其ノ四 「形について」


 形というものは古武術の流派に取りましては大変に大切なものであり、個人的には「流派そのもの」と考えております。駒川改心流の御宗家であります黒田師範が、その著書の中で「型は理論だ」と仰っております。私はこのご意見に全面的に賛成致します。形はあくまでも流派の理論を段階的に習得する為の手段であって、決して実戦を想定して組み立てられた「ひな形」では無い筈なのです。極論を言ってしまえば、その理論さえ理解し、反復により完璧に身に付いてしまえば、その後はその人間にとって、形は既に不必要になると考えております。

 これと同類の議論で、形の数やその形式で流派の優劣を論じる方を偶にお見かけしますが、正直な感想として、個人的には論外だと思っております。「形の数が少ないから技が少ない」、「形の中に突き技が無いから実戦的ではない」等々・・・。これらはすべて、あくまでも形が「実戦のひな形である」という事が前提で交わされている議論かと思います。しかし、形というのは、流派の特色を決定づける理論、これを一つ、二つ習得する為の段階的な手段であって、形の多い少ないは流派の優劣には全く関係がないと思います。重要な事は、その形が「理論を習得する為の段階的な手段」として、機能しているのか否かという部分にかかっております。例えば形を伝承、指導する立場の人間が、「形は実戦のひな形」だと解釈してしまいますと、安易な形の改悪が行われる可能性があります。つまり、「実戦的ではないので、こう改良しよう」、「ここは複雑すぎて実際には役に立たないので、簡略的にこう改善しよう」・・・等々。これを「改悪」と表現せずして、何と言えばよいのでしょう。このような改悪を経た形は、既に形骸化してしまっていると言って良いと思います。この改悪は、歴史に名を残すような達人でも行ってしまう例があり、如何に形を原型のまま留められるかの難しさを物語っております。

 形の誤解で、或いは流派の誤解といっても良いかもしれませんが、「門外の人間の無責任な批判」があります。これは私自身が経験した事ではありませんが、よく古武術や流派の議論において、流派外の人間が、その表面的な形のみを判断し、流派のすべてを理解したように批判する行為、これも上記にて申しました「形は実戦のひな形」と解釈した例が殆どではないでしょうか。門人ですら、奥に進まねば完全に理解出来ない流派の理合を、その表面のみで判断する事など、神にも出来ない事ではないでしょうか。

 それでは、形の動きは実際の技として使えないものばかりなのかと申しますと、或いは形の中には、技として充分に確立出来るものもあるかもしれません。ただ、ここで誤解してはならない事は、形の本来の性質は、理論を習得させる為にあるという事、その結果として、理解しやすい実戦の動きに即してるだけだと言う事。この事を理解しなくては、その本質を見逃してしまう可能性があると思うのです。

 優良な流派の形というものは、それを段階的に何の疑心も抱かず確実、正確に反復する事によって、明確に自身の身体に変化を及ぼすものだと考えております。私自身の経験から申しますと、それは身体の運用法から、時には身体の造りにまで及びます。これは最近、稽古の段階が奥に至り、特に顕著に感じます。勿論、これは個人差がありますし、「古流の形を稽古すれば、誰でも強くなれる」というのも、私は幻想だと思っております。何度も申しますように、形稽古というものは、あくまでも理論の習得であって、その理論をどう活かすかまでもを内包しております。しかしながら、これを有用に活用する為には、本人の素養が大きく関わっております。ので、古流を習ったから、即、剣道や柔道、空手の達人よりも強くなれるかというと、正直難しいのではないでしょうか。稽古する人間の中から強い人間(これも色々な解釈がありますが・・・)が平均的に生まれる割合から言えば、私はむしろ低いのではないかと考えております。形の習得というものは、完全な模倣が要求されます。或いは初期の段階では、まったく意味も分からず、ただ闇雲に効果があるのかないのか分からない作業を延々と繰り返さなくてはなりません。しかも、形がその機能を発揮するには膨大な時間がかかります。稽古すれば、表面的な事を覗いては、すぐに結果として表れる事もありません。それだけ、古流の稽古とは蜘蛛の糸を掴むような稽古の連続なのだと考えております。

 私は最近、古武術を「古」という事に抵抗を感じております。古流の形にて得た理合は、現在のあらゆる分野に応用出来るのではないか、つまり、これは全然古いものではなく、今も生き続けることが出来る理論なのではないかと考えているからです。過去より脈々と受け継がれる古流の形には、その本質である「命をかけた勝ち負け」に大きな意味があると思います。つまり、命のやり取りという極限状態の中で編み出された「形」の中には、それだけで人間の膨大な生命力を最大限に引き出してくれる可能性がある筈なのです。私が古武術を始め、そして現在も続ける理由の最も大きなものが、これです。大事な事は、流派の形をあくまでも信じ、実直に従う事が肝心かと思います。もし信じきる事の出来ない流派と自身が思ってしまったら、既にその人にとって、その流派は稽古する価値が失せてしまっているのではないでしょうか。細かい事を申しますと、流派の伝書に「短い刀を使え」とあれば、それに従わなくてはなりません。それは、その流派が短い刀を得意としているから・・(或いはそういう理由も含んでいるのかもしれませんが・・・)・・・という事ではなく、理論を段階的に習得する為に必要だからなのです。つまり、短い刀では不利だと思う前に、何故短い刀でなくてはならないのかを突き詰めて考えなくてはなりません。例えば、流派の定める「礼」一つとっても疎かにしてはいけません。形は既にそこから始まっているのです。

 


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