タクシー

冷房の効いた真夜中のタクシーに乗り込む。
閉じこめられた冷気が目や鼻の奥や鼓膜に貼り付く。
運転手はどちらまでとも訊かない。
私は一言、行き先を告げる。

タクシーは出発した。
町の灯りがゆっくりと流れ去っていく。
やっとのことで持ち出した鞄を一つきり、私は胸に抱えている。
「でも、あなたはもうすぐその鞄を手放すことになるのよ」
隣に座った女が正面を見たまま私に言う。
私には既にあらゆることがうまく思い出せなくなっている。
例えば、大事なこの鞄の、その大事の理由が思い出せない。
そして、例えば……。

タクシーは目的地に向かっている。
私は、ひとり後部座席に身を沈め、目を閉じる。
路面から伝わる振動は静かなざわめきに似ている。
ふと気付いて、服を調べる。
ひどく汚れている。軽く叩くと埃が舞った。
両方の手が微かに震え出す。
あわてて両手の指を組み合わせ、親指の付け根を噛む。
唇にも手にも感覚はない。
私の体は麻痺し始めている。

タクシーは目的地を目指している。
窓の外の景色は、もはや町中ではない。
私はひとり、顔中に脂汗を浮かべて座席に沈み込んでいる。
体中全ての関節が妙な具合に曲がろうとする。
特に右腕は、放っておくと胸の前で半円を描く奇妙な運動を勝手に繰り返す。
左手でなんとかその動きを押さえる。

タクシーは確かに目的地に近づきつつあるようだ。
だが、運転手がいない。
気がつけば、私がタクシーを走らせている。
後部座席には男の死体。胸にしっかりと鞄を抱えている。

タクシーは目的地に到着した。
粉々に砕けた岩が散らばる暗い場所。
タクシーの後部座席のドアは開いたが、降りる者はない。
運転席にも人影はない。
ヘッドライトの光とエンジンの音を、無人のタクシーが垂れ流す。

ふいにヘッドライトの光の中にさっきの女が現れる。
女の横の暗闇には、両側に一人ずつ別の誰かが立っている。
更にその外側の暗闇の中を走り回るたくさんのなにか。
女がこちらに向かって静かに言う。
「鞄はどこ?」
鞄はタクシーのボンネットの上にある。
女は、しかし、気付かない。
その鞄の底から黒い液体が滲み出し、ボンネットを伝って地面に落ちる。
地面が白煙を上げて溶けていく。
液体は流れ落ち、焦げる匂いが続く。
やがて白煙が晴れ、地面に人型の穴が現れる。
私は、その穴の中に横たわっていた。
「見つけたわ」
女はそう言ってタクシーに近づき、ボンネットの上の鞄に手を伸ばす。
ヘッドライトが消え、エンジンが止まる。

©  Annatto Shiquiso



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