| 骨までしゃぶってやった | | Date Created: May 19, 2005, 07:33 PM |

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今日の朝日、すげ〜北東の位置から太陽が上がる、目で計ると最低7度から15度まで、地軸が半年で動いているような感じがする。
え〜ご版にも書いたが今ピーター・ルガーから帰ってきたぞ。圓堂君と二人で3時にウイリアムズバーグまでステーキを食べに行った。
圓「最近来たのいつ?」
me「う〜ん、最近来てないな、3年くらい? いやいや去年だ。」
圓「そんなに来てないの。」
me「前、来た時最悪だった。」
ともあれ、前に来た時は最悪だったんだよ。日曜日でそれも午後、おまけにメチャクチャ混んでて、いつも混んでいるんだけどそんな週末に行くアホいるか。お上りさんじゃあるまいし。いや本当はお上りさんを連れて行ったのだが、席は前、前と言うのは新築のダイニング・エリア。旧館の一番奥が一番いい席で、そこは常連とエライ人とかが陣取るその次にそのフロント部分のバーを隔てた新しい俺たちの座ったところ。そしてお上りさんは2階にあげられる。2階で食うのは完全に差別されていると思っていい。それだけハイアキーがしっかりとしている。ブルックリンで100年以上も続いている老舗の中の老舗のステーキ屋だ。ピーター・ルガーを知らないニューヨーカーはニューヨーカーでは無いと言っても言い過ぎでは無い。もぐりなのだ。似非ニューヨーカーなのだ。そのうえアメリカで「最も美味い」と全てのレストランの案内書に紹介されている。もちろんミシュラン・ガイドブックから日本の観光案内書からすべてだ。レストランの番付けでもザガドーからアメリカン・エアーラインのレストラン格付けからほぼ、ほとんどのフード・クリティックでアメリカNO1のポジションを何十年以上もキープしていると言うメチャクチャ有名でおまけにゲンナマしか取らない本当にいい意味での野蛮な店なのだ。
ブルックリンはマンハッタンの川向こう。それでも俺達はステーキは必ずピーター・ルガーでしかなかった。雨であれ雪であれ嵐だろうがピーター・ルガーはインスティチュションだったのだ。俺の誕生日のディナーは定番になりつつあったがワイフと別れてからはピーター・ルガーで誕生日を祝ったことがない。
まず長い話をここで書きはじめよう。
事の始めはステーキ、それでそのブルックリンとマンハッタンをつなぐウイリアムズバーグ・ブリッジ。
まず去年、日本に居るある友人がニューヨークに尋ねてきて、一緒にブルックリンまで行き、ピーター・ルガーでステーキ食べたのが事の始まりだった。
その日のピーター・ルガーのステーキは最悪で、あれだけ他人に自慢していたのに不味くて焼き方もいいかげんで、俺の注文のエキストリーム・レア(正式にはBlack and Blueと言う。レアではなく中が生の冷たい"たたき"のような焼き方。)ではなくミディアムで出て来やがった。彼は方はミディアム・レアを頼んであるのにウェルダンに近いもの。おまけにソースまで勝手につけて出てきやがった。俺は恥ずかしかったぜ。その日のピーター・ルガーは俺の顔を完全に潰しやがった。ふざけんなよだぜ。ウェイターよ。てめーこの野郎この国に来て何年なんだよ。ユーゴスラビアから来たってのはアクセント一つでわかる。この新米野郎、普通だったらそのステーキを送り返す。それにマネジャーを呼んで激しく文句言うんだぜ。普通はそれで事は済む。
しかし、そんな習慣を知らない日本人のゲストの前ではそんな事はできねえ。マネジャーを呼んで文句をたらたら言って、オーナーに手紙を出して、俺のアメリカの友人の報道関係者から社交界の連中から政府の機関まで全員に言いふらしてやりたかった。ピータールガーはつぶれると思ったくらいひどかった。もちろん行った時間と曜日と座らせられた場所でサービスの内容が決まってくるのは知っていた。服装でも観光客と見られるともうおしまいだ。英語ができないともっとひどい場所に座らせられるのも知っている。しかしな、あれはなかったぜ。長年のピータールガーの信頼があの一枚の失敗ステーキで潰れてしまった。
