其ノ五 「速さについて」


 剣術に限らず、古武術においての「速さ」というのは何かという事を、私は自流派の形を通して、常々考えておりました。単純に考えて、外見からの速度が遅い場合、これは間違いなく「遅い」という事なのだと思います。剣術が命のやり取りの手段と考える時、対峙する自身の太刀を、如何に速く敵手に確実に打ち込むかは死活問題であり、流派の理合の意義としましては、この点を充分に踏まえたものになっているはずです。ただ、ここで確認しなくてはならないのは、自身が体感する速度と、相手の体感する速度は、常に一致している訳ではないという事です。
 剣を修行する過程で、同門の低位者を見ますに、以前の私がそうだったように、多くのものが太刀筋を速く見せようと言う病気に取り付かれます。これは攻防に関わらず、或いは抜刀、納刀にまで及びます。「如何に速く見せるか」この一点に取り付かれた時、形はその効力を失い、崩れて参ります。しかし、本来、『完成された形』というものは、例えゆっくり、ゆったりの動作を行ったとしても、充分な速さを見出せるものなのでは無いかと考えます。逆にゆったりとした動作の中で速度が上がらない場合、自身が行う形の中に、何か大きな欠陥がある事を疑う必要があるのではないでしょうか。

 古武術においての速さを例える時、私は100m走の話を良く致します。例えば、100m走を「太郎」と「次郎」が走った場合、「太郎」が高い身体能力を持っていて、「次
郎」が並だった時、両者の間には大きな差が生まれてしまいます。これは才能に大きく
影響を受けますので、いくら頑張ったところで差はたいして縮まりません。
 しかし、古武術の本来の目的は、身体能力の差を無くし、その理論を得た人間であれば、機能的に身体を使いこなせる事を主眼においております。つまり、万人を戦闘能力の高い人間にする為の手段なのでと、私は考えたのです。

 では、「次郎」が「太郎」に勝つ為には、どうすればよいでしょうか?
 単純な事で、100mの距離を50mに縮めれば良いのです。50mで勝てなければ、10mに縮めればよいのです。

 「何を馬鹿馬鹿しい」とお思いになるかもしれません。最初から100mの定義がある
にもかかわらず、何故距離を縮めるのかとお思いになるかもしれません。ですが、剣
術や古武術における「速さ」というものは、つまりこういう事で、一般的な感覚で考え
ている身体の通り道を、どんどん縮めて効率よくする事が大きな目的なのです。勿論、
この術理を得た人間同士では、術者の才能の差が出ます。ですが、術理を得た人間と
得ていない人間の間には、どれ程の身体的な差が在ろうとも、そこには超えられない
壁が出現する訳です。私は自身の流派を修行する過程で、少なくても自身の流派の術
理においては、このようなものだと確信しております。それは質の転換であり、「ゆっくりゆったり振っても速い」動きになってこそ、形の中に含まれる術理が生き始めたという事だと思うのです。

 現在のような効率的なサプリメントや補助食品が無い時代、筋力的な発達に限界を迎えた時、古人はその動きの質自体を改善する事に努めました。結果、心得のないものから見ると、その動きは恰も奇術や魔術を扱うが如く見られたのかもしれません。日本の古来からの伝説や逸話の中にも、このような物語を沢山見つける事が出来ます。しかし、すべてがすべてフィクションなのでしょうか?
 確かに脚色された部分は多いかもしれません。しかし、その根底となったもの、それは現在伝承が残る古武術の中に、或いはそのヒントが隠されているのかもしれません。


 


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