。初動作で受けを崩しながら、抜きを完成させる所で、「生きた形」と言えると思うのです。これは「力で崩す」という事ではありません。力ずくでは相手の力の強さによって崩せませんし、仮に崩せたとしても、それは術でも何でもなく、ただの「馬鹿力」で終わってしまいます。
正座、座構から、ただ動くだけ、ただ立つだけなら誰でも出来ます。誰でも出来るという事は、既に「術」、「技」と呼ばれるものには、直結しづらい訳です。本当に術に直結する動きを考えれば、恐らく、初動作すら「動けない」状態になってしまうのではないでしょうか。理由は簡単で、「動き方が解らない」からです。これは初動作だけでなく、居合、剣術共通の「腕の上下動」についても同じです。単に太刀を上げて下ろすだけであれば、これは誰でも出来る訳です。本来の、「術」と呼ばれる上下動は、例えどんな受けが付こうとも、柔らかく力を使わない動きで、相手を崩しながら目的を達する事が出来る動きでなくてはなりません。
しかし、そういう動きをしようと思いますと、まず「動く事」が出来なくなります。太刀をある程度の速度で振れば、太刀の重さで惰性的に振る事が出来ます。しかし、上げた太刀を「手首を、腕を使わずに下ろせ」と言われたら、大抵の人が下ろせなくなってしまいます。つまり、「術として動く事が難しい」という事を、そこで初めて認識できる訳です。私の妻は、まだ私と同じ師の門を叩きまして三年程しか経っておりませんが、既に成人男性が固く腕を押さえても、それを崩しながら打つ事が出来ます。つまり、この時点で、術を使える人間と使えない人間とでは、「鍔迫り合い」が成立しないという事になります。

ただし、この術技を居合だけで体得するには、大変な努力が必要になります。先ほども申しましたように、まず「術」に直結致します動きを考えますと、動く事が出来なくなってしまうからです。もちろん、常に受けが付いておりましたら、これを力ではない術技で崩すという事を早く理解する事が出来ます。しかし、その為だけに受けを付ける事は、現実的に効率の良い方法ではありません。通常の受けがつく場合は不可能になります。
ところが、これが柔術になりますと話は別で、大変目に見えやすい、解りやすい状態で稽古をする事が出来ます。柔術では、この「力ではない術技」を用いなければ、投げたり、取り押さえたりをする為の「受けを崩す」事が出来ないからです。同じように、腕の上げ下げで申しますと、剣術の稽古であれば、受けに打ち込んだ時、術に成り得ない動きであれば、太刀の当たった瞬間に、こちらが崩されてしまいます。つまりこれも、解りやすい状態で稽古が出来る訳です。
ここで間違ってはいけないのは「解りやすい=簡単」ではないという事です。解りやすいというのは、あくまでも「駄目」な状態が見やすいだけであって、簡単という訳ではありません。これは形全般に言える事ですが、動作の見た目が簡単なものほど、その難しさを理解しがたいものです。例えば、大抵の流派は、初伝の形で、その流派の極意というものを学びます。もちろん、この時点では極意には程遠い訳で、この初伝の形の「難しさ」は理解出来ない訳です。これを段階を得まして、例えばうちの場合ですと、剣術の表の形から入りまして、柔術の表、剣術の裏、柔術の裏、小太刀の表、居合の表・・・・という具合に進みまして、極意に進み、初めてその内容を理解していく訳です。
ですが、門外の人間から見れば、極意の形と言われるものは、たいていの場合、無駄を極力廃しておりますから、非常に単純で、一見すると「誰でも出来そう」な形に見えるかもしれません。しかし、本当にその形を遣う為には、既に極意が自分に備わっていなければなりません。つまり、極意とは形を覚えたから極意に達するのではなく、そこまでの積み重ねで既にあるものを、形によって確認するだけなのです。その為には、如何なる受けがつこうとも、如何なる妨害があろうとも、何の滞りもなく動ける術が備わっていなければなりませんし、そうでなければ、真の極意を遣う事は出来ない訳です。形だけ真似をするのであれば、或いは運動神経の良い方、器用な方なら、簡単に出来るかもしれません。しかしそれは、似ているだけであって、まったくの別物になってしまいます。実はこれは、初伝の形にも言える事なのです。動作が簡単なものほど、難しいというは、つまりこういう事なのです。