この話を圓堂君に話をした。彼は理解してくれた。確かに平日の3時から4時半までしかいい席はとれない。それに田舎モンとかガキ同士は相手にされない。
これで昨年の「あの魔のピーター・ルガーのステーキの日」はその上におまけがつく。
いつもは本当に中のいいヤツ同士でタクシーか車で行き、車あるいはハイヤーで帰ってくる。しかしその日に限って、ピータールガーまでハイヤーも迎えに来てくれない。橋が工事中で来れないというのだ。まだ日曜日の午後で、今日の様に気持ちもいいので俺は歩いて帰ってもいいと思った。だがアホのピーター・ルガーの若いウエイターは地下鉄を勧めやがった。日本の友人も歩くのを嫌がったので仕方なく反対方面の地下鉄の駅まで歩いて行った。するとその日は地下鉄が工事のため動いていない。ブルックリンでタクシーなんてつかまるわけはない。バスもマンハッタンなんかにいかない場所だ。最終的に橋を歩いて渡るしかなかった。日本の友人は最後までタクシーがつかまると思っていたようだった。
俺が最後にウイリアムズバーグブリッジを渡ったのは1984年だった。すでに昔の面影はなく、全く新しい橋になっていた。そんな事を俺が分かるわけがない。昔は30分もあれば十分に渡れたはずだった。橋の上だけ歩くのは15分くらいだと思ったが、昔の階段の場所に行くとその昔の階段がないではないか。また反対方向に約半キロひきかえして、ゆっくりとした上り坂を歩きだした。そして二人でウイリアムズバーグ・ブリッジを歩いて帰った。橋を渡りきるのに俺の言った時間よりも4倍以上長くかかった。友人は俺の事をアキューズしだした。俺が「ウソをついたとか、俺は自分を正当化するのに必死だ」とか。地下鉄が動かないのは俺が調べていなかったのは悪いが、これで二度とピーター・ルガーに人を連れてこない。来るのは最後だと決心したのだ。決心だ。決心したのだ。せっかく長い間ひいきにしたものに裏切られた気持ちだった。友人との関係も食べ物と交通機関で潰れるかと思った。
しかし今日のピーター・ルガーは昔のステーキに戻っていた。人目を気にしつつ、野蛮人より野蛮に最後の骨までしゃぶってやった。ざまーみろ。野蛮人見たいな客だぜ。俺みたいな客は来て欲しくねえだろう。しかし去年のステーキは一体なんだったのだろう?それにあのアホのウエイターはもういなかった。今度は地元のブルックリンの兄ちゃんがウエイターだった。当たり前だろう。例えで言えばあいりん地区のど真ん中で最高級料亭をやっているもんだからな。上は大統領から始まって社交界の貴婦人にスーパー大企業の会長どもに映画スター、或いはマフィアの映画のシーンに出てきそうな本物のブルックリンのドンから下はちんぴらまで来るそんなとこに偽もンはいらん。エエモンだけ食わせば良い。食べ物の恨みは恐ろしいぞ〜! |

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マンハッタンの墓場に今も桜が美しい。
話は変わるが、1984年にその橋の上でゲリラ・ディスコ・パーティをやった事があった。ゲリラパーティの主催を親友のジョン・クラビーとAmPmやピッザラウンジのオーナーのヴィト・ブルノー達で週に2回立ち上げていた。場所は地下鉄の構内とか空き家の桟橋とか、工場跡とかに巨大なスピーカーやターンテーブルを持ち込んで、当日に口コミで知らせるというもので、もちろん違法でアルコール類も売って儲けもあげると言う代物で、警察が入るまで続け、警察が入ると自然消滅すると言うメチャクチャなものであった。一度はニューヨークのナイト・クラブ・シーンの名物になったことがある。1990年にStreet the Beat と言うハードカヴァーの本も出た。 |
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