ただ動くだけなら誰でも出来ます。座った状態からただ立つだけなら誰でも出来ます。刀をただ上げて下ろすだけなら、誰でも出来る訳です。誰でも出来るという事は、それは「術」にも「技」にも成り得ないのです。術に成り得る「動き」という事はどういう事か、「腕の上下」とはどういう事か、それを考えて、動けなくなった時、つまり、動く事が難しいと悟った時から、本当の稽古が始まると思うのです。これは居合特有の「刀を抜く事」も全く同じです。抜くだけなら、誰でもとりあえずは抜けると思います。器用な人なら、一日目から、或いは初抜きから抜けてしまいます。そこには何の難しさも感じないのではないでしょうか。ところが、「右手を全く動かさないで抜いてみろ」と言われると、今度はどう動いて良いのか、まったく解らなくなってしまいます。ここで初めて、「抜く事が難しい」と知る訳です。座構、正座から動く事が難しい、抜く事が難しい、難しいから「術」になり得る動きを習得出来る。これが解っていれば、「座技なんて、座った姿勢で大刀を差す事なんて無いのだから、座っての稽古は意味がない」などという事は、恥ずかしくて言えない筈だと思うのです。
多くの方は、居合を始めたその日から、動く事、抜く事がとりあえず出来てしまいます。出来てしまうという事は、本当の難しさが解らないという事に他なりません。しかし、難しいといって動けないでは稽古になりませんので、段階として、初伝がある訳です。とりあえず動く事、抜く事が出来る初伝から入りますが、初伝の本当の動きを知る為には、段階を形というカタチで稽古、習得をし、極意までたどり着かなければ解らない訳です。「初伝であって極意である」と呼ばれる所以はここにあるのでは無いでしょうか。
ただ、最初に述べましたように、同じ極意を得るにしましても、居合だけをやるよりも、剣術、柔術を一緒にやりました方が「解りやすい」訳です。だからといって、居合だけで極意に至る事が出来ない訳ではありません。難しさを理解する稽古方法であり、それを指導して下さる先生がいらっしゃれば、居合だけでも極意に達する事は、充分に可能だと思います。勿論、私は自身の流派しか稽古しておりませんし、或いは他の流派ではまったく違う理由で剣術、柔術を取り入れているかもしれません。その場合、極意と言われる術理も、全く違う存在になる訳ですから、私の考えは成り立たなくなります。また、他流派の剣術、柔術を同時に習ったからと言って、理合が違いすぎてかえって混乱を招く事もあるでしょう。
しかし、剣術も柔術も居合術も、「武術」である限りは、その根元は変わらないと思うのです。つまり、動き始める前、そこに自分を存在させる事から、既に武術としての「術」に成り得る動きを追求し、体現しなくてはならないという事です。
形というものは、ただ手順を覚えて形を模倣すれば終わりなのではなく、その動きが何故「術」に成り得るのか、これを追求していかなければ、ただの形骸化した形の反復で終わってしまいます。それはつまり、形を模倣した段階から、自身の動きの質に武術としての変化が現れなければ、形について理解が出来ていないという事に他なりません。例え、伝統や歴史を重んじたとしても、武術になり得ない形骸化した形を闇雲に伝承しても、そこには何の意味もありません。鞘手ひとつとりましても、単に手を動かすのと、術として鞘手をするのでは、雲泥の差があります。本当に形を理解した動きであれば、その鞘手自体が「術」になっている筈なのです。簡単そうに見える「単純な動き」であればあるほど、その中に術技を見出す事は容易ではありません。それは、無駄を一切許さない動きだからです。
「動く事の難しさを知る事」、これこそが、もっとも武術を理解する近道で解りやすい方法ではないかと、私は思うのです。
